国宝「馮子振墨蹟〈画跋〉」 絵を失ってなお遺る元代文人の書

横幅およそ120センチ。掛軸としては異例の横長のこの一幅をめぐって、千利休が一通の書状を残している。当時の所持者が大幅の書を切り分けて数幅の掛物に仕立てることを考えたらしく、利休は「此ままにて然るべき候。切候ては曲無く候」と、現状のまま伝えるべきだと助言した。書は切られることなく今日まで原形を保ち、昭和27年(1952年)11月22日、国宝に指定された。利休の添状(正月六日付)も附(つけたり)として併せて指定されている。

正式な指定名称は「馮子振墨蹟〈画跋〉」。中国・元時代の文人、馮子振(ふうししん)の真筆で、公益財団法人常盤山文庫が所有し、東京国立博物館(東京都台東区上野公園13-9)に寄託されている。紙本墨書、一幅。

失われた画巻の跋文

画跋とは、絵巻や画巻の末尾に鑑賞者が書き加える後書きのことをいう。本作は、北宋(960〜1127年)の画家・易元吉(えきげんきつ)が描いた草虫図巻に対して、馮子振が記した跋文である。易元吉は猿猴の写生で名高く、草花や虫の観察描写にも優れた画家だった。跋文には、その草虫描写の見事さに感嘆した馮子振の言葉が連ねられている。

肝心の絵画部分は失われた。残ったのは、見えない絵を讃える言葉だけである。このため本作は「易元吉画巻跋」の通称でも知られる。

馮子振は1257年生まれ。没年には諸説がある。元朝に仕えた官僚であり、詩文を即座に書き上げる速筆で知られた文人だった。号は「海粟(かいぞく)」。本作にも「海粟道人」の署名が見える。筆勢は速く、躍動感のある字姿と評され、墨継ぎの跡をたどると一気に書き進めた呼吸がうかがえる。

指定の理由と価値

中国の一文人の書が、なぜ日本の国宝なのか。鍵は13世紀半ば以降に活発化した日中の禅僧の往来にある。海を渡る僧たちは経典とともに書画を将来し、中国の高僧や文人の筆跡は「墨蹟」として珍重された。馮子振自身は僧ではないが、日本からの留学僧と直接の交流があった。来日僧・無隠元晦(むいんげんかい)に書き与えた詩の墨蹟も別に国宝に指定されており、彼の筆が日本へ渡る回路の近くにあったことを示している。

日本に渡った墨蹟は、やがて茶の湯の床の間で第二の生命を得る。とりわけ大陸由来の書は一座の格を定める道具として重んじられた。本作に利休の添状が残ることは、16世紀の茶の湯の頂点に立つ人物がこの書を実際に手に取り、品定めし、その保存に関与した事実を意味する。

つまり国宝指定は、元代文人の真筆という書跡そのものの価値に加え、失われた北宋絵画の存在を証す史料としての価値、そして中世禅林から桃山の茶の湯へと続く日本の受容史の証人としての価値、この三つを同時に認めたものといえる。

見どころ

まず形に驚いてほしい。日本の床の間で見慣れた掛軸は縦長だが、本作は横へ横へと広がる。もとは画巻の末尾に連なっていた紙面だからである。展示室でこの幅の前に立ったら、左側に失われた草虫図を思い描いてみるとよい。11世紀の絵と14世紀の書が、一続きの巻物として存在した時間が浮かび上がる。

次に筆の速度。速筆で鳴らした馮子振の面目躍如というべきか、行の運びに淀みがない。墨の濃淡の移り変わりから、筆に墨を含ませ直した箇所が読み取れる。

末尾近くの「海粟道人」の署名も見落とせない。

実見の機会は限られる。常設展示はされておらず、東京国立博物館の総合文化展(主に東洋館)や特別展で時折公開されるほか、京都国立博物館「国宝」展(2017年)、東京国立博物館「茶の湯」展(2017年)、常盤山文庫創立80周年記念展(2023年)などに出品されてきた。訪問前に東京国立博物館または常盤山文庫の展示情報の確認を勧めたい。

所有者・常盤山文庫について

常盤山文庫は、実業家・菅原通濟(1894〜1981年)の蒐集を母体とする。本格的な蒐集が始まった昭和18年(1943年)を創立年とし、禅僧の墨蹟、中国・日本の絵画、中国陶磁、天神画像を四つの柱とするコレクションには、現在国宝2点、重要文化財21点、重要美術品18点が含まれる。名称は菅原の自宅があった鎌倉・常盤山に由来する。所蔵品は現在、東京国立博物館、九州国立博物館、慶應義塾ミュージアム・コモンズに寄託され、各地の展覧会にも貸し出されている。

周辺情報

東京国立博物館は上野公園の北端に位置し、JR上野駅公園口から徒歩約10分。中国書画は正門右手の東洋館で展示されることが多い。撮影可否は作品ごとに異なり、寄託品は撮影不可の場合があるため、キャプションの表示に従いたい。

上野公園には国立西洋美術館(ル・コルビュジエ設計の本館は世界遺産)、国立科学博物館、東京都美術館が徒歩圏に集まる。寛永寺や上野東照宮の金色殿も園内にある。食事や買い物は上野駅南側のアメ横が便利で、博物館の北西に広がる谷中の寺町を散策するのも楽しい。

Q&A

Qいつでも見られますか。
A常設展示はされていません。東京国立博物館の総合文化展での期間限定公開や、国内各地の特別展への出品時に鑑賞できます。東京国立博物館の展示スケジュールや常盤山文庫の公式サイトで事前に確認してください。
Q跋文の対象だった絵はどうなったのですか。
A易元吉筆と伝わる草虫図巻の絵画部分は失われ、現存しません。馮子振の跋文のみが独立した掛軸として残されています。
Q附指定の「千利休添状」とは何ですか。
A正月六日付の利休の書状で、この墨蹟を賞翫したうえで、横長の大幅を切り分けないよう助言した内容です。本紙とともに国宝の附(つけたり)として指定されています。
Q馮子振とはどんな人物ですか。
A1257年生まれの元代の文人・官僚で、即興の速筆で知られました。号は海粟。日本には本作のほか、来日僧・無隠元晦に与えた詩の墨蹟が国宝に指定されています。
Q観覧料はかかりますか。
A総合文化展での公開時は東京国立博物館の通常観覧料で鑑賞できます。特別展出品時は別途特別展の観覧券が必要です。料金は変わることがあるため公式サイトで確認してください。

基本情報

名称馮子振墨蹟〈画跋〉(ふうししんぼくせき)通称「易元吉画巻跋」
指定区分国宝(書跡・典籍) 指定番号00116
指定年月日昭和27年(1952年)11月22日
附指定千利休添状(正月六日)一幅
員数1幅(紙本墨書)
時代中国・元時代(14世紀)
筆者馮子振(1257年生、号・海粟)
所有者公益財団法人常盤山文庫
保管施設東京国立博物館(東京都台東区上野公園13-9)
公開状況常設展示なし。展覧会出品時のみ公開
アクセスJR上野駅公園口から徒歩約10分

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)馮子振墨蹟〈画跋〉
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/649
常盤山文庫(公式サイト)常盤山文庫について
https://tokiwayama.org/about
WANDER 国宝|馮子振墨蹟 易元吉画巻跋[常盤山文庫]
https://wanderkokuho.com/201-00649/

最終更新日: 2026.06.10