横山松三郎関係資料(高田家伝来)― 幕末明治の写真師が遺した仕事の記録

横山松三郎が写真術を学んだ動機は、母の姿を画像として残すことにあったという。本資料群には、母みやを写したアンブロタイプが含まれる。薄く仕上げたガラス湿板の背面を黒くしてポジ画像に見せる写真で、精巧な銅製の飾り枠に収められている。私的な思いから始まった営みが、日本でいち早く写真を生業とした人物の足跡へと広がっていった。

本件は、北海道函館の高田家に伝わった83点の資料からなり、令和5年(2023年)6月27日に歴史資料として重要文化財に指定された。多くは1860年代から1870年代、写真がまだ舶来の珍しい技術であった時期のものである。写真ガラス原板、鶏卵紙写真、着彩を施した写真油絵、写真石版、油絵、そして文書・記録類で構成され、横山が何を撮影し、どのように制作したかを具体的に知ることができる。

横山松三郎(天保9年〈1838年〉~明治17年〈1884年〉)は、千島列島の択捉島に生まれ、道南の港町・箱館(現在の函館)で育った。嘉永7年(1854年)ごろ、箱館に来航したペリー艦隊で初めて写真に接し、独学で化学的な技法を身につけたとされる。明治初年には東京・上野の池之端に写真館「通天樓」を構えている。

なぜ貴重なのか

日本の職業写真家の第一世代に関わる資料は、まとまって残ることが少ない。湿板のガラスは割れやすく、写真館は廃業し、家に残された文書も散逸しやすかった。一人の初期写真家の手元資料が一括して残る例は希有であり、これが国による指定の主たる理由となっている。

横山の名は、いくつかの画期的な仕事と結びついている。明治4年(1871年)、蜷川式胤の依頼で、将軍が去り荒廃しつつあった旧江戸城を撮影した。写真家・内田九一とともに撮った画像の一部は、洋画家・高橋由一が彩色を加え、64枚の写真帖にまとめられた。翌年には壬申検査に同行し、伊勢・名古屋・奈良・京都の古社寺や華族の所蔵品、正倉院宝物などを記録している。さらに陸軍士官学校で写真術と石版術を教え、新しい印画法の研究にも取り組んだ。

高田家の資料は、こうした公的な事績の傍らにある私的な記録といえる。弟松蔵が仕え、晩年に身を寄せた家、そして松三郎らの実姉が嫁いだ家に受け継がれた。美術市場に出ることなく一つの家に留まったため、誰を撮ったのか、技術をどの順序で習得したのか、未完成の作品がどのような状態だったのか、といった背景が失われずに残された。

注目したい点

83点のうち72点が写真ガラス原板で、すべてコロジオン湿板の技法による。印画紙への焼き付け用ネガが68点、薄く仕上げた画像の背面を黒くしてポジに見せるアンブロタイプが4点ある。被写体には横山家・高田家ゆかりの人物が多く、初期の写真館が身近な人々を相手に技を磨いた様子がうかがえる。

そのなかで、一枚のネガが異彩を放つ。戊辰戦争のさなか、慶応4年(1868年)に明治政府から箱館裁判所総督に任じられて北の地に入った清水谷公考を写したものである。ガラスは東京で用いた原板より厚く、切断面には凹凸が残る。こうした物理的な特徴は、清水谷が箱館に滞在した短い時期に現地で撮影されたことを示唆し、松三郎自身の足取りを知る手がかりにもなっている。

母みやを写したアンブロタイプは、この資料群の核心といえる。敷物などの特徴から、幕末から明治初年にかけて箱館で撮影された可能性が高い。収められた銅製の枠は丁寧な作りで、母の肖像を残すために写真を学んだという家の言い伝えと重なり合う。

5点の写真油絵は、横山が日本で考案・改良したとされる独特の技法による。二代目鈴木真一がアメリカから持ち帰った作例を見て研究を始めたという。鶏卵紙写真の画像面をガラス板に貼り、裏から紙を削って画像が透けるまで薄くしたうえで、その背面から油絵具で着彩する。本資料には完成作「母子像」と制作途中の男性像が含まれ、仕上がった一点だけでは分からない制作の途中経過を観察できる。

文書・記録類が2点加わる。一つは陸軍士官学校で学んだ技法をもとに明治10~11年(1877~1878年)ごろ記したカーボン印画の技術書で、横山が日本人としては早い段階でこの技法を研究していたことを示す。もう一つは明治17年(1884年)、松三郎の没後まもなく弟子たちがその経歴をまとめた経緯を記した書簡である。

横山の作品を見るには

本資料群そのものは常設展示されておらず、国のデータベースにも現在の所有者・保管施設の記載がない。そのため、これらの品を訪ねて目にすることは難しい。一方で、横山の関連作品は東京の主要な博物館が所蔵し、展示の機会もある。

上野の東京国立博物館は、旧江戸城を撮影した64枚の写真帖を所蔵する。両国の東京都江戸東京博物館は、旧江戸城の写真ガラス原板29枚と、壬申検査関係のステレオ写真ガラス原板257枚を収める。同館は約4年に及ぶ大規模改修を経て、令和8年(2026年)3月31日にリニューアル開館した。育った地・函館には松三郎の墓が高龍寺にあり、東京・高輪の泉岳寺には弟子が建てた記念の碑が残る。写真資料は光に弱く、展示は入れ替え制が基本となるため、訪問前に各館の展示予定を確認しておくとよい。

Q&A

Q横山松三郎とはどのような人物ですか。
A幕末から明治前期に活躍した独学の写真家・画家(1838~1884)です。択捉島に生まれ函館に育ち、上野で写真館「通天樓」を営みました。旧江戸城や壬申検査を撮影し、陸軍士官学校で教え、写真油絵の技法を考案・改良したことで知られます。
Q資料群には何が含まれますか。
A全83点で、内訳は写真ガラス原板72点、鶏卵紙写真2点、写真油絵類5点、写真石版1点、油絵1点、文書・記録類2点です。横山が撮影した対象と、その制作技法の両方を知ることができます。
Qなぜ写真を学んだのですか。
A家の言い伝えによれば、母の肖像を残すためでした。母みやを写したアンブロタイプが、銅製の枠に収められた状態でこの資料群に含まれています。
Q写真油絵とは何ですか。
A写真を絵画に仕立てる技法です。鶏卵紙写真をガラスに貼って裏から薄く削り、その背面から油絵具で着彩して、画像と絵具を一体化させます。本資料には完成作と制作途中の作例の両方が含まれます。
Q実物を見ることはできますか。
A常時の公開はされておらず、公開施設の記載もありません。横山の関連作品は、東京国立博物館や、2026年3月に再開館した東京都江戸東京博物館で見ることができます。

基本データ

名称横山松三郎関係資料(高田家伝来)
指定区分重要文化財(歴史資料)/令和5年(2023年)6月27日指定(指定番号231)
員数83点(写真ガラス原板72点、鶏卵紙写真2点、写真油絵類5点、写真石版1点、油絵1点、文書・記録類2点)
時代江戸時代末期~明治時代前期(19世紀)
作者主に横山松三郎および弟・松蔵による撮影
所在地東京都(所有者・保管施設は非公表)
公開状況常設展示はされていない

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/00012001
文化遺産オンライン(国立文化財機構)
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/564575
東京都江戸東京博物館「140年前の江戸城を撮った男 横山松三郎」
https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/yokoyama-matsusaburo/
東京国立博物館
https://www.tnm.jp/

最終更新日: 2026.06.14