八百年の筆跡を一帖に収めた古筆の集成

一枚の名画でも一巻の経典でもない。台紙を開くと、大小さまざまな紙片が金砂子を散らした厚手の料紙の上に、びっしりと貼り並べられている。古いものは奈良時代、八世紀の筆。新しいものは室町時代、十五世紀。それらが縦三九・七センチ、横三四・九センチの折本一帖に収められ、合わせておよそ八百年にわたる日本の書の歩みを一冊のなかに抱え込んでいる。

これが京都国立博物館が所蔵する手鑑「藻塩草」である。手鑑とは、経巻や歌書、消息といった巻物や冊子から優れた筆跡の一部を切り取り、台紙に貼り集めて一帖に仕立てたものをいう。切り取られた断片は古筆切と呼ばれ、本帖にはその古筆切が二百四十一葉あまり収められている。誰の筆と見るか、どの古筆をどう並べるか。その配列をたどると、後世の人々が過去の書をいかに見分け、慈しんできたかという鑑賞の歴史そのものが立ち現れてくる。

古筆鑑定の中心にあった台帳

本帖を特別な存在にしているのは、収められた古筆切の質だけではない。かつてこの帖が担った役割にある。江戸時代を通じて、日本における古筆鑑定の中心を占めたのが古筆家という一族であった。ある断簡が誰の筆になるものか、その判定は古筆家のもとで下された。「藻塩草」は、その古筆家に台帳として代々受け継がれた由緒深い一帖である。手元の断簡を本帖の古筆切と照合できることは、すなわち真筆の裏づけを得るに等しかった。

こうした来歴は、本帖の編集に注がれた周到さを裏づけている。編者は見栄えのよい紙片を寄せ集めただけではない。奈良から平安、鎌倉、室町へと連なる時代の筆跡を等級づけて並べ、鑑定の基準として用いうる体系として築き上げた。その価値は早くから認められ、昭和二十七年(一九五二年)三月二十九日、国宝に指定されている。出光美術館の「見ぬ世の友」、MOA美術館の「翰墨城」、陽明文庫の「大手鑑」とともに、最も名高い手鑑の一つに数えられてきた。

なお一点、葉数には資料によって差がある。国宝指定の名称では「二百四十一葉」と数えるが、所蔵館である京都国立博物館の解説では二百四十二葉とする。脆い断簡を集めた帖を年月をかけて数え直す際にはこうした小さな相違が生じやすく、いずれの数も信頼できる資料に見える。

断簡を一葉ずつ見る楽しみ

「藻塩草」の見どころは、収められた個々の古筆切にある。そのいくつかは、日本の書の歴史における画期となった名筆である。とりわけよく知られるのが「高野切」の一葉で、最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の古い写本から切り取られた断簡にあたる。高野切は流麗な仮名の規範とされ、細く均質な線の運びは今日でも書を学ぶ者の手本とされている。

一方で、類例の少なさゆえに貴重とされる葉もある。『人麿集』の断簡である「室町切」は、本帖の外に現存が一葉確認されるのみで、ほとんど比べるべきものがない。隣に置かれた「岡寺切」も、同じ三十六人家集のうち源順集から出た断簡で、やはり伝わる数は少ない。いずれも十二世紀初頭の仮名の優品である。近寄って見ると、筆を上げ、押さえるたびに線が細り、また太る。一字ずつ眺めるために書かれたものではないのに、その近さで見てこそ応えてくれる筆致がある。

このほか、『新撰類林抄』の断簡「南院切」のような珍しい一葉や、和漢の詩歌を集めて朗詠した『和漢朗詠集』に由来する「法輪寺切」も収められている。これらを並べて見れば、奈良時代の写経に見られる端正な縦の連なりから、平安の宮廷に育まれた仮名ののびやかな線へと、筆が幾世紀をかけて移り変わるさまをたどることができる。

拝観について、そして周辺

「藻塩草」は、京都市東山区にある京都国立博物館に収められている。紙に書かれた多くの国宝と同じく光に弱く傷みやすいため、常時公開されているわけではない。同館の展示室に並ぶのは限られた期間に限られ、ときに手鑑をめぐる特別展へ出陳されることもある。本帖そのものを目当てに訪れる場合は、展示されていると決めてかからず、事前に同館の展示予定を確かめておきたい。

本帖が展示されていない時期でも、周辺には足を運ぶ価値のある場所が揃っている。博物館の正面には、千一体の観音像で知られる長大な木造建築、三十三間堂が向かい合って建つ。少し坂を上れば清水寺や東山南部の路地が広がり、京都駅周辺へもバスやタクシーで数分の距離にある。博物館を起点に、市内でも名高い寺々を一日で巡る行程を組むこともたやすい。

Q&A

Q手鑑とは何ですか。
A古い巻物や冊子から優れた筆跡の一部を切り取り、台紙に貼り集めて一帖に仕立てた書の見本帖です。さまざまな筆跡を並べて見比べ、味わえるように編まれています。
Q「藻塩草」はなぜ重要なのですか。
A江戸時代に古筆鑑定の中心を担った古筆家の台帳として伝わった一帖だからです。手元の断簡を本帖と照合できることが、筆者を判定するうえでの基準となりました。
Q収められた断簡はどのくらい古いものですか。
A奈良時代の八世紀から室町時代の十五世紀まで、幅広い時代にわたります。帖全体としては昭和二十七年(一九五二年)に国宝へ指定されました。
Qいつでも展示を見られますか。
Aいいえ。紙の作品で傷みやすいため、公開は限られた期間に限られます。本帖を目当てに訪れる際は、京都国立博物館の展示予定を事前に確認してください。
Q博物館へはどう行くのが便利ですか。
A京都駅からバスで短時間、徒歩でも二十分ほどです。正面に三十三間堂が建っており、目印になります。

基本情報

名称手鑑「藻塩草」(二百四十一葉)
種別書跡・典籍
指定区分国宝(昭和二十七年三月二十九日指定)
員数一帖
形状両面折貼装
寸法縦三九・七センチ、横三四・九センチ
時代奈良〜室町時代(八〜十六世紀)
所在地京都国立博物館(京都市東山区茶屋町五二七)
所有者独立行政法人国立文化財機構
公開状況限られた展示期間のみ公開。常設展示ではない

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/606
京都国立博物館 名品紹介「手鑑『藻塩草』」
https://www.kyohaku.go.jp/jp/collection/meihin/shoseki/item02/
e国宝(国立文化財機構)「手鑑『藻塩草』」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=101051&content_part_id=000&content_pict_id=000
文化遺産オンライン(国立情報学研究所)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/150191

最終更新日: 2026.06.12