木花之佐久夜毘売 — 安田靫彦が描いた桜の女神

東京国立近代美術館(MOMAT)に所蔵される一幅の掛軸《木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)》は、近代日本画を代表する画家・安田靫彦(やすだゆきひこ、1884–1978)が昭和28年(1953)に描いた歴史画の名品です。噴煙をたなびかせる富士山を背景に、岩に座した貴婦人姿の女神が左手に桜を抱き、その枝先には小さな鳥が一羽とまっている──。古事記・日本書紀に登場する女神の像を、深い学識と典雅な筆致で結晶化させた本作は、平成31年(2019)に国の登録美術品となりました。海外からの旅行者にとっても、日本神話と近代日本画の双方の魅力を一度に味わえる、特別な一作です。

木花之佐久夜毘売とはどのような女神か

木花之佐久夜毘売は、日本最古の歴史書である『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)に登場する女神です。山の神・大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘として生まれ、天孫・邇邇芸命(ににぎのみこと)の妻となり、火照命・火須勢理命・火遠理命の三柱を産みました。火遠理命の孫は初代天皇・神武天皇とされ、天皇家の祖先神の一柱に数えられる存在です。

各地の浅間神社、なかでも静岡県の富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)が総本宮として彼女を祀り、富士山そのものを神体山とする信仰の中心におかれてきました。「木花」が示す通り、桜が神木とされ、また燃え盛る産屋で無事に子をなしたという神話から、安産・火難除けの神としても古くから人々の信仰を集めています。儚さと強さ、美と母性が同居するその像は、長く日本の文学・絵画の主題となってきました。

画家・安田靫彦 — 近代歴史画の巨匠

安田靫彦は明治17年(1884)、東京日本橋の老舗料亭「百尺」に生まれました。本名・新三郎。14歳で大和絵の画家・小堀鞆音(こぼりともと)に入門し、雅号「靫彦」は鞆音の師・川崎千虎より授けられたものです。同門の仲間たちと結成した紫紅会(のち紅児会)で頭角を現し、東京美術学校に進むも程なく退学、独自の歴史画研究を深めていきました。

大正3年(1914)、岡倉天心らが進めた日本美術院再興に同人として参加。以後、院展を主舞台として活躍し、『黄瀬川陣』『飛鳥の春の額田王』『黎明富士』などの名品を世に送り出しました。前田青邨と並ぶ近代歴史画の双璧と称され、東京美術学校(現・東京藝術大学)教授、文化財専門審議会専門委員などを歴任、昭和23年(1948)には文化勲章を受章しています。徹底した時代考証に基づく品格ある画風は、戦後日本画における歴史画の到達点の一つとして高く評価されています。

作品を読み解く

本作《木花之佐久夜毘売》は昭和28年(1953)に制作され、同年9月、再興第38回日本美術院展覧会(院展)に「木花開耶姫」の題で出品されました。紙本著色(しほんちゃくしょく)、掛幅装で、画面寸法は縦174.0センチ、横74.8センチ。一幅仕立ての堂々たる立軸です。

構図は実に静謐で、装飾を排した気品が画面全体を支配しています。噴煙をなびかせる富士山を背に、岩の上に貴婦人風の女神が静かに座し、左手には桜の枝、足元にもまた桜が描かれます。桜の枝先には、セキレイとみられる小鳥が一羽。セキレイは『日本書紀』のなかで、伊邪那岐命と伊邪那美命に夫婦の契りの作法を教えた鳥として登場し、安産の女神でもある木花之佐久夜毘売の物語と響き合います。富士・桜・セキレイという三つのモチーフが、女神を象徴する要素として精緻に重ね合わされているのです。

線描は肥痩(ひそう)の少ない端整な引き方で、彩色も丹念で押しつけがましさのない控えめなもの。靫彦の歴史画の特徴である「清澄」「気品」を最もよく示す作例の一つです。画面右下には朱文方印「安」が捺され、附属の箱には靫彦自筆の墨書が添えられており、来歴の確かさを今に伝えています。

登録美術品としての価値

本作は令和元年(2019)5月14日付で、国の「登録美術品」として正式に登録されました。登録美術品制度は、平成10年(1998)に施行された「美術品の美術館における公開の促進に関する法律」に基づくもので、重要文化財・国宝に準ずる優れた美術品を国が登録し、契約美術館での長期公開を約束する仕組みです。これにより、個人の所蔵作品でも、確かな環境のもと広く市民が鑑賞できる機会が確保されます。

登録の判断は美術的価値に基づいて行われ、価格による評価は伴いません。本作については、安田靫彦の歴史画の到達点を示す代表作として、また日本神話を主題とする近代日本画の精華として、学術的価値が極めて高いと評価されています。鑑賞者は、東京国立近代美術館という確かな保存・公開環境のもとで、この一幅と向き合うことができます。

東京国立近代美術館で出会う

本作を所蔵するのは、皇居北の丸にある東京国立近代美術館(MOMAT)です。昭和27年(1952)に日本初の国立美術館として開館し、明治期から現代までの日本美術を中心に、油彩画、日本画、版画、彫刻、写真など13,000点を超える作品を収蔵しています。横山大観、岸田劉生をはじめとする重要文化財作品も多数所蔵し、所蔵作品展「MOMATコレクション」では、約200点の作品により100年以上にわたる日本美術史を一望できます。

《木花之佐久夜毘売》は紙本作品のため、保存上の理由から常設展示はされず、所蔵作品展のなかで会期を限って公開されます。来館を計画される際は、美術館公式サイトの展示スケジュールで本作の出品状況をご確認のうえ、訪問日を選ぶことをおすすめします。

周辺の見どころ

美術館は北の丸公園の一角にあり、皇居や江戸城の歴史を感じながら散策できる立地です。とりわけ春には、千鳥ヶ淵の桜並木が世界的な名所として多くの旅行者を迎え入れます。桜の女神を主題とする本作と桜の景色を組み合わせて巡る旅は、日本の春の象徴的な体験となるでしょう。

美術館の徒歩圏内には、皇居東御苑、武道の聖地・日本武道館、家族で楽しめる科学技術館などがあります。少し足を延ばせば、靖国神社、神保町の古書店街、近代建築の名品である東京駅丸の内駅舎まで足を運ぶこともでき、半日から一日かけてじっくり「文化の東京」を味わうコースが組めます。

Q&A

Q《木花之佐久夜毘売》はいつでも見られますか?
A紙に描かれた日本画のため、保存上の理由から常設展示されていません。所蔵作品展「MOMATコレクション」のなかで会期を限って公開されます。来館前に美術館公式サイトの展示スケジュールをご確認ください。
Q木花之佐久夜毘売とは具体的にどのような女神ですか?
A『古事記』『日本書紀』に登場する女神で、富士山を神体山とし、各地の浅間神社に祀られています。桜を神木とすることから美と豊穣の象徴とされ、また燃える産屋で出産した神話から安産・火難除けの神としても信仰されています。
Q画面に桜と小鳥が描かれているのはなぜですか?
A桜は木花之佐久夜毘売の神木で、その名前の由来そのものです。小鳥はセキレイとみられ、『日本書紀』で伊邪那岐命・伊邪那美命に夫婦の作法を教えた鳥として登場します。安産の女神である女神の像とよく響き合うモチーフです。
Q「登録美術品」とはどのような制度ですか?
A平成10年(1998)施行の「美術品の美術館における公開の促進に関する法律」に基づく制度で、優れた美術品を文化庁長官が登録し、所有者と契約美術館の協力のもとで広く公開していく仕組みです。鑑賞者にとっては、信頼できる保存環境で名品に出会える保証となります。
Q美術館へのアクセス方法を教えてください。
A東京メトロ東西線・竹橋駅1b出口から徒歩約3分が最寄りです。九段下駅、神保町駅からも徒歩約15分でアクセスできます。来館者用の駐車場はないため、公共交通機関のご利用をおすすめします。

基本情報

名称 木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)
作者 安田靫彦(やすだゆきひこ、1884–1978)
制作年 昭和28年(1953)/同年9月、再興第38回院展に出品
形状・技法 紙本著色、掛幅装、一幅
寸法 174.0 × 74.8 cm
指定区分 登録美術品(令和元年5月14日登録)
所蔵 東京国立近代美術館(MOMAT)
所在地 〒102-8322 東京都千代田区北の丸公園3-1
最寄駅 東京メトロ東西線・竹橋駅 1b出口より徒歩約3分
開館時間 10:00–17:00(金曜・土曜は20:00まで)/入館は閉館30分前まで
休館日 月曜(祝日の場合は翌平日)、展示替期間、年末年始
公式サイト https://www.momat.go.jp/

参考文献

木花之佐久夜毘売 — 文化遺産オンライン(文化庁)
https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/409335
国指定文化財等データベース — 登録美術品 木花之佐久夜毘売
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/202/00000082
東京国立近代美術館 公式サイト
https://www.momat.go.jp/
東京国立近代美術館 アクセス
https://www.momat.go.jp/visit/access
登録美術品制度 — 文化庁
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bijutsukan_hakubutsukan/torokubijutsuseido/gaiyo/
安田靫彦 — 東京文化財研究所 物故者記事
https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9601.html

最終更新日: 2026.04.26