旧醸造試験所第一工場 — 日本酒近代化の聖地、東京・滝野川に佇む赤煉瓦建築
東京都北区滝野川、王子の街並みから少し奥に入った場所に、見事な赤煉瓦の建造物がひっそりと佇んでいます。通称「赤煉瓦酒造工場」と呼ばれるこの建物こそ、日本酒造りを伝統技から科学へと飛躍させた研究の舞台、旧醸造試験所第一工場です。明治時代に建てられた重厚な煉瓦造りの工場は、平成26年(2014年)に国の重要文化財に指定され、ヨーロッパ建築技術と日本独自の醸造文化が出会った貴重な遺産として、今なお往時の姿をとどめています。
明治政府が掲げた国家事業の地
醸造試験所は、明治37年(1904年)5月、大蔵省の所管のもとに設立された国立の研究機関です。場所として選ばれた滝野川の地は、幕末に滝野川大鳳製造所(大砲鋳造所)が置かれていた敷地の一部で、水利が良く、王子停車場(現在の王子駅)も近いことから「まことに得難き好適地」と評されました。
当時、日本酒造りは経験と勘に頼る伝統技でしたが、政府はこれを科学的に解明し、品質向上と人材育成を一挙に進める方針を打ち出しました。第一工場は、その中核施設として、蒸米・製麴・仕込み・発酵・貯蔵といったすべての酒造工程を試験するために建設されたのです。日本酒醸造に関する唯一の国立研究機関として、清酒酵母を発見した矢部規矩治をはじめ、多くの研究者と酒造技術者が日本各地から集い、近代日本酒の礎をここで築き上げました。
重要文化財指定の理由
本建造物は、平成26年12月10日に国の重要文化財に指定されました。指定理由としては、以下の三つの価値が挙げられています。
- 建築学的価値 — 当時最新鋭の建築技術を駆使した大規模な複合煉瓦造建築物として技術的に高い水準を示している。中空壁、ヴォールト天井、鉄骨梁と煉瓦アーチによる耐火床など、明治期の煉瓦建築の到達点を体現している。
- 産業遺産としての価値 — 醸造に関する唯一の国立研究機関の中核施設として、日本酒造りの近代化と酒類産業の発展に大きく貢献した。
- 歴史的価値 — 明治日本が西洋技術と伝統産業を融合させようとした取り組みを今に伝える、貴重な近代化遺産である。
こうした多面的な価値が評価され、文化財審議会の審議を経て国の重要文化財に登録されました。
注目すべき建築の見どころ
設計および監督を担当したのは、明治の三大建築家の一人に数えられる大蔵省技師、妻木頼黄(つまきよりなか)です。ドイツに留学経験を持つ妻木は、ドイツのビール醸造施設を手本として工場を設計しました。その結果、日本酒という極めて伝統的な醸造物のために、当時の西洋技術の粋を集めた施設が誕生したのです。
赤煉瓦の外観
外壁は化粧レンガ小口積みで仕上げられ、外壁上部にはレンガを櫛形に並べたロンバルド帯風の意匠が施されています。煉瓦は、渋沢栄一らが興した日本煉瓦製造株式会社の上敷免(じょうしきめん)工場(埼玉県深谷市)で焼かれたもので、近代日本煉瓦建築の代表的な素材として知られています。
中空壁とヴォールト天井
建物内部に踏み込むと、優れた建築技術が随所に顔を出します。厚い煉瓦壁の躯体には空気層を持つ中空構造が組み込まれており、外気温の変化が内部に及びにくい工夫がなされています。天井はヴォールト天井、二階の床には鉄骨梁(I字鋼)を1メートル間隔で配し、その間に煉瓦を半円形のアーチに積んで耐火床を構成しました。明治期としては最先端の構造です。
白色施釉煉瓦の旧麴室
建物内でひときわ印象深いのが旧麴室です。米に麴菌を繁殖させるこの部屋の壁面は、白色に施釉された珍しい煉瓦で覆われています。これは愛知県瀬戸地方の粘土から作られた可能性が高く、日本における施釉白煉瓦の使用例として、明治29年(1896年)竣工の日本銀行本店地下大金庫室に次いで二番目に古いものとされています。
リンデ式アンモニア冷凍機
創設当初は、ドイツで発明されたリンデ式アンモニア冷凍機が空調設備として導入されており、季節に左右されず一年を通じて醸造研究を行うことができる環境が整えられていました。中空壁との組み合わせは、当時としてはきわめて先進的な温度管理システムでした。
見学について
建物は国(文部科学省)が所有し、公益財団法人日本醸造協会が管理団体として保存・活用にあたっています。普段は個人向けの一般公開はされておらず、敷地内に立ち入ることもできませんが、特別に内部を見学できる機会があります。
毎年10月下旬から11月上旬の「東京文化財ウィーク」期間中には、内部が無料で特別公開されます。煉瓦造りの長い廊下や旧麴室、旧ボイラー室などをじっくりと巡ることができる、年に一度の貴重な機会です。また、10名から25名程度の団体であれば、日本醸造協会を通じて事前申し込みによる見学が可能です。
公開日以外でも、工場の北側に隣接する「醸造試験所跡地公園」から、フェンス越しに赤煉瓦の外観をいつでも眺めることができます。公園入口に立つ煉瓦造りの門柱も、当時の試験所の遺構です。
周辺の見どころ
滝野川・王子界隈は、東京の中でも歴史散策に適した一帯です。徒歩圏内には、江戸時代から桜の名所として知られた飛鳥山公園が広がり、北区飛鳥山博物館、紙の博物館、そして渋沢栄一を顕彰する渋沢史料館の三館が並んでいます。本工場の煉瓦を製造した日本煉瓦製造株式会社の創設者である渋沢栄一の足跡を、すぐ近くで辿ることができるのは興味深い縁といえるでしょう。
また、王子稲荷神社や王子神社、音無橋から始まる音無親水公園も近くにあります。日本酒に関心のある方には、地元王子の酵母を使った日本酒「飛栄」を体験できるツーリズム企画もあり、近代日本酒誕生の地を訪ねる旅にふさわしい街と言えます。
Q&A
- いつでも内部を見学できますか?
- 通常、個人向けの一般公開はおこなわれていません。毎年10月下旬から11月上旬の「東京文化財ウィーク」期間中に内部が特別公開されるほか、10名から25名の団体は日本醸造協会を通じて事前申込で見学できます。
- どうして日本酒の試験所がドイツのビール工場を手本にしたのですか?
- 設計者の妻木頼黄はドイツに留学した経験があり、ドイツのビール醸造施設には一年を通じて発酵研究をおこなうための温度管理技術が確立されていました。その先進的な手法を日本酒醸造に応用することで、当時最高水準の研究環境を実現したのです。
- 現在も醸造に使われていますか?
- 研究機能は別の施設に移転していますが、現在も醸造に関するセミナーや実習、利き酒会、各種イベントの会場として活用されています。旧ボイラー室などはイベントスペースとしても貸し出されています。
- 最寄り駅はどこですか?
- JR京浜東北線・東京メトロ南北線の王子駅から徒歩約8分です。都電荒川線の飛鳥山停留場からは徒歩約6分でアクセスできます。
- 建物は当時のままですか?
- 昭和20年(1945年)の空襲で被災し、屋根部分は戦後に葺き直されています。しかし、躯体の煉瓦壁、中空壁構造、ヴォールト天井、白色施釉煉瓦の旧麴室など、内部の主要な部分は明治期の竣工当時の姿をよくとどめています。
基本情報
| 名称 | 旧醸造試験所第一工場(通称:赤煉瓦酒造工場) |
|---|---|
| 指定区分 | 重要文化財(建造物)/平成26年12月10日指定 |
| 設計 | 妻木頼黄(大蔵省技師) |
| 竣工 | 明治37年(1904年) |
| 構造 | 煉瓦造、建築面積923.30㎡。仕込部、階段部、製麹部、機械部からなる |
| 所在地 | 東京都北区滝野川二丁目六番 |
| 所有者 | 国(文部科学省) |
| 管理団体 | 公益財団法人日本醸造協会 |
| アクセス | JR・東京メトロ王子駅から徒歩約8分/都電荒川線飛鳥山停留場から徒歩約6分 |
| 公開状況 | 東京文化財ウィーク(10月下旬〜11月上旬)に内部特別公開。団体見学(10〜25名)は日本醸造協会を通じて事前申込 |
参考文献
- 文化遺産オンライン「旧醸造試験所第一工場」
- https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/277003
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/102/00004774
- 公益財団法人日本醸造協会「重要文化財 赤煉瓦酒造工場」
- https://www.jozo.or.jp/redbrick/
- 北区飛鳥山博物館「旧醸造試験所第一工場」
- https://www.city.kita.tokyo.jp/hakubutsukan/rekishi/fureru/bunkazai/takinogawa/kyujyozosikenjyo.html
- 独立行政法人酒類総合研究所「赤レンガ酒造工場が重要文化財に指定されました」
- https://www.nrib.go.jp/topics/nribtopi180427.html
最終更新日: 2026.05.05