日本書紀神代上巻断簡——日本最古級の写本が伝える神話の世界

日本最古の正史として知られる『日本書紀』。その全三十巻のうち、冒頭に置かれた「神代上巻」(巻第一)の一部が、東京の地に大切に守り伝えられています。それが、国の重要文化財に指定されている「日本書紀神代上巻断簡」です。書写されたのは奈良時代末期から平安時代初期、およそ8世紀末から9世紀初頭。原本は失われて久しい『日本書紀』の数ある写本のなかでも、現存最古級にあたる稀少な一葉です。

千二百年以上の時を超え、墨の一筆一筆にいにしえの宮廷文化と神話伝承が息づくこの断簡は、日本という国の物語が文字へと結実した瞬間を、いまに伝えています。

『日本書紀』とこの断簡の意義

『日本書紀』は養老4年(720年)、舎人親王らの編纂によって完成した、わが国最初の勅撰正史です。漢文・編年体で記され、神代から第41代持統天皇の時代までを全三十巻にわたって叙述しています。とりわけ巻第一・巻第二は「神代紀」と呼ばれ、天地開闢、伊弉諾尊・伊弉冉尊による国生み、天照大神・素戔嗚尊らをめぐる物語など、日本神話の根幹をなす内容が記されています。

原本は現存せず、私たちが今日読むことができる『日本書紀』は、いずれも後世に書き写された写本に基づいています。その写本群のなかでも、奈良時代末期から平安時代初期にまで遡るものはごくわずかしか残されておらず、本断簡はそうした稀少な伝本の一つに数えられます。

なぜ重要文化財に指定されたのか

本断簡が国の重要文化財として保護されている理由は、大きく三つに整理することができます。

群を抜く古さ

書風から判断して、その書写時期は奈良時代末期から平安時代初期、およそ8世紀末から9世紀初頭と推定されています。これは、平安中期以降に多く作られた写本よりも一段と古く、『日本書紀』の現存写本のなかでも最古級に位置づけられます。同じ系統に属する僚巻として、奈良国立博物館所蔵の田中本(巻第十、国宝)や、大阪・四天王寺所蔵の巻第一断簡が知られており、これらと並ぶ貴重な伝本として研究者に重視されています。

「古本系統」に属する写本

『日本書紀』の写本は、大きく古本系統と、中世以降に主流となった卜部家本系統の二つに分けられます。本断簡は前者に属し、後の卜部家本では失われた、あるいは改められた本文の姿を伝えています。文献学の観点からは、こうした古本系統の写本に残る本文こそが、原本に近い姿を考えるうえで欠かせない手がかりとされており、その学術的価値はきわめて高いといえます。

訓点を伴わない純粋な漢文

本断簡には、後世に加えられる訓点(漢文を日本語として読むための補助記号)が一切記されていません。これは、平安時代の宮廷で『日本紀講筵』と呼ばれる講義が繰り返され、訓みが体系化される以前の姿、つまり書写された当時に読まれていたであろう「素のかたち」をそのまま伝えていることを意味します。古代の知識人が『日本書紀』をどのように受け取ったのかを偲ぶうえで、貴重な資料となっています。

本文に綴られた神話の世界

「神代上巻」は、日本文学史上もっとも有名な書き出しの一つで始まります。「古、天地未だ剖(わか)れず、陰陽分れず、渾沌として鶏子(とりのこ)の如く……」——天と地がまだ分かれず、陰と陽も別れず、すべてが鶏卵のように混然一体となっていた、という宇宙生成の場面です。やがて清く明るいものが上って天となり、重く濁ったものが沈んで地となり、その中から最初の神々が生まれてゆきます。

続いて、伊弉諾尊・伊弉冉尊が天浮橋に立ち、矛で潮をかき混ぜて淤能碁呂島を造る「国生み」、天照大神・月読尊・素戔嗚尊の三貴子の誕生、天照大神の天の岩戸隠れ、素戔嗚尊による八岐大蛇退治といった、日本神話を代表する物語が次々と展開されます。これらの叙述が現代に至るまで神道や日本文化の基層をかたちづくってきたことを考えれば、本断簡はまさに、その物語が宮廷の人々の手で書き写され、磨かれていった時代の息吹を今に伝える資料といえるでしょう。

伝来——歌人・佐佐木信綱の旧蔵品として

本断簡は、近代日本を代表する古典学者の一人、佐佐木信綱(ささき のぶつな、1872–1963)の旧蔵品としても知られています。信綱は明治から昭和にかけて活躍した歌人・国文学者で、東京帝国大学で26年にわたり教鞭をとり、『校本万葉集』の編纂を主導したことで広く知られます。第一回文化勲章受章者でもあり、日本の古典文献の保存と研究に生涯を捧げた人物です。本断簡が信綱旧蔵となったことで、複製『秘籍大観』(大阪毎日新聞社編)にも収録され、多くの研究者の眼に触れる機会を得ました。これによって、本断簡は単なる古い紙片ではなく、日本古典学の歩みそのものと深く結びつく、重要な文化的アイコンとなったのです。

『日本書紀』の世界に触れる——東京とその周辺

本断簡そのものは個人蔵のため通常公開されておらず、直接拝観することは難しいのが実情です。しかし、東京とその周辺には、『日本書紀』の世界に触れるためのさまざまな手立てが用意されています。

東京国立博物館(上野)

本館(日本ギャラリー)では、奈良時代から平安時代の古写経や書跡が定期的に入れ替え展示されており、特別展のたびに『日本書紀』をはじめとする古典籍の写本が他館から出品されることもあります。書跡・典籍の展示室を訪ねれば、本断簡と同時代の書写文化を肌で感じることができるでしょう。

国立国会図書館デジタルコレクション

本断簡を含む『秘籍大観』所収の複製は、国立国会図書館のデジタルコレクションを通じて、インターネット上で誰でも閲覧することができます。研究者だけでなく、関心を持つ旅行者にとっても、貴重な手がかりとなります。

奈良国立博物館

東京から足を伸ばすなら、奈良国立博物館に所蔵される国宝「日本書紀巻第十残巻(田中本)」は必見です。本断簡の僚巻にあたる9世紀の写本で、特別展などで折に触れ公開されています。

京都国立博物館

京都国立博物館には、卜部兼方筆の国宝『日本書紀神代巻〈上下/吉田本〉』をはじめ、複数の重要な『日本書紀』写本が所蔵されています。古本系統の本断簡と、後の卜部家本系統の写本を比較すれば、千年を超える書写の歴史を実感できます。

東京周辺の見どころ

古典文学に心惹かれる旅人には、東京の街そのものが豊かな副題集のように楽しめます。

上野公園と博物館群

JR上野駅からほど近い上野恩賜公園には、東京国立博物館をはじめ、国立西洋美術館、国立科学博物館などが集まります。春の桜、秋の銀杏といった季節の景物は、古典文学に通底する四季の美意識をそのまま味わわせてくれます。

湯島天満宮

文京区にある湯島天満宮は、平安時代の学者・菅原道真公を祀る神社として知られ、学業や文筆に関わる人々が篤く信仰する場所です。2月の梅花の頃は、古典の世界そのままの風情が漂います。

神保町古書街

皇居にほど近い神保町は、世界有数の古書街として知られ、和装本や江戸期の版本を扱う専門書店が軒を連ねます。慶長勅版『日本書紀』をはじめとする古典籍に出会える可能性もあり、古典愛好家にとっては聖地のような一帯です。

明治神宮

都心にありながら広大な森に包まれた明治神宮は、神話に描かれる神聖な森を彷彿とさせる空気をたたえています。明治天皇を祀る近代の神社ではありますが、玉砂利を踏みしめて参道を歩くひとときは、『日本書紀』が描く神々の世界へと想像を馳せる、静かな入り口となるはずです。

Q&A

Q日本書紀神代上巻断簡を実際に見ることはできますか。
A本断簡は東京の個人蔵となっており、通常は公開されていません。特別展に出品される機会もごくまれにありますが、事前の告知は限られます。直接の拝観は難しいものの、複製本や国立国会図書館のデジタルコレクションを通じて、その姿を高精細に確認することができます。
Qいつ頃書写されたものですか。
A書風から、奈良時代末期から平安時代初期、およそ8世紀末から9世紀初頭の書写と推定されています。720年の『日本書紀』完成からおよそ100年以内、現存する『日本書紀』写本のなかでも最古級に位置づけられる貴重な伝本です。
Q「古本系統」とはどのようなものですか。
A『日本書紀』の写本は大きく二系統に分かれます。中世以降に卜部家の手によって整えられた卜部家本系統と、それ以前から伝わった古本系統です。本断簡は古本系統に属し、卜部家本では改められた本文の古い姿を伝えており、原典に近い形を考える上でとくに重要視されています。
Q佐佐木信綱はどのような人物ですか。
A佐佐木信綱(1872–1963)は、明治から昭和にかけて活躍した歌人・国文学者です。東京帝国大学で26年にわたり教鞭をとり、『校本万葉集』の編纂を主導したほか、第一回文化勲章を受章しました。本断簡を所蔵していたことにより、多くの研究者の研究対象となり、その学術的価値が広く知られるようになりました。
Q『日本書紀』神代上巻の本文はどこで読めますか。
A岩波書店の日本古典文学大系や、小学館の新編日本古典文学全集などに、現代語訳・注釈付きの本文が収録されています。インターネット上でも、原文や現代語訳を提供するサイトが複数公開されており、訪日前に予習をしておくと、関連する博物館や神社の見学がいっそう深い体験になります。

基本情報

指定区分 重要文化財(国指定)
指定名称 日本書紀神代上巻断簡(にほんしょきじんだいじょうかんだんかん)
種別 書跡・典籍
書写年代 奈良時代末期から平安時代初期(8世紀末〜9世紀初頭)
原典の成立 『日本書紀』養老4年(720年)成立
内容 『日本書紀』巻第一(神代上巻)の断簡
形式 漢文本文のみ(訓点なし)
系統 古本系統
僚巻 田中本(巻第十、奈良国立博物館蔵、国宝)、四天王寺本(巻第一断簡、大阪)
主な旧蔵者 佐佐木信綱(歌人・国文学者、1872–1963)
所有 個人
所在地 東京都
公開状況 通常非公開(特別展などで稀に公開される場合あり)

参考文献

ジャパンサーチ「古事記・日本書紀」(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://jpsearch.go.jp/gallery/ndl-xxj8rzqBPk
奈良国立博物館「国宝 日本書紀巻第十残巻(紙背 性霊集)」
https://www.narahaku.go.jp/collection/1190-0.html
e国宝「日本書紀巻第十」(国立文化財機構)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&content_base_id=100249
『日本書紀』Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本書紀
近代日本人の肖像「佐佐木信綱」(国立国会図書館)
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/272
八木書店「『日本書紀』の主な写本一覧」
https://company.books-yagi.co.jp/wp-content/uploads/2018/02/72a070b9454dd0ccc8001f596c93ef66-1.pdf

最終更新日: 2026.04.26