南蛮人渡来図屏風とは何か
左隻に目を向けると、まず船の大きさに驚く。六扇のうち左の三扇いっぱいに、丸い帆をたたんだ大型の南蛮船が描かれ、甲板にはふくらんだ半ズボンと丈の高い帽子をまとった人々がひしめいている。海岸では小舟から荷が次々と陸揚げされ、松の木の下では南蛮人がその到着を待ち受ける。視線を右隻に移すと、舞台は陸に上がる。画面の下方から中央の橋へと南蛮人の一行が列をなし、対岸では松林と家並み、商店を越えた高みに、回廊をめぐらせた南蛮寺が建つ。その門前には一行を迎える宣教師が立ち、見物の庶民が大勢集まっている。
この六曲一双の屏風は「紙本金地著色南蛮人渡来図」と呼ばれる。南蛮とは、十六世紀後半に南方の海路をたどって日本へやって来たポルトガル人・スペイン人を指す当時の言葉である。彼らの来航がもたらした珍奇な品々や見慣れぬ風俗は、人々の好奇心を強く刺激した。同じ画題の屏風は現在およそ七十点が確認され、近世初期風俗画のなかでも、洛中洛外図に並ぶ人気の主題であったことがうかがえる。
本図は紙に金箔を霞形に貼り、その上に岩絵具で彩色する。各隻は高さ約一五四センチ、幅約三六四センチに及び、一双を並べれば数メートルの壁面を占める。現在は東京国立博物館(東京・上野)に収蔵されている。
数ある南蛮屏風のなかで、本図の図様には一つの特徴がある。異国の港や想像上の都市を描かず、舞台がすべて日本国内に限られていることである。船の入港から荷揚げ、行列、教会まで、一連の場面がこの国の土地の上で展開する。
重要文化財に指定された理由と価値
本図は昭和三十五年(一九六〇)六月九日、対となる「紙本金地著色世界及日本地図」の屏風一双とともに重要文化財に指定された。南蛮人渡来図と地図屏風は同じ指定のもとに置かれ、来歴も一つである。両者は描写の確かさだけでなく、日本が外へと目を開いた一時代の記録としても高く評価されている。
その時代とは、日本が海の彼方へ視線を向けた短い数十年であった。天文年間以降、ポルトガル船が九州の港に来航し、鉄砲や生糸、珍しい動物、そしてイエズス会の宣教師を運んできた。来訪者への関心の高まりを背景に、絵師たちは南蛮屏風という一つの画題を育てていく。現存する作例のなかでも、本図は比較的早い時期の古様な図様を示すとされ、その点が美術史上の重みにつながっている。
本図には款記がない。これは南蛮屏風の大半に共通する特徴である。緊密で精緻な描写と、群像を破綻なくまとめる構成力から、本格的な技量を備えた狩野派の絵師の手になると考えられている。筆者を一人に特定するには至っておらず、記録の上では狩野派の作として扱われている。
対となる地図屏風が、本図の価値にもう一つの層を加える。一隻には大西洋を中央に置いた卵形図法の世界図が描かれ、ポルトガル付近を起点とする世界一周航路が朱線でたどられ、その先端は長崎へと達する。もう一隻の日本図は、中世以来の行基図の系譜を引きながらも、海岸線、とくに九州の形を新たな正確さで写し取っている。これらの地図は、宣教師が東へもたらした欧州の地理知識をもとに、天正二十年(一五九二)ごろ日本で制作されたものと考えられ、国内で作られた地図屏風の最初期の例に数えられる。
細部に見る見どころ
南蛮屏風の面白さは、その情報の密度にある。足を止めてゆっくり眺めれば、描かれた港は好奇心の時代の一覧表に変わる。
左隻では、まず荷の動きを追ってみたい。小舟が浜に寄せ、人々が荷を運び上げると、松の木陰では南蛮人がその受け取りを待っている。長身で鼻が高く、ふくらんだズボンと幅広の帽子を身につけた南蛮人の姿は、当時の人々にとって、陸揚げされる品々と同じほど珍しいものであった。
右隻では、行列をたどって画面上方の教会へと視線を導く構成になっている。回廊をめぐらせたこの建物は南蛮寺、すなわち禁教以前に日本の町に建っていたキリスト教会を表す。その門前で宣教師が到着の一行を迎え、庶民は意味の分からぬ儀式を遠巻きに見つめる。行列の先頭に立つ人物は、当時の見手にはカピタン・モール、すなわちマカオ総督を兼ねたポルトガル船の司令官として読み取られたであろう。
金の使い方にも注目したい。画面全体を金で覆うのではなく、霞のように漂う雲形に金箔を貼ることで場面を縁取り、人物を手前へ引き立てている。大名の座敷に立てられた当時、この屏風が求めていたのは、そうした静かな数分間の鑑賞であった。
東京国立博物館とその周辺
本図を収蔵する東京国立博物館は、上野公園の北端に位置し、上野駅から歩いてすぐである。明治五年(一八七二)に始まる日本最古の博物館で、日本美術を扱う本館、アジアの美術を集めた東洋館、考古を中心とする平成館、そして法隆寺宝物館など複数の建物からなる。
上野公園は一日を過ごすに足る場所である。徒歩圏内には、ル・コルビュジエの設計で世界遺産に登録された本館をもつ国立西洋美術館、国立科学博物館、上野動物園、蓮の茂る不忍池がある。公園の高みには、江戸を北東から守るために開かれた寛永寺と、小さいながら装飾の豊かな上野東照宮が控える。
南蛮屏風をさらに見たい人には、狩野内膳の款記をもつ名高い一双を所蔵する神戸市立博物館や、もう一双の優品を蔵する東京のサントリー美術館がある。いずれも重要文化財に指定され、常設ではなく会期を限った展示で公開される。
Q&A
- この屏風は東京国立博物館でいつでも見られますか。
- いいえ。金地の屏風は光に弱く、ほかの作品と入れ替えながら期間を限って公開されます。来館前に展示スケジュールをご確認ください。本図が出ていない時期でも、神戸市立博物館やサントリー美術館で同じ画題の南蛮屏風を見ることができます。
- 「南蛮」とはどういう意味ですか。
- 字義どおりには「南方の蛮族」を指します。東南アジアを経由する南の海路から来航したポルトガル人・スペイン人を、当時の日本人がこう呼びました。やがてこの語は、絵画や貿易品、料理にまで広がる一つの呼び名となりました。
- 誰がいつ描いたものですか。
- 款記はなく、南蛮屏風の多くと同様に作者は特定されていません。狩野派の絵師の作と考えられています。詳細な文化財記録では十六世紀末から十七世紀前期に位置づけられ、国指定文化財等データベースでは時代を江戸と記します。一六〇〇年の出来事に結びつく伝来は、より早い年代を支えるものです。
- どのような経緯で東京に伝わったのですか。
- 南蛮人渡来図と対の地図屏風は、ともに備前(現在の岡山県)の池田家に伝来しました。慶長五年(一六〇〇)、池田輝政が織田秀信の岐阜城を攻めた際の戦利品と伝わります。平成二十八年(二〇一六)に登録美術品となり、現在は東京国立博物館に収蔵されています。
- 多くの南蛮屏風のなかで、本図が特別なのはなぜですか。
- 理由は二つあります。一つは、現存作例のなかでも図様が古様とされ、ほかの屏風の年代を考える手がかりになる点です。もう一つは、初期の地図屏風と対で残ったことです。外から来た人々をどう描いたかと、広い世界をどう描き始めたかが、一組の作品から読み取れます。
基本データ
| 名称 | 紙本金地著色南蛮人渡来図〈六曲屏風〉 |
|---|---|
| 指定区分 | 重要文化財(絵画) |
| 指定年月日 | 昭和三十五年(一九六〇)六月九日(対の世界及日本地図屏風と一括指定) |
| 時代 | 十六世紀末〜十七世紀前期(国指定文化財等データベースは時代を江戸と記載) |
| 作者 | 無款。狩野派の作と考えられる |
| 員数・寸法 | 一双(二隻)。各隻 高さ約一五四・〇センチ、幅約三六四・〇センチ |
| 伝来 | もと備前池田家。慶長五年(一六〇〇)岐阜城攻めの戦利品と伝わる |
| 所在地 | 東京国立博物館(東京都台東区上野公園一三-九)。二〇一六年に登録美術品登録 |
| 公開状況 | 常設展示ではなく、会期を限った展示。来館前に展示予定の確認を |
参考文献
- 文化遺産オンライン(NII):紙本金地著色南蛮人渡来図/世界及日本地図 六曲屏風
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/220764
- 文化庁 国指定文化財等データベース(記録 201/2238)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/2238
- 東京国立博物館
- https://www.tnm.jp/
- 国立歴史民俗博物館「歴博」第一二二号(南蛮屏風の類型について)
- https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/122/witness.html
最終更新日: 2026.06.14