藤原公任が記した宮廷儀礼の手引き

北山抄は、平安時代中期の歌人にして公卿の藤原公任(966〜1041)が編んだ私撰の儀式書である。宮中の年中行事、太政官の政務、国司の職掌といった、朝廷が動くための作法と手順を全十巻にわたって記す。後世の公家社会では、先例を確かめる際の拠りどころとして長く重んじられた。書名は、公任が晩年に隠棲した京都北山の地名にちなむ。

各巻は一度に書かれたものではない。巻四・巻五は藤原道長の求めに応じ、巻七は子の定頼のために、巻八・巻九は娘婿の教通のために記されたと伝わる。一書としてまとまったのは長和から治安(1012〜1023)の頃と推定される。編集にあたって公任は、祖父実頼や父頼忠らの日記、源高明の西宮記といった先行する記録を参照し、小野宮流・九条流双方の要素を取り込んだ。

前田育徳会が蔵する巻子本十二巻

前田育徳会が所蔵する本は、巻子本十二巻からなる。公任自身の筆ではなく、遅くとも鎌倉時代までに書写された写本である。筆者については、三跡の一人藤原行成の孫で世尊寺流の書家、藤原伊房(1030〜1096)の手になるとされるが、これは古来の伝承であって確証があるわけではない。

十二巻という数は、もとの十巻と単純には対応しない。巻三が三部、巻五が二部重複し、一方で巻十を欠く。その結果として全体が十二巻となっている。この不揃いな構成そのものが、北山抄が一巻ずつ書写され、写しが重なり、一部を失いながら受け継がれてきた経緯をうかがわせる。

国宝に指定された理由

前田育徳会本は、昭和28年(1953年)11月14日に国宝へ指定された。その価値はいくつかの点に支えられている。北山抄の比較的まとまった現存本のひとつとして、およそ五百年にわたり公家社会を律した本文を復元するうえで欠かせない。世尊寺流につらなる和様の筆致は、書道史の観点からも見過ごせない。そして鎌倉時代以前という書写の古さは、原本を欠くこの書の古い伝来の一つに数えられる。

比較の対象となる、もう一件の国宝がある。京都国立博物館が所蔵する三条家旧蔵の十巻本で、その巻十は公任自筆の現存唯一の草稿である。料紙の裏には反故にされた文書が貼り合わされ、その中には仮名で書かれた現存最古級の私的書状が含まれる。著者の草稿と、本文を後世へ運んだ清書本、二件の国宝を並べると、書物が伝わる二つの相が見えてくる。

本書を見るには、そして周辺の見どころ

前田育徳会は、東京都目黒区駒場に尊経閣文庫の名で収蔵品を管理している。ここは博物館ではなく研究図書施設であり、古典籍の閲覧は許可を得た研究者に限られる。北山抄の巻子も常時公開されてはいない。実物に接したい場合は、特別展への出陳の機会を待つことになる。

それでも周辺は訪ねる価値がある。昭和3年(1928年)竣工の尊経閣文庫の建物自体が重要文化財に指定されており、隣接する駒場公園には、昭和4年(1929年)竣工の旧前田侯爵邸洋館と和館が無料で公開されている。前田家の収蔵品により広く触れたいなら、金沢市の石川県立美術館に前田育徳会展示室が設けられ、家伝の名品が順次展示される。兼六園に隣接する成巽閣でも、同家ゆかりの調度や武具を見ることができる。

本文そのものに関心があれば、公任自筆の草稿を画面上で確かめられる。京都国立博物館蔵の巻十はデジタル化され、国立文化財機構のe国宝(e-Museum)で閲覧できる。千年前の草稿に近づける、数少ない機会である。

Q&A

Q前田育徳会の北山抄は展示で見られますか。
A通常は見られません。尊経閣文庫は公開施設を持たない研究図書施設で、巻子は特別展などへの出陳の機会に限り公開されます。事前に展覧会情報を確認するのが確実です。
Qこれは藤原公任直筆の原本ですか。
Aいいえ。前田育徳会本は後世の写本で、遅くとも鎌倉時代までに書写され、書家藤原伊房の筆と伝えられます。公任自筆の現存唯一の草稿(巻十)は京都国立博物館が所蔵します。
Q北山抄にはどのようなことが書かれていますか。
A宮中の年中行事、太政官の政務、国司の職掌など、宮廷儀礼と政務の実務を記した手引きです。公家は先例を確かめるための参考として用いました。
Q十巻の書なのに、なぜ十二巻あるのですか。
A前田育徳会本は巻三を三部、巻五を二部含み、一方で巻十を欠きます。重複と欠失の結果、全体が十二巻となっています。
Q前田家の収蔵品をもっと知るには。
A金沢市の石川県立美術館に前田育徳会展示室があり、近隣の成巽閣でも関連する伝来品が見られます。東京では駒場公園が前田家の旧邸を残しています。

基本情報

名称北山抄(ほくざんしょう)
所在地尊経閣文庫(前田育徳会)/東京都目黒区駒場
指定区分国宝(書跡・典籍) 昭和28年(1953年)11月14日指定
員数巻子本12巻
時代平安時代(本文)/鎌倉時代までに書写
撰者藤原公任(966〜1041)
書写藤原伊房筆と伝わる
所有者公益財団法人前田育徳会
公開状況常時公開なし(研究図書施設・閲覧は許可された研究者に限定)

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)北山抄〔前田育徳会〕
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/694
文化遺産オンライン 稿本北山抄巻第十
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/572916
e国宝(国立文化財機構)稿本北山抄巻第十
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&content_base_id=101053&content_part_id=0&content_pict_id=0
公益財団法人前田育徳会(尊経閣文庫)公式サイト
https://www.ikutokukai.or.jp/information.html

最終更新日: 2026.06.22