国宝「螺鈿時雨鞍」——和歌が螺鈿の光となって宿る、鎌倉時代屈指の装飾鞍

東京・目白台、かつての細川家下屋敷跡に広がる緑濃い一角に、武具でありながら文学作品でもある、ふしぎな宝物が静かに佇んでいます。国宝「螺鈿時雨鞍(らでんしぐれくら)」——鎌倉時代の黒漆塗りの鞍で、日本の装飾工芸のなかでもとりわけ格調高い一品として知られています。所蔵しているのは、細川家に伝わる文化財を守り続ける東京文京区の美術館・永青文庫です。

一見したところ、艶やかな黒漆の肌、高く張った前輪と後輪のシルエットは、いかにも戦場で使われそうな武張った姿をしています。けれども近づいて目を凝らすと、その漆黒の表面が光り輝く庭園に変わります。前輪には松が枝を伸ばし、後輪には葛が蔓を絡める。そして葉の間にはひそやかに、新古今和歌集に収められた一首の恋歌の文字が散りばめられているのです。これは、和歌を背に乗せて走る鞍、といってもよい稀有な作品です。

武家の世に生きた、みやびな一品

螺鈿時雨鞍が生まれた鎌倉時代(1185〜1333)は、武士が本格的に政治の表舞台に立った時代でありながら、和歌や四季の美意識といった宮廷文化は依然として強い影響力を保っていました。身分ある武人たちは、戦場で自らの身を守るだけでなく、公家社会に通じる教養をまとった人物であることを示すような、みやびな武具や馬具を求めたのです。

そうした需要に応えたのが、京やその近郊の一流の漆工房でした。螺鈿時雨鞍の姿は、前輪・後輪ともにやや高く山形を成し、後輪の腰(裾の張り)がしっかり張り出した、いわゆる「軍陣鞍(ぐんじんぐら)」の典型的な形です。両肩には手形の装飾を付け、磯(鞍の側面)を高く立ち上げた「海有鞍(うみありぐら)」と呼ばれる形式にあたります。その堂々とした軍装らしい骨格に、漆工の粋をきわめた繊細きわまりない意匠がほどこされている——ここにこの作品の不思議な緊張感があります。

螺鈿に宿る、慈円の一首

意匠の主題は、鎌倉時代初期の天台僧にして当代屈指の歌人・慈円(じえん、1155〜1225)の一首です。慈円は新古今和歌集に92首を採られた代表的歌人で、そのうち一首が次のように詠まれています。

わが恋は 松を時雨の 染めかねて 真葛が原に 風さわぐなり

歌意は、「私の恋は、冷たい時雨が常緑の松を紅葉に染めきれないように、相手の心を動かすことができない。真葛の生い茂る原に風が吹きすさぶように、恨みに乱れ騒ぐばかりだ」というもの。松は常緑で色を変えないことから「つれない相手」の象徴に、葛は風に煽られて白い葉裏を見せることから「裏見」=「恨み」を響かせる掛詞になっています。つれない恋に揺れる、不安定な心を描いた名歌です。

螺鈿時雨鞍では、この和歌の情景がまるごと鞍の表面に写し取られています。前輪には松、後輪には葛がのびやかに広がり、葉や枝の間にはひそやかに「恋」「時雨」「染」「真」「原」の五文字が螺鈿で嵌め込まれている。歌を知る者が鞍の上を目で辿れば、まるで一冊の歌書をめくるように一首が立ち上がってくる——そんな仕掛けになっているのです。

なぜ国宝に指定されたのか

日本で最高位の文化財指定である「国宝」は、とりわけ芸術的・歴史的価値が高い作品にのみ与えられます。螺鈿時雨鞍は昭和10年(1935)4月30日に重要文化財に、戦後の昭和26年(1951)6月9日に国宝に指定されました。その評価の根拠は、おおむね次の三点に集約されます。

漆工芸における葦手絵(あしでえ)の最高水準

絵の中に和歌の文字を溶け込ませる意匠を「葦手絵」と呼びます。もとは平安時代に料紙装飾として生まれた技法で、水辺の葦や鳥、岩のかたちに見立てて仮名を配し、和歌の一部を絵の中に隠しました。鎌倉時代になるとこの遊戯的な意匠が漆工芸にも取り入れられるようになりましたが、現存する作例は決して多くありません。螺鈿時雨鞍は、なかでも「鎌倉時代における螺鈿鞍の中でも代表的な作品」と評される、葦手絵表現の到達点です。

卓越した螺鈿技法

全体に黒漆を塗ったうえから、薄く加工した夜光貝(やこうがい)を貼り込んで文様を表しています。夜光貝はインド太平洋に生息する大型の巻貝で、真珠層がことのほか厚く、角度によって青・緑・銀と多彩にきらめくのが特徴。螺鈿用の素材として、中世日本で最も珍重されたものです。貝片にはさらに毛彫りや切透かしの技法が加えられ、松葉の細かな筋、葛の葉脈、そして流れるような仮名文字までが精緻に表現されています。見る角度を変えるたびに表情が生まれる、「動く絵画」のような表面です。

武家文化と和歌文学をつなぐ歴史資料として

鞍という武具に新古今集の一首が表現されていることそのものが、貴重な史料です。戦乱の時代にあってなお、高位の武人たちが古典和歌の素養を身につけ、それを自らの馬具に託したという事実を、この一品が物語っています。その意味で、螺鈿時雨鞍は工芸品であると同時に、日本文学史の生きた証人でもあるのです。

見どころ——近づいてこそ見えてくる魅力

螺鈿時雨鞍は常設展示されているわけではありません。永青文庫は年に4回、テーマを定めた展覧会を開催しており、この鞍はそのなかの漆工芸、鎌倉美術、あるいは細川家の武具をあつかう展覧会で時折姿を見せます。実物を前にしたときは、ぜひ次のような細部に注目してください。

葉かげに潜む五文字を探す

前輪・後輪に広がる松と葛の間に散らされた「恋」「時雨」「染」「真」「原」。この五文字を探し当て、心のなかで順に並べていくと、慈円の一首がよみがえります。見る者が能動的に参加しないかぎり完成しない——そんな中世ならではの「参加型の装飾」です。

夜光貝の虹色のきらめき

展示ケースの前で、ゆっくりと身体の位置を変えてみてください。同じ葉が、ある角度では銀白に、別の角度では青や緑に光を放ちます。この虹色のゆらぎこそが、螺鈿が古来珍重されてきた理由。黒漆の静かな深みと、貝の躍動する輝きの対比を、ぜひ体感してみてください。

軍陣鞍ならではの力強い形

高く反り上がる前輪と、腰を強く張った後輪のかたち。これは遊覧用の鞍ではなく、戦場や公式の騎乗に用いられる「軍陣鞍」の特徴です。武具としての力強い骨格と、和歌を表す繊細な意匠——その相反する美質が一体となっているところに、鎌倉武士の美学が凝縮されています。

永青文庫とその周辺——目白台散策のすすめ

永青文庫は、細川家16代当主・細川護立(ほそかわもりたつ、1883〜1970)によって、細川家伝来の文化財を保存・公開する施設として1950年に設立されました。江戸時代には熊本54万石を治めた細川家の下屋敷があった地で、建物自体も昭和5年(1930)に細川侯爵家の家政所(事務所)として建てられた昭和初期の瀟洒な洋風建築です。現在、所蔵品は約9万4000点を数え、そのうち国宝8件・重要文化財35件を含みます。

肥後細川庭園

永青文庫のすぐ隣にあるのが、肥後細川庭園。かつて細川家下屋敷の一部だった池泉回遊式庭園で、無料で入園できます。春の桜、初夏の花菖蒲、秋の紅葉、冬の雪景色——四季を通じて、都心とは思えない静けさに包まれます。

関口芭蕉庵

胸突坂を下ると、神田川沿いに「関口芭蕉庵」があります。松尾芭蕉が、若き日に神田上水の改修工事に携わった際に住んだと伝わる小さな草庵で、池を囲む庭にはいまも芭蕉の句碑が残ります。

ホテル椿山荘東京

道路を挟んだ対岸には、広大な森の庭園をもつホテル椿山荘東京。庭園は宿泊客以外も入場可能で、初夏の蛍の放流や季節ごとのライトアップで知られます。

江戸川公園と神田川沿い

神田川沿いに東へくだると江戸川公園。桜並木が美しく、春には地元の人々の花見の名所としてにぎわいます。

Q&A

Q永青文庫を訪れれば、いつでも螺鈿時雨鞍を見ることができますか?
A常設展示ではありません。螺鈿は光や湿度の影響を受けやすい繊細な工芸品のため、テーマに合わせた展覧会でのみ公開されます。訪問前に永青文庫の公式サイトで、出陳の有無を必ずご確認ください。
Q名前の「時雨」とはどういう意味ですか?
A時雨とは、晩秋から初冬にかけて、さっと降ってはすぐに止む冷たい通り雨のことです。古典和歌では、はかない恋情や紅葉を染める雨の象徴として詠まれます。鞍の意匠の出典となった慈円の歌も、この「時雨」を中心の比喩に据えており、それが作品名の由来となっています。
Q使われている貝は何という種類ですか?
Aインド太平洋の温かい海域に生息する大型の巻貝「夜光貝(やこうがい)」です。真珠層が厚く、青・緑・銀の虹色に光るため、中世日本で最も格の高い螺鈿素材として珍重されました。
Qこの鞍は実際に戦場で使われたのでしょうか?
A形式としては軍陣鞍にあたり、当時の高位武人が正式な出陣や儀礼の場で豪華な漆鞍に乗ることはありました。ただし、現存状態と繊細な仕上げから推すと、この鞍は日常的な戦用というより、儀礼的・象徴的な役割を担う格式の高い一品だったと考えられます。
Q永青文庫では他にどんな作品が見られますか?
A国宝8件を擁する名品コレクションで、「金銀錯狩猟文鏡」(中国戦国時代)、もう1点の国宝鞍「柏木兎螺鈿鞍」、織田信長自筆の書状、宮本武蔵の絵画、菱田春草や横山大観といった近代日本画の名作などが含まれます。年4回、テーマごとに順次公開されています。

基本情報

指定名称 螺鈿時雨鞍(らでんしぐれくら)
種別 国宝・工芸品
時代 鎌倉時代(13〜14世紀)
材質・技法 木心に黒漆塗、夜光貝による螺鈿、毛彫り・切透かし
寸法 前輪高29.6cm/馬挟幅34.0cm、後輪高33.3cm/馬挟幅42.4cm
員数 1背
重要文化財指定 昭和10年(1935)4月30日
国宝指定 昭和26年(1951)6月9日
所有者・所在地 公益財団法人永青文庫 東京都文京区目白台1-1-1
開館時間 10:00〜16:30(入館は16:00まで)
休館日 月曜日(祝日の場合は開館、翌平日が休館)、展示替期間、年末年始
入館料 一般1,000円/シニア(70歳以上)800円/大学・高校生500円/中学生以下無料 ※展覧会により異なる場合あり
アクセス 東京メトロ有楽町線「江戸川橋」駅(出口1a)より徒歩約15分/東西線「早稲田」駅(出口3a)より徒歩約15分/JR「目白」駅より都営バス「目白台三丁目」下車徒歩5分

参考文献

螺鈿時雨鞍 — 文化遺産オンライン(文化庁)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/197340
国指定文化財等データベース — 螺鈿時雨鞍
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/294
公益財団法人永青文庫 公式サイト
https://www.eiseibunko.com/
永青文庫 アクセス
https://eiseibunko.com/traffic.html
文京区 — 永青文庫
https://www.city.bunkyo.lg.jp/b014/p003842.html
GO TOKYO — 永青文庫
https://www.gotokyo.org/jp/spot/436/index.html
WANDER 国宝 — 螺鈿時雨鞍
https://wanderkokuho.com/201-00294/
コトバンク — 葦手絵
https://kotobank.jp/word/葦手絵-25291

最終更新日: 2026.04.23