一人の学者が書き写した、神代の巻

二巻のうちどちらを開いても、紙面の作りは変わらない。一行に十四字、黒い墨で記された漢文の本文に、読み下しを助ける朱の訓点が細かく添えられている。欄外にはさらに小さな字の注記が連なり、紙の裏側にも書き込みが続く。これらすべてが、鎌倉時代後期の学者・卜部兼方(うらべかねたか)一人の手から生まれたものである。

兼方が書写したのは、養老四年(七二〇年)に成った日本最初の正史『日本書紀』のうち、巻一・巻二にあたる神代巻である。全三十巻の冒頭を占めるこの二巻は、人代の天皇が現れる前の、神々の時代を漢文でつづる。本品はその二巻だけを伝える写本で、数ある写本のなかで完存する現存最古本として知られている。

「吉田本」の名は、これを伝えた家にちなむ。卜部家は諸国の神社に仕え、卜占(ぼくせん)を家業とした氏族で、鎌倉時代の末から吉田姓を名乗るようになった。そこからこの二巻も吉田本と呼ばれている。

国宝に指定された理由

本品の価値は、本文そのものだけにあるのではない。兼方の父・卜部兼文は、前関白一条実経らに『日本書紀』を講じており、兼方が紙背に書き付けた注記は、その講義の流れを受けて成立したものである。下巻の奥書には、弘安九年(一二八六年)春ごろに兼方がこの裏書を加えた旨が記されている。

兼方はのちに同じ素材をもとに『釈日本紀』を編んだ。これは現存最古の『日本書紀』注釈書で、書紀講読をめぐる諸家の筆記を集大成したものである。いわば本品は、その注釈書が生まれる前の段階を留めた、兼方自身の手控えにあたる。

奥書と本文の筆跡が一致することから、本文・注記ともに兼方の自筆と考えられている。書き込みの層を順に読み解くと、上巻本文の書写、下巻本文の書写、両巻への一度目の注記、両巻への二度目の注記という四段階の成立過程が想定される。本品が国宝に指定されたのは、昭和二十七年(一九五二年)三月二十九日のことである。

見どころ

この写本を守り伝えた一族は、後の日本の宗教史にも深く関わった。室町時代には吉田神社の神主・吉田兼倶(一四三五〜一五一一)が出て、体系的な教説である吉田神道を打ち立て、神道界で長く大きな勢力を保った。本品が伝える本文はさらに広く流布もしている。後陽成天皇は慶長年間、木製活字によってこの神代巻を刊行させており(慶長勅版)、勅版の一つに数えられる。

実物に向き合う面白さは、十三世紀の学者の手の動きをそのまま間近に見られる点にある。朱の訓点、欄外を埋める細字の注、一枚ごとに裏面へと続く書き込み。それらは、清書された美しい写しというより、紙の上で思考し続ける学者の作業の跡を留めている。一行十四字という規則正しい列の連なりと、注記の濃密さとを見比べると、神話の一文がどれほどの解釈を背負ってきたかが見えてくる。

訪問前に一点だけ留意したい。紙に書かれた古写本である本品は光に弱く、常設で展示されることはない。多くは特集展示や特別展のなかで、限られた期間のみ公開される。実見できるかどうかは時期しだいである。

周辺の見どころとアクセス

本品を所蔵するのは、京都市東山区にある京都国立博物館である。同館は所蔵品を頻繁に入れ替えるため、吉田本を目当てに訪れる場合は、事前に展示スケジュールを確認しておきたい。展示されていない時期でも、絵画・書跡・彫刻・陶磁にわたる充実した収蔵品を見ることができる。

立地そのものも訪ねる価値がある。通し矢で知られ、千体の千手観音立像が並ぶ三十三間堂は、博物館の真向かいに建つ。清水寺をはじめとする東山南部の寺々へは徒歩や短いバス移動で足を延ばせ、鴨川沿いの七条あたりからは京都の中心部へも戻りやすい。

Q&A

Qいつ博物館へ行っても見られますか。
A常時は見られません。光に弱い紙の古写本のため、吉田本が公開されるのは特別展や特集展示などの限られた期間に限られます。来館前に京都国立博物館の展示予定を確認してください。
Q実際には何を見ることになりますか。
A多くの場合、二巻のうち一巻の一場面が開かれて展示されます。黒い墨の十四字詰の本文、行間の朱の訓点、欄外の細かな注記が目に入ります。本文は漢文で、日本人でも読み解くのは難しいものですが、紙面の構成と注記の重なりは見て取れます。
Qほかの『日本書紀』の古写本と何が違うのですか。
A神代巻について完存する現存最古の写本であり、全巻が卜部兼方一人の自筆である点が大きな特徴です。さらにその注記は、最古の注釈書『釈日本紀』へと直接つながっています。
Q卜部兼方とはどのような人物ですか。
A鎌倉時代後期の卜部家の学者で、生没年は伝わっていません。本品を書写・注記し、『釈日本紀』を編みました。その家系はのちに吉田姓を称しました。
Q撮影はできますか。
A撮影の可否は展示や展覧会ごとに異なり、紙の脆弱な作品は撮影可の会場でも対象外とされることがあります。会場の表示に従い、不明な場合は係員にお尋ねください。

基本情報

名称日本書紀神代巻〈上下/(吉田本)〉
指定区分国宝(書跡・典籍)
指定年月日昭和二十七年(一九五二年)三月二十九日
時代鎌倉時代・十三世紀
員数・形状二巻、紙本墨書。下巻に弘安九年(一二八六年)卜部兼方の奥書
所在地京都国立博物館(京都市東山区茶屋町五二七)
所有者独立行政法人国立文化財機構
公開状況常設展示ではなく、展示替えにより不定期に公開。展示予定の確認を推奨

References

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/620
e国宝(国立文化財機構)日本書紀神代巻上下(吉田本)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&content_base_id=101084
文化遺産オンライン(文化庁)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/159545
京都国立博物館 ご利用案内
https://www.kyohaku.go.jp/jp/visit/info/

最終更新日: 2026.06.12