上村松園「母子」
昭和9年(1934)2月、画家・上村松園は最大の理解者を失った。母・仲子である。仲子は京都で葉茶屋を営みながら、夫を早くに亡くしたのち女手一つで二人の娘を育てた。絵を志した松園を支え続けたのも母であった。その仲子が、86歳でこの世を去る。
同じ年の10月、松園は第15回帝国美術院展覧会(帝展)に一面の新作を出した。題は「母子」。絹本に岩絵具で描かれ、縦168.0センチメートル、横115.5センチメートルと、ほぼ等身大の大きさをもつ。班竹の簾を背に、若い母親が幼い我が子を抱き上げる姿である。子どもは身を乗り出し、片手で母の衿元をつかむ。母はその体を支えながら、慈しむまなざしを子へ向ける。本作は現在、東京国立近代美術館の所蔵となっている。
婦人の顔をよく見ると、眉を剃り、歯にはお歯黒をさしている。明治初期の京都の町家に暮らした既婚女性の装いであり、松園自身が生まれ育った世界でもある。眉を落とした面差しには、亡き母への追慕という私的な心情も重ねられている。
ひとり、道を切り開いた画家
上村松園(1875〜1949)は十代で京都府画学校に学び、鈴木松年に師事したのち、幸野楳嶺、竹内栖鳳といった大家のもとで画技を磨いた。女性が職業画家として立つことの難しかった時代に、美人画で名を成した人である。没する前年の昭和23年(1948)には、女性として初めて文化勲章を受章した。近代以降の美術家のうち、作品が重要文化財に指定された女性は、現在もなお松園ただ一人である。
「母子」が重要文化財に指定されたのは平成23年(2011)6月27日のことである。指定は、本作の技量の高さとともに、松園芸術における位置づけを評価したものといえる。母性を主題に据えた一連の作品は、この一面から始まった。
本作には、画家としての主張も込められている。松園はこの頃、帝展出品作の彩色法にしばしば批判を向け、京都の古い風俗が急速に西洋化していくことにも懸念を抱いていた。しばらく帝展への出品を控えていた松園が、久方ぶりに発表したのがこの「母子」である。失われゆく明治の風俗を、自身の抑えた色調で描き出した。母の死がその問題意識を私的なものへと変えた。眉を剃った婦人には仲子の面影が宿り、ここから松園の母性画が展開していく。
見どころ
二人の背後に下がる班竹の簾は、近づいてゆっくり眺めたい。松園は無数の細い竹の一本一本を、執拗とも言える精度で描き込んでいる。簾は確かな質感をもちながら、その奥に部屋の広がりがあることを感じさせる。
画面全体には明るくやわらかい賦彩を施し、そこに黒を効かせて締める。婦人の髪、帯の黒い帯地である。この明暗の対照が、静かな場面に重みを与えている。
着物の縞は、無駄のない堅実な描線で引かれている。画面左側はほとんど余白とされている点にも注目したい。松園はそこを描き込まず、簾が遮る奥行きをそのまま想像させる。母と子は、平らな画面の前ではなく、実在する一室に立っているかのように見えてくる。
北の丸公園を訪ねて
美術館があるのは、旧江戸城の北の丸にあたる北の丸公園の一角で、皇居の堀からほど近い。常設のコレクション展「MOMATコレクション」は所蔵品ギャラリーの3フロアに広がり、数か月ごとにほぼ全点が入れ替わる。
この入れ替えには注意したい。絹や紙の作品を傷めないため、「母子」が展示されるのは通年ではなく、限られた時期に限られる。本作を目当てに訪れるなら、出発前に美術館のコレクション情報で展示の有無を確かめておくとよい。
周辺はゆっくり一日を過ごす価値がある。南へ少し歩けば皇居東御苑が広がり、近くの千鳥ヶ淵は春になると都内有数の桜の名所となる。同じ公園内には日本武道館も建つ。最寄りは地下鉄東西線の竹橋駅で、徒歩約3分の道のりである。
Q&A
- 「母子」はいつでも見られますか。
- いいえ。当館は保存のため数か月ごとに所蔵品をほぼ入れ替えており、本作の展示は時期が限られます。来館前に美術館サイトの「MOMATコレクション」の情報をご確認ください。
- 描かれている女性は実在の人物ですか。
- 特定の人物の肖像ではなく、明治初期の京都の町家の婦人です。剃った眉とお歯黒は既婚女性の装いであり、同時にこの年に亡くなった画家の母の姿を重ねたものとされています。
- 国宝ではなく重要文化財なのはなぜですか。
- 本作は平成23年(2011)指定の重要文化財です。国宝は重要文化財のうちから選ばれる、より限られた区分であり、両者は同じ国の指定制度における段階の違いにあたります。
- 松園の他の作品はどこで見られますか。
- 重要文化財「序の舞」は東京藝術大学が、「焔」は東京国立博物館が所蔵します。奈良の松伯美術館は子孫が設立した館で、松園の作品を数多く収蔵しています。
- 館内の見学にはどのくらい時間がかかりますか。
- コレクション展は3フロア全12室ほどで構成されます。多くの方は1時間半から2時間ほどで回られます。企画展も併せて見る場合はもう少し余裕をみてください。
基本情報
| 名称 | 母子〈上村松園筆/絹本著色〉 |
|---|---|
| 作者 | 上村松園(1875〜1949) |
| 制作年 | 昭和9年(1934) |
| 品質・形状 | 絹本著色、額装 |
| 寸法 | 縦168.0センチメートル 横115.5センチメートル |
| 員数 | 1面 |
| 指定区分 | 重要文化財(平成23年〔2011〕6月27日指定) |
| 初出 | 第15回帝国美術院展覧会(帝展)、昭和9年(1934) |
| 所有者 | 独立行政法人国立美術館 |
| 保管施設 | 東京国立近代美術館 |
| 所在地 | 東京都千代田区北の丸公園3-1 |
| アクセス | 地下鉄東西線・竹橋駅から徒歩約3分 |
| 公開状況 | 「MOMATコレクション」内で随時展示(通年公開ではない) |
参考文献
- 国指定文化財等データベース:母子〈上村松園筆/絹本著色〉
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/00011454
- 文化遺産オンライン:母子〈上村松園筆/絹本著色〉
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/242643
- 東京国立近代美術館 所蔵作品:母子
- https://www.momat.go.jp/collection/ji0007
- 東京国立近代美術館 公式サイト
- https://www.momat.go.jp/
最終更新日: 2026.06.22