南硫黄島:上陸を許さない天然記念物
東京から南へおよそ1,300キロメートル、太平洋の只中に標高916メートルの円錐火山が一峰だけ屹立している。海岸線はすべて切り立った海食崖で、砂浜も入江もない。淡水の湧出も知られていない。島内の平均斜度は45度。有史以来、定住者を一人も生んだことがない。この過酷な地形と人の不在が組み合わさった結果、地球上でも数少ない、人手のほとんど入っていない海洋島の生態系が今ここに残されている。1972年(昭和47年)、文化庁は島全域を国の天然記念物に指定した。3年後の1975年には、自然環境保全法に基づく日本初の原生自然環境保全地域にも指定されている。2011年からは世界自然遺産「小笠原諸島」の構成要素となったが、一般の上陸は今も禁止されたままである。
外洋にそびえる火山錐
南硫黄島は、小笠原諸島の南端に位置する火山列島の最南端の島である。第二次大戦の激戦地として知られる硫黄島(いおうとう)からは南へ約60キロメートル、有人島の父島からは約330キロメートル離れている。面積はわずか3.54平方キロメートル、直径は約2キロメートルしかないが、その小さな円錐から916メートルの山頂が突き上げ、東京都の島しょ部における最高峰となっている。
島影はほぼ完璧な円錐形をしている。海岸からいきなり急斜面が始まるため、1982年と2007年の学術調査隊はいずれもほぼ同じ登攀ルートをとった。他に登れる箇所がないからである。平均斜度45度。上陸の際は船から海に飛び込み、最後の数十メートルを泳いで岸に至る方式が採られる。落石は日常的に発生し、山頂部は年の大半を雲に覆われている。
地質学的に見れば、この島は若い。採集された岩石に地磁気の逆転の痕跡がないことから、現在の島体が形成されたのは数十万年以内とされる。可視部の島が現れたのは約3万年前という見方もある。比較すると父島は約4800万年前に誕生しており、南硫黄島は桁違いに新しい。生物学者にとってこの若さには意味がある。海洋島の生態系が形作られていく初期段階を、ほぼ未撹乱の状態で観察できる場所が他にないのである。
島全体が保護される理由
小笠原諸島の多くの島は、過去のいずれかの時期に人の手が入っている。ネズミが船とともに上陸して海鳥の卵を食い荒らし、ヤギが植生を裸地化させ、開墾でサトウキビ畑が広がった島もある。南硫黄島はこれらをすべて免れた。上陸を阻む海食崖が、人の定着を物理的に拒んだのである。1917年(大正6年)には硫黄島の住民が南硫黄島でサトウキビ栽培を試みたが、地形に阻まれて短期間で放棄された。島は静けさに戻った。
1972年(昭和47年)11月24日、文化庁は島全域を国の天然記念物(天然保護区域)に指定した。指定基準は「保護すべき天然記念物に富んだ代表的一定の区域」である。1975年(昭和50年)5月17日には、環境庁が自然環境保全法に基づき日本初の原生自然環境保全地域に指定し、全島が立入制限地区となった。学術調査を除き、上陸は禁止されている。
調査隊が島に近づく際の手順は徹底している。装備は可能な限り未開封の新品を用い、それでも持ち込むものはエタノール洗浄、冷凍処理、高温処理を経て検疫を通す。隊員は出発の1週間前から、種を含むトマトや果物の摂取を控える。排泄物も含めゴミは一切島に残さず、すべて持ち帰る。最終的に上陸する際もボートから直接岸に上がらず、海水で表面を洗うために泳いで上陸する。これらは形式的な手続きではない。妊娠したクマネズミがたった1匹上陸するだけで、後述する世界唯一の繁殖地が消滅しかねないからである。
クロウミツバメと固有種の数々
標高700メートル以上の樹林帯には、クロウミツバメ(学名 Hydrobates matsudairae)が営巣している。世界で唯一、繁殖が確認されている地点である。2007年の調査では数万つがいと推定された。かつては北の北硫黄島にも繁殖していたとされるが、戦前後に侵入したクマネズミにより事実上絶滅したと考えられており、現在この種の存続は南硫黄島の急峻な斜面ただ一つにかかっている。
3.5平方キロメートルしかない島で繁殖が確認されている海鳥の種類は異例に多い。標高800メートル以上にセグロミズナギドリ、400メートルから山頂までシロハラミズナギドリが穴を掘って巣を構える。海岸の岩棚ではアカオネッタイチョウが雛を育てている。2017年(平成29年)の調査ではドローンによる崖上の空撮により、アカアシカツオドリの集団繁殖を国内で初めて確認した。これは西太平洋におけるこの種の集団営巣地の最北の記録ともなった。
植物相は標高に従って劇的に変化する。1982年の調査では維管束植物118種1変種が確認され、21の植物群落に整理された。エダウチムニンヘゴ、ナガバコウラボシ、ウミノサチスゲ、ナンカイシュスランの4種が島の固有種である。山頂部は蘚苔林で、苔と木性シダが密生している。同調査では昆虫が14目152種採集され、うち7種が固有種であった。2007年、2017年の再調査ではほぼ全分類群で新種が追加され、土壌からは複眼も後翅も退化した体長1ミリの新種甲虫が報告された。隔絶された島の地中で進化を続けてきた生物の典型的な形質である。
上陸せずに南硫黄島を感じる
旅行者にとって、この島に最も近づける手段は船上からの遠望である。小笠原方面の特殊なクルーズ航路の一部は、天候次第で火山列島周辺を周回し、円錐形のシルエットを海上から望めるよう設計されている。雲を頭にまとった黒い火山錐は、数十キロメートル離れていてもはっきりと識別できる。
父島の小笠原ビジターセンターは、現地で南硫黄島を学ぶための最良の窓口である。火山列島の地理、1936年・1982年・2007年・2017年の各調査の経緯、そこで発見された動植物に関する展示が並んでいる。2017年調査の映像を素材としたNHKのドキュメンタリー作品「秘島探検 東京ロストワールド」も制作されており、ビジターセンターでは一部映像が紹介されることがある。ほぼ手つかずの海洋島生態系がどのように機能しているのか、その問いに対して具体的な答えを示せる場所は世界でも限られている。
父島自体に到達するにも一定の覚悟が要る。東京・竹芝桟橋を発つ定期船「おがさわら丸」は約6日に1便、片道約24時間の航海となる。これが事実上唯一の航路であり、外洋を南下する船旅そのものが、火山列島という地域がなぜここまで隔絶された場所として残されてきたのかを実感する時間となる。
Q&A
- 南硫黄島に上陸できますか。
- できません。島全体が国の天然記念物および原生自然環境保全地域に指定され、立入制限地区となっています。例外的に学術調査が認められる場合がありますが、極めて厳格な検疫を伴います。一般の方が見学可能なのは、火山列島周辺海域を通る船上からの遠望に限られます。
- なぜ学術的にそれほど重要なのですか。
- 人の定住の歴史がなく、ネズミなどの外来哺乳類の侵入も確認されていない、地球上でも極めて稀な海洋島だからです。火山島の動植物相がどのように形成されていくのかを、人為のかく乱なしに観察できる希少な場所と位置づけられています。
- 南硫黄島でしか見られない生き物はありますか。
- クロウミツバメは現在、世界で南硫黄島のみで繁殖が確認されています。植物の固有種が4種、昆虫の固有種が7種知られており、2017年の調査では複眼や後翅が退化した体長1ミリの甲虫など、新種とみられる生物がさらに報告されました。
- 硫黄島とはどう違うのですか。
- 硫黄島(いおうとう)は約60キロ北にあり、戦前に住民が暮らした有人島で、現在は自衛隊の基地が置かれています。南硫黄島は定住の歴史がなく、軍事的用途もなく、自然保護のためだけに守られている島である点が大きく異なります。
- 日本国内で南硫黄島について学べる場所はありますか。
- 父島にある小笠原ビジターセンターが代表的な学習拠点です。NHKのドキュメンタリー番組「秘島探検 東京ロストワールド」や、東京都環境局・首都大学東京による調査報告書も参考になります。
基本情報
| 名称 | 南硫黄島(みなみいおうとう) |
|---|---|
| 所在地 | 東京都小笠原村 |
| 緯度経度 | 北緯24度14分、東経141度28分 |
| 指定区分 | 国指定天然記念物(天然保護区域)/1972年(昭和47年)11月24日指定 |
| その他の保護 | 原生自然環境保全地域(1975年、日本初)/小笠原諸島ユネスコ世界自然遺産構成要素(2011年)/小笠原国立公園(1972年)/小笠原諸島森林生態系保護地域(2007年) |
| 面積 | 約3.54平方キロメートル(354ヘクタール)、周囲約7.5キロメートル |
| 標高 | 916メートル(東京都島しょ部の最高峰) |
| 所有 | 国有林 |
| アクセス | 上陸禁止。火山列島周辺を航行する一部の特殊クルーズで遠望が可能です。父島の小笠原ビジターセンターで関連展示を見学できます。 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース - 南硫黄島
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/727
- 南硫黄島 | 小笠原村公式サイト
- https://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/ioutou_index/ioutou_south/
- 南硫黄島自然環境調査 | 東京都環境局
- https://www.kankyo1.metro.tokyo.lg.jp/naturepark/know/park/ogasawara_isan/minamiiou.html
- 南硫黄島原生自然環境保全地域 | 環境省
- https://www.env.go.jp/nature/hozen/minamiioutou/notice_minamiioutou.pdf
- 地球最後の秘境?原生の自然が残る「南硫黄島」 | 小笠原村観光局
- https://www.visitogasawara.com/archive/archive-3504/
最終更新日: 2026.05.27