細川家に伝わった、金で包まれた信国の腰刀

鞘の口から鐺(こじり)まで、全体が薄い金の板で覆われている。打ち出された六角形が隙間なく連なり、その一つひとつの内側には、中央の円を八つの小円が囲む九曜と、菱形に四弁の花を収めた花菱とが、交互に並ぶ。亀甲を繋いだこの文様は亀甲繋文(きっこうつなぎもん)と呼ばれ、長さ三四・八センチの鞘の上を、最後まで乱れることなく続いている。

これは腰刀(こしがたな)、すなわち鍔(つば)を持たず、腰に差して用いる短い刀である。正式には「金造亀甲繋文腰刀拵〈中身銘信国〉」と呼ぶ。拵(こしらえ)と中身とで時代が異なるのが、この一口の見どころでもある。金で飾った華やかな刀装は桃山時代のもの、内に納まる刀身はそれより前の室町時代、山城国(現在の京都府)の信国派の手になる。昭和六〇年(一九八五年)六月六日、両者を一具として重要文化財に指定された。拵の総長は四七・〇センチ、柄(つか)の長さは一二・二センチを測る。

所有は東京都内の個人で、常時公開されているものではない。ここでは、この一口の見方と、それが生まれた時代の背景をたどってみたい。

鍔を持たぬ金の拵

拵は合口(あいくち)造である。多くの日本刀が柄と刀身のあいだに鍔を挟むのに対し、合口は鍔を設けず、柄口と鞘口とを突き合わせる。そのため視線は金の一条をそのままたどることになる。柄は金打鮫(きんうちざめ)、つまり金色に仕上げた鮫皮を着せ、裏の中央で合わせている。鞘は亀甲繋文を打ち出した金の薄板で包み、継ぎ目を棟(むね)の側へ寄せて表に出さないようにしている。

こうした見せ方は桃山時代の好みであった。室町以来の地味な刀装とは別に、この時代には柄や鞘を研出鮫(とぎだしざめ)、金蛭巻(きんひるまき)、金熨斗付(きんのしつけ)などで飾るものが流行する。全身を文様入りの金で包んだ小さな刀は、武器であると同時に持ち主の格式を示す品でもあった。完全な姿で残る例は多くない。その希少さが、この一口が選ばれた大きな理由である。

金具も丁寧に見たい。縁頭(ふちがしら)は赤銅(しゃくどう)地で、表面には魚子(ななこ)と呼ばれる細かな粒を打ち、その上に桐紋と九曜紋を色絵の高彫であらわす。九曜は鞘の文様にも繰り返される紋である。縁には金の細い覆輪をめぐらせる。目貫(めぬき)は一疋の獅子を金で丸彫にしたもの、小柄(こづか)は金の魚子地に獅子と牡丹を金の高彫であらわす。腰に差した刀を留める栗形(くりがた)と折金(おりがね)までも金で造り、鑢(やすり)をかけた地に鶴亀・松竹を毛彫(けぼり)で線描する。いずれも長寿を寿(ことほ)ぐ図柄である。

内に納まる刀身と、その彫物

刀身を抜けば、宮廷風の金から、引き締まった鋼の調子へと一変する。平造(ひらづくり)、三つ棟(みつむね)、反りの浅い小さな脇指で、長さは三一・八センチ、反りはわずか〇・二センチにすぎない。地鉄(じがね)は板目がやや流れ、その上に映り(うつり)と呼ぶ淡い影が立つ。刃文(はもん)は直刃(すぐは)で、匂口(においぐち)が締まる。帽子(ぼうし)は浅くのたれて、先で小丸に深く返る。

鋼に刻まれた彫物が、この刀の性格を示している。表には不動明王をあらわす梵字(ぼんじ)の種子(しゅじ)と、まっすぐな素剣(すけん)を彫る。不動明王は揺るがぬ姿で知られ、その不動心は武士の覚悟に重ねられた。裏には毘沙門天の種子を彫る。毘沙門天は甲冑をまとう守護神で、武人に篤く信仰された。こうした密教的な彫物は信国派の特色であり、行光・正宗・貞宗の系譜から受け継がれたものとされる。

茎(なかご)は時代を経てやや磨上げ(すりあげ)られ、先は栗尻(くりじり)、鑢目は勝手下がり、目釘孔(めくぎあな)は三つを数える。長く使われてきた証である。銘は「信国」と二字を切る。信国派は十四世紀の京で了戒(りょうかい)の弟子に始まり、数代を重ねた。今日多く見かけるのは応永の年紀を切る十五世紀前半の工で、室町期の信国はその流れのなかに位置づけられる。

後藤の手と、細川の名

金具のうち獅子の目貫と獅子牡丹の小柄は、後藤家の作と考えられている。後藤家は十五世紀に後藤祐乗(ゆうじょう)が興した装剣金工の名門で、足利将軍家に始まり、信長・秀吉・徳川家へと仕えた。魚子地に高彫で図を据える上品な作風は、武家の正式な装いの基準となり、獅子は彼らの得意とした画題であった。ただしこの極めは銘によるものではなく伝承であるから、確かな推定として受け止めておきたい。

この拵は細川家に伝来し、初代藤孝(幽斎、一五三四〜一六一〇)と、その子忠興(三斎、一五六三〜一六四五)の所用と伝えている。幽斎は『古今和歌集』の解釈を秘伝として受け継いだ歌人にして武将、三斎は茶人千利休の高弟七人の一人に数えられた大名である。細川家は戦乱の十六世紀を越えて多くの家宝を江戸の世へと持ち伝え、その遺産の多くは今も東京の旧邸に残る。こうした人々に結びつく金の小刀は、風雅と武とがひとつの手に握られていた時代へと繋がる一筋の糸といえる。

永青文庫で細川家の世界に触れる

腰刀そのものは個人蔵のため、その世界に最も近づける場所は、東京都文京区目白台の永青文庫である。細川家の旧下屋敷跡に建ち、家に伝わった美術工芸品や古文書、刀剣・刀装具などを収め、年に数回のテーマ展で入れ替えながら公開している。所蔵は九万点を超え、国宝・重要文化財に指定された品も含まれる。

建物は昭和初期に細川家の家政所として建てられたもので、樹々に囲まれた高台に立つ。隣には旧下屋敷の池泉回遊式庭園を活かした肥後細川庭園が広がり、観覧の前後に三十分ほど歩いてみるのもよい。ここを訪れると、桃山の金の小刀が、ただの展示札の向こうではなく、刀も歌も等しく重んじた一家の遺品の一つとして見えてくる。

Q&A

Qこの刀は美術館で見られますか。
A通常は見られません。腰刀は東京都内の個人蔵で、常設展示はされていません。細川家ゆかりの刀剣や刀装具をご覧になりたい場合は、文京区の永青文庫をお訪ねください。同家の所蔵品をテーマごとに公開しています。
Q短い刀なのに、なぜ鍔がないのですか。
Aこれは合口(あいくち)造の拵で、柄と鞘を直接突き合わせ、長い刀に付く鍔を設けません。腰に差す小ぶりな刀に向いた様式で、全長を一続きの装飾面として扱えます。本作ではそれが文様入りの金の鞘となっています。
Q刀身と拵は同じ時代のものですか。
Aいいえ。刀身のほうが古く、室町時代に山城の信国派の工が鍛えたものです。金の拵はそれより後、桃山時代に造られました。価値ある古い刀身を、新しく流行の装いに収め直すことは、当時よく行われていました。
Q刀身の彫物にはどんな意味がありますか。
A表には不動明王を示す梵字の種子と、まっすぐな素剣が彫られています。不動明王の揺るがぬ姿は武士の覚悟に重ねられました。裏には武人に信仰された毘沙門天の種子を彫ります。こうした彫物は信国派の特色です。
Q金具は誰の作ですか。
A獅子の目貫と獅子牡丹の小柄は、装剣金工の名門・後藤家の作と考えられています。魚子地に獅子を据える図柄は後藤家の得意としたものでした。ただし銘による確認ではなく、伝承に基づく推定です。

基本情報

名称金造亀甲繋文腰刀拵〈中身銘信国〉
区分工芸品・重要文化財
指定年月日昭和六〇年(一九八五年)六月六日
員数一口
寸法拵:総長四七・〇センチ、柄長一二・二センチ、鞘長三四・八センチ/中身:長三一・八センチ、反り〇・二センチ
時代拵:桃山時代/中身:室町時代(山城国・信国派)
所在地東京都
所有者個人
公開状況常設公開なし。細川家ゆかりの刀剣・刀装具は文京区の永青文庫で公開される

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース「金造亀甲繋文腰刀拵〈中身銘信国〉」
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/6698
永青文庫(公式サイト)
https://www.eiseibunko.com/
刀剣ワールド「信国」著名刀工・刀匠名鑑
https://www.touken-world.jp/sword-artisan-directory/nobukuni/
名古屋刀剣ワールド「三所物(目貫・小柄・笄)とは」
https://www.meihaku.jp/sword-basic/mitokoromono/

最終更新日: 2026.06.14