紙本墨画漁村夕照図〈伝牧谿筆〉――水墨で描かれた南宋の夕暮れ、根津美術館の国宝

東京・南青山の根津美術館が所蔵する国宝「紙本墨画漁村夕照図(しほんぼくがぎょそんせきしょうず)〈伝牧谿筆〉」は、13世紀の中国南宋時代に描かれたとされる水墨画の名品です。描かれているのは、夕闇の迫る江南地方の漁村。湖に漁船が静かに浮かび、画面右手には斜めに差し込む夕陽の光条が水面を照らしています。紙と墨だけで大気の湿り気と光のうつろいを描ききった、水墨画史上まれな到達点と評価される一幅です。

中国南宋末の禅僧・牧谿(もっけい)によるものと伝えられ、昭和29年(1954年)3月20日に国宝に指定されました。光に弱い紙本作品であるため公開の機会は限られ、数年に一度の特別展でのみ目にすることができる、知る人ぞ知る至宝です。

画題の由来――瀟湘八景図の一図

本作は、中国絵画史上もっとも親しまれた山水画題のひとつ「瀟湘八景図(しょうしょうはっけいず)」のうちの一図です。瀟湘とは、中国湖南省を流れる瀟水(しょうすい)と湘江(しょうこう)が合流し、洞庭湖に注ぐ一帯のこと。湿潤な気候と霞にけぶる山々が織りなす風景は、古くから詩人・画家たちに愛され、北宋時代の文人・宋迪によって八つの理想的な景観にまとめられたと伝わります。

八景とは、洞庭秋月・山市晴嵐・遠浦帰帆・漁村夕照・煙寺晩鐘・瀟湘夜雨・平沙落雁・江天暮雪。そのうち、「漁村夕照」はまさに一日の終わりを告げる場面として描かれています。本作では、低く傾いた太陽から放たれる三条の光が湿った空気を貫き、手前には小さな漁村の屋根と舟が淡く浮かび上がり、左奥には連なる山々が霞に溶けていきます。

画家・牧谿について

牧谿(もっけい、生没年不詳)は、13世紀後半、中国南宋末から元初にかけて活動した禅僧であり画家でした。法諱(ほうき)は法常(ほうじょう)、俗姓は李。四川省に生まれ、禅宗の高僧・無準師範(ぶじゅんしばん)に師事したのち、南宋の都・臨安(現在の杭州)近郊の西湖(せいこ)のほとりにあった六通寺(りくつうじ)に住して画業を展開したと伝わります。

興味深いことに、中国本土では牧谿は後世、文人画の隆盛のなかで「粗放にして古法なし」と酷評され、次第に忘れられていきました。しかし日本では、鎌倉時代後期から室町時代にかけて舶載された彼の作品が「唐絵」として篤く尊重され、やがて水墨画の規範とまで仰がれるようになります。雪舟や長谷川等伯をはじめ、日本絵画史を代表する画家たちが牧谿から多くを学びました。今日、牧谿の優品のほとんどは日本国内に伝来し、故国である中国にはほとんど残されていません。

巻物から掛軸へ――足利義満の座敷飾り

本作の来歴でひときわ興味深いのは、もともと横長の巻子本(かんすぼん)として八景すべてを収めていた一巻が、いつの時代にか切り分けられ、掛軸として仕立て直されたという点です。その改装を指示したのは、室町幕府三代将軍・足利義満(1358〜1408)であったと考えられています。

画面には、義満が晩年に出家して名乗った法号「道有(どうゆう)」の朱印が捺されています。義満は唐物を愛好し、座敷飾りのために長大な巻物を一図ずつの掛軸に仕立て直させ、会所や客間で披露したといわれます。瀟湘八景の各図を掛軸として鑑賞するというのは、まさに室町時代の武家・禅林に花開いた東山文化の美意識そのものでした。

この四幅以外の四景は今日では所在不明となっていますが、現存するものは次の通りです。

  • 漁村夕照図(根津美術館蔵/国宝)――本作
  • 煙寺晩鐘図(畠山記念館蔵/国宝)
  • 遠浦帰帆図(京都国立博物館蔵/重要文化財)
  • 平沙落雁図(出光美術館蔵/重要文化財)

国宝指定の理由――技法と伝来の両面で

本作が昭和29年(1954年)3月20日に国宝に指定された背景には、美術史的な価値と造形的な到達度の両面があります。

技法の面では、濃淡を微妙に変化させた墨の潤いによって、湿潤な大気と、沈みゆく夕陽の明暗を見事に写し取っています。とりわけ画面右半を斜めに貫く三条の夕陽は、固い直線ではなく、わずかに揺らめく筆致として表現されており、根津美術館の学芸員は「まさに沈もうとする夕陽の一瞬の動き」を捉えたものと解説します。紙と墨だけでこれほどドラマチックな光の表現を成立させた例は、東アジア絵画全体のなかでも極めて稀です。

歴史の面では、足利義満の「道有」印を伴う「東山御物(ひがしやまごもつ)」の一点として、日本における唐物鑑賞と水墨画の受容のあり方を物語る第一級の資料です。のちに織田信長、徳川家康、紀州徳川家などを経て根津美術館に伝来したとされ、日本の美術史と権力史の両方が刻まれた一幅といえます。

鑑賞のポイント

実物に接する幸運に恵まれたときは、次のような点にご注目ください。

  • 画面右半を斜めに貫く三条の夕陽。わずかに揺らぐ筆致で、沈む瞬間の光の動きが表されています。
  • 遠景の山々と近景の漁村との間に広がる、墨の濃淡だけで生み出された湿潤な大気の広がり。
  • 右下の漁村の屋根や、湖面に浮かぶ小さな漁船。巨視的な風景のなかに人の営みが確かに息づいています。
  • 画面下方に捺された朱印「道有」。室町幕府三代将軍・足利義満の鑑蔵印で、本作が東山御物であったことを示す確かな証です。

根津美術館――建築と庭園

本作を所蔵する根津美術館は、東武鉄道社長などを務めた実業家・初代根津嘉一郎(1860〜1940)の蒐集品を公開するため、昭和16年(1941年)に開館しました。所蔵品は日本・東アジアの古美術約7,600件におよび、本作を含む国宝7件、重要文化財91件を擁する質量ともに国内屈指のコレクションです。

現在の展示棟は、建築家・隈研吾の設計により2009年に新装開館したもの。表参道の喧騒から一歩入った竹垣のアプローチが、内と外をやわらかく隔てます。館の背後には、根津家私邸時代の面影を残す約17,000平方メートルの日本庭園が広がり、石灯籠や茶室、四季折々の草木が訪れる人を静かに迎えます。名画に対面したあとで庭園を歩くひとときは、都心にいながら別世界に踏み入るような体験です。

周辺の見どころ

根津美術館は、表参道の賑わいから少し離れた南青山の一角に位置し、周囲にはデザインショップやカフェ、ギャラリーが点在しています。徒歩圏には大倉集古館や岡本太郎記念館、明治神宮外苑もあり、地下鉄で一駅ほど移動すれば、六本木の森美術館やサントリー美術館にも足を延ばせます。美術鑑賞と街歩きを一日のなかで織り交ぜて楽しめる、東京屈指のアート・エリアです。

Q&A

Q根津美術館を訪ねれば、いつでも「漁村夕照図」を見ることができますか?
Aいいえ、常時の展示はおこなわれていません。紙本の水墨画は光に弱く、長時間の露光に耐えられないため、本作は数年に一度、テーマ別の特別展のなかで短期間だけ公開されます。訪問前に根津美術館の公式サイトで展示予定をご確認ください。
Q「伝牧谿筆」と呼ばれるのはなぜですか?
A画面には牧谿自身の落款(署名)や印章が残されておらず、同時代の記録にも制作者が明記されていないためです。しかし足利将軍家以来の伝来と作風の親縁性から、牧谿の作と長く認められてきました。こうした慎重な帰属を示すために、日本の美術史では「伝(でん)」の字を冠して「伝牧谿筆」と表記します。
Q牧谿の瀟湘八景図は、八図すべて現存していますか?
A現存が確認されているのは四幅のみで、いずれも日本国内の異なる美術館に分蔵されています。本作と畠山記念館の「煙寺晩鐘図」は国宝、京都国立博物館の「遠浦帰帆図」と出光美術館の「平沙落雁図」は重要文化財に指定されています。
Q根津美術館は予約が必要ですか?
A原則として、オンラインによる日時指定予約制となっています。特別展では特に事前予約をおすすめします。当日の空き状況によっては、受付で窓口券(通常料金に100円加算)を販売する場合もあります。
Q館内で撮影はできますか?
A展示室内の撮影は原則として禁止されています。庭園や建物の外観、カフェエリアは撮影可能な場合が多いのですが、来館時は受付で最新の案内をご確認ください。

基本情報

名称 紙本墨画漁村夕照図〈伝牧谿筆〉(しほんぼくがぎょそんせきしょうず〈でんもっけいひつ〉)
種別 国宝(絵画)
指定年月日 昭和29年(1954年)3月20日
作者 伝 牧谿(法常)
時代 中国・南宋時代(13世紀)
材質・技法 紙本墨画、一幅(掛軸装)
寸法 画面:縦33.0cm × 横112.6cm/全体:縦138.0cm × 横125.3cm
特記事項 足利義満の鑑蔵印「道有」が捺される。「瀟湘八景図」のうちの一図で、東山御物。
所有者 公益財団法人 根津美術館
所在地 〒107-0062 東京都港区南青山6-5-1
アクセス 東京メトロ銀座線・半蔵門線・千代田線〈表参道〉駅A5出口より徒歩8分
開館時間 10:00〜17:00(入館は16:30まで)
休館日 月曜日(月曜日が祝日の場合は翌火曜日)、展示替期間、年末年始
入館料(参考) 特別展:一般1,500円/学生1,200円、企画展:一般1,300円/学生1,000円(オンライン日時指定予約制。料金は変動する場合あり)

参考文献

紙本墨画漁村夕照図〈伝牧谿筆/〉 — 文化遺産オンライン(文化庁)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/203419
漁村夕照図 — 文化遺産オンライン
https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/170871
漁村夕照図 — 根津美術館 コレクション
https://www.nezu-muse.or.jp/sp/collection/detail.php?id=10390
財団創立80周年記念特別展 根津美術館の国宝・重要文化財
https://www.nezu-muse.or.jp/sp/exhibition/past2020_n07.html
利用案内 — 根津美術館
https://www.nezu-muse.or.jp/sp/guide/
アクセスマップ — 根津美術館
https://www.nezu-muse.or.jp/sp/access/
牧谿 — Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E8%B0%BF
伝牧谿筆 遠浦帰帆図――瀟湘八景図について — 博物館ディクショナリー(京都国立博物館)
https://www.kyohaku.go.jp/jp/learn/home/dictio/kaiga/42mokkei/

最終更新日: 2026.04.24