傘をすぼめて急ぐ男、南宋の風雨を描いた国宝山水図

聳え立つ山々を背に、傘をすぼめた一人の男が雨の中を急いでいる。古木は風にあおられ、樹葉はざわめき、画面の上方には遠山が複雑に組み合わさる。これが国宝「絹本墨画淡彩風雨山水図〈伝馬遠筆〉」である。中国・南宋時代の宮廷画家、馬遠(ばえん)の筆と伝わる一幅で、現在は公益財団法人静嘉堂が所蔵する。

画面は意外に小さい。本紙は縦111.3センチ、横55.9センチ。軸装すると全体で縦199.0センチに及ぶ。昭和31年(1956年)6月28日に国宝へ指定された。静嘉堂が持つ国宝7件のうちの一つである。

絹に墨で描き、ところどころに淡い彩色を施す「墨画淡彩」の技法をとる。中国南宋(13世紀)の作でありながら国宝に指定されているのは、この種の絵が早くに日本へもたらされ、将軍家や茶の湯の世界で大切に扱われ、やがて日本絵画そのものを動かしたためである。

なぜ中国の絵が国宝なのか

馬遠は南宋の画院に仕えた画家で、夏珪・李唐・劉松年とともに南宋四大家に数えられる。山水や人物、花鳥を得意とし、主要な景物を画面の一隅に寄せて余白を大きくとる構図を好んだことから、後世「馬一角」とも呼ばれた。馬家は数代にわたって宮廷画家を輩出した一族でもある。

ただし、今日では馬遠その人の真筆と確認できる作品は残っていない。だからこそ、彼の名と結びつく作品はいずれも厳密な鑑定と判断の対象となる。本図は古くから馬遠の作風に近い優品とされ、かつては「馬遠以外には擬し得ない」とまで評された。一方で近年は慎重な見方もあり、馬遠よりやや後の時代に下るとする説も出ている。指定名称に「伝馬遠筆」とあるのは、その確度を正直に示したものだ。

確かなのは、この絵がもたらした影響の大きさである。南宋院体の山水画は足利将軍家のコレクションで重んじられ、室町時代の水墨画家たちの手本となった。雪舟や初期狩野派の画家も、この系譜の作品から多くを学んでいる。本図は日本水墨画という大きな流れの源近くに位置する。手厚く保護される理由の多くはここにある。

見どころ

まず画面の下三分の一に目をとめたい。前景の岩と老木は濃い墨で力強く描き分けられ、輪郭に締まりがある。視線を上へ移すと筆致はしだいにほどけ、中景の樹葉は突風にざわめき、遠山は絹の高い位置で幾重にも重なり合う。重い近景から霞む遠景へと立ち上がっていくこの構成こそ、南宋寧宗期(1194〜1224)の院体山水画の手法である。

彩色は見落としやすい。本作はあくまで水墨が主役だが、植物の一部に抑えた緑が差されている。淡彩と呼ばれるこの手法は装飾ではなく、雨の空気を感じさせるために効いている。

そして人物。傘の下で身をかがめ、嵐に対して小さく描かれたこの男が、画面全体に緊張と尺度を与える。東アジアの山水画は、広大な自然のなかに小さな人を置き、自然と人とを対比させてきた。本図の人物は対比にとどまらず、悪天候のただなかを足早に進む一瞬をとらえている。見る者は男とともに風を受けることになる。

美術館とその周辺

静嘉堂文庫美術館は、2022年10月より展示ギャラリーを丸の内へ移し、皇居のお濠端に建つ明治生命館1階で作品を公開している。昭和9年(1934年)竣工のこの建物は、それ自体が重要文化財であり、近代洋風建築の代表例として知られる。高い天窓から光が差し込む中央ホールを四つの展示室が囲み、大理石の重厚な空間が中国水墨画を迎える。

静嘉堂のコレクションは、三菱第二代社長の岩崎彌之助(1851〜1908)と、その子で第四代社長の小彌太(1879〜1945)父子の収集に始まる。いまは東洋古美術品およそ6,500件、古典籍約20万冊を収め、国宝は7件を数える。なかでも世界に完全な姿で三碗しか残らない曜変天目茶碗は名高い。風雨山水図が出品される会期なら、ほかの名品にも近くで出会えるだろう。

立地は都心そのものだ。東京駅から徒歩圏で、通りの向こうには皇居外苑が広がり、周囲には三菱一号館美術館や赤煉瓦の街並みが続く。美術館の入口は明治安田ヴィレッジの1階にある。

Q&A

Qいつ行けば見られますか。
A常設展示はなく、年に4回ほどの特別展の会期中のみ開館します。本作のような絹本は傷みやすく、公開は限られた期間に絞られます。来館前に必ず展覧会の予定を確認してください。
Q本当に馬遠が描いたのですか。
A「伝馬遠筆」とあるとおり、確実な記録に基づくものではありません。馬遠の真筆と確認できる作品は現存せず、名は長い伝承と作風によります。馬遠よりやや後の時代とする見方もあります。
Q中国の絵がなぜ日本の国宝なのですか。
A早くに日本へ渡り、将軍家や茶人に珍重され、日本の水墨画に大きく影響したためです。国宝の制度は、国内にある重要な作品を、その制作地にかかわらず保護します。
Q美術館はいまどこにありますか。
A展示ギャラリーは2022年に丸の内の明治生命館1階へ移転しました。東京駅から数分です。作品を収める文庫・収蔵施設は世田谷区岡本にあります。
Qほかに何が見られますか。
A静嘉堂は国宝7件を所蔵し、曜変天目茶碗、俵屋宗達筆の国宝屛風(源氏絵)、因陀羅筆の禅機図断簡などがあります。明治生命館の建築そのものも見ごたえがあります。

基本データ

指定名称絹本墨画淡彩風雨山水図〈伝馬遠筆〉(けんぽんぼくがたんさいふううさんすいず)
種別絵画
指定区分国宝(昭和31年〈1956年〉6月28日指定)
国・時代中国・南宋時代(13世紀)
伝承作者伝馬遠
形状・員数1幅/絹本墨画淡彩
寸法本紙 縦約111.3センチ 横約55.9センチ/軸装全体 縦約199.0センチ 横約71.4センチ
所有者公益財団法人静嘉堂
収蔵施設東京都世田谷区岡本2-23-1
公開会場静嘉堂@丸の内(明治生命館1階、東京都千代田区丸の内2-1-1)
公開状況特別展の会期中のみ公開。常設展示なし

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース(管理ID 201-130)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/130
静嘉堂文庫美術館 絵画コレクション
https://www.seikado.or.jp/collection_index/collection02/
静嘉堂文庫美術館 公式サイト
https://www.seikado.or.jp/
静嘉堂@丸の内(明治安田ヴィレッジ)
https://www.meijiyasuda-v.jp/about/seikado_marunouchi

最終更新日: 2026.06.13