映画フィルム「楠公訣別」――日本映画黎明期を伝える貴重な一巻
国立映画アーカイブが所蔵するおよそ8万7千本に及ぶ映画フィルムのうち、国の重要文化財に指定されているのは、ごくわずかな作品に限られます。1921年(大正10年)12月8日のたった一日の出来事を記録した「楠公訣別」もそのひとつ。1,053フィートの可燃性ネガフィルムには、日本最初の映画スターが将来の昭和天皇の御前で熱演を披露し、映画という新しい芸術が文化的地位を確立しようとしていた歴史的瞬間が、生き生きと刻まれています。映画の黎明期や武士道伝説、大正という時代に魅せられた旅人にとって、この短い一巻のフィルムが語る物語は、ひときわ味わい深いものです。
「楠公訣別」とはどのような作品か
「楠公訣別」は、正式には「史劇 楠公訣別」と題された1921年(大正10年)製作の無声映画です。35ミリ可燃性オリジナル・ネガフィルム、全長1,053フィート(およそ320メートル)、一巻という構成で、現在は神奈川県相模原市にある国立映画アーカイブ相模原分館に大切に保管されています。
この映画は、文部省が主催し1921年11月20日から12月10日にかけて開催された、日本初の映画展覧会「活動写真展覧会」の最終盤に行われた特別な出来事を記録したものです。会場は湯島聖堂内に設けられていた東京博物館(現在の国立科学博物館)で、来場者は13万人を超える盛況ぶりでした。会期末の12月8日には、当時の摂政宮殿下(後の昭和天皇)が行啓され、館内をご覧になったあと、屋外で日本最初の映画スター・尾上松之助一派による「桜井の別れ」の実演と撮影風景をご覧になりました。フィルムには、その実演の様子だけでなく、撮影が行われている現場そのもの、すなわちカメラの位置や撮影スタッフの動きまでもが映し込まれています。
「桜井の別れ」――楠木正成と正行、父子の訣別
劇中で再現されているのは、日本史でもっとも知られた別れの場面のひとつです。鎌倉幕府の打倒を志す後醍醐天皇に忠義を尽くした武将・楠木正成(1294?~1336)は、湊川の戦いに敗北を覚悟しつつ赴く途上、桜井の駅で幼い嫡男・正行に最後の言葉を残します。正成は息子に、家の行く末だけでなく、皇室への忠誠という大義そのものを託したと伝えられ、近代以降の修身教育や唱歌の題材としても繰り返し語り継がれてきました。
本作で楠木正成を演じるのは、ほかならぬ尾上松之助その人。息子・正行役は尾上松葉が務めています。わずか数分のフィルムのなかに、大正期の観客が体験した時代劇映画の迫力と、新しい映像表現としての興趣が凝縮されています。
なぜ重要文化財に指定されたのか
2010年(平成22年)6月29日、本作は映画フィルムとしては国内2件目(前年2009年指定の「紅葉狩」に続くもの)の重要文化財に指定されました。指定の背景には、いくつもの価値が重ね合わされています。
極めて稀少なオリジナル・ネガフィルム
無声映画時代の作品は、現存していたとしても後年の上映用ポジや複製ネガであることがほとんどです。「楠公訣別」は、撮影時にカメラに装填された当のフィルム——いわゆるカメラネガであると判断される、きわめて貴重な一巻です。映像のシャープさや豊かなコントラストは、繰り返しのデュープを経ていないことを示しており、製造社・年代を示すフィルム・エッジのイヤーマーク(イーストマン・コダック社製1920年・1921年など)の精査からもこの結論が裏付けられています。
初期映画製作の現場が映り込んだ希少な記録
本作の最大の特色は、撮影場面そのものを画面に取り込んでいる点にあります。撮影機材の配置や複数のカメラの動きが映像に残されており、大正初期の日本映画がどのように作られていたのかを具体的にうかがい知ることのできる、映画製作技術史上の貴重な資料となっています。
映画文化が公的に認知された節目を伝える映像
1921年の「活動写真展覧会」は、文部省が映画を本格的に取り上げた最初の事業であり、来場者13万人超という社会的反響をもたらしました。摂政宮の行啓と御前実演は、娯楽として享受されてきた活動写真が文化として認められた象徴的瞬間でもあります。本作はその転換点を伝える、かけがえのない記録なのです。
日本映画最初のスターが浴した最高の栄誉
愛称「目玉の松ちゃん」で親しまれた尾上松之助(1875~1926)は、日本映画最初のスターと呼ばれる存在で、生涯およそ千本に及ぶ作品に出演しました。摂政宮の御前で実演を披露したこの日は、彼の俳優人生におけるまさに最高の栄誉のひととき。フィルムが撮影されてからおよそ5年後、松之助は世を去りました。
現代の鑑賞者にとっての見どころ
可燃性ネガフィルムは劣化と発火の危険を抱えるため、オリジナルそのものは厳密に温湿度管理された相模原分館で保管され、上映には供されません。しかし、デジタル復元版が国立映画アーカイブの歴史映像ポータル「フィルムは記録する」で公開されており、誰でも自由に視聴することができます。
映像は五つの部分から構成されています。「史劇/楠公訣別/故尾上松之助氏主演」と記された標題部、撮影日「大正十年十二月八日」を含む説明部、樹木を映したごく短い導入部、摂政宮の到着から実演・撮影風景までを捉えた主体部、そして「終」の文字がフェードアウトする末尾部です。同じ画面に映る「ふたりのスター」――俳優としての絶頂期にあった尾上松之助と、若き日の摂政宮殿下の姿に、ぜひ目を凝らしてみてください。
作品を訪ねるなら――国立映画アーカイブ京橋本館へ
フィルム本体は神奈川県相模原市の国立映画アーカイブ相模原分館に保管されていますが、相模原分館はフィルム保存に特化した非公開の施設で、一般の見学はできません。一方、東京・京橋にある国立映画アーカイブ本館は、上映ホール・展示室・図書室を備えた公開施設として、誰でも訪れることができます。
本館7階の展示室では、常設展「NFAJコレクションでみる 日本映画の歴史」を開催。映画ポスターや写真、初期の映写機、映画人ゆかりの遺品など、貴重な所蔵資料を通じて日本映画の歩みをたどることができます。2階の長瀬記念ホールOZUと地下1階の小ホールでは、監督別・国別・ジャンル別など多彩なテーマの特集上映が年間を通じて行われ、図書室では映画関連の書籍や雑誌、映画祭カタログなどを閲覧できます。
本館は東京メトロ銀座線「京橋駅」1番出口から徒歩約1分、JR「東京駅」八重洲南口からも徒歩約10分と、抜群のアクセスの良さです。
京橋・銀座エリアの周辺観光
京橋本館がある一帯は、東京でも屈指の歴史ある商業地区。少し歩けば銀座の洗練されたショッピング街が広がり、印象派から現代日本美術まで質の高いコレクションを誇るアーティゾン美術館も目の前です。重要文化財に指定されている赤レンガの東京駅丸の内駅舎までは徒歩圏内、皇居外苑へもそのまま足を伸ばすことができます。
1921年の活動写真展覧会の舞台となった湯島聖堂や、その敷地内にあった東京博物館の流れを汲む国立科学博物館(上野公園)までは公共交通機関で30分ほど。映画文化のはじまりの地を訪ね歩くという、もうひとつの旅路もおすすめです。
Q&A
- 「楠公訣別」を実際に見ることはできますか?
- はい、ご覧いただけます。1921年撮影のオリジナル可燃性ネガフィルムは保存のため上映されませんが、国立映画アーカイブが運営するWEBサイト「フィルムは記録する」上で、デジタル復元版が無料で公開されています。上映時間は数分ほどで、全篇を一度に視聴可能です。
- フィルムが保管されている相模原分館を見学できますか?
- 相模原分館はフィルム保存に特化した施設で、一般には公開されていません。映画文化に触れたい方は、東京・京橋にある国立映画アーカイブ本館にぜひお越しください。本館では展示室、上映ホール、図書室を一般公開しています。
- この映画はなぜそれほど重要なのですか?
- 日本映画黎明期の現存するオリジナル・ネガフィルムとしてきわめて稀少なこと、撮影現場そのものが映り込んでおり映画製作技術史の資料となること、映画が文化として認知された歴史的瞬間を伝えること、そして日本映画最初のスター・尾上松之助の演技を記録していること――これら複数の価値が重なる、唯一無二の作品だからです。
- 尾上松之助とはどのような俳優ですか?
- 尾上松之助(1875~1926)は、日本映画最初のスターとされる存在で、「目玉の松ちゃん」の愛称で親しまれました。歌舞伎の出身ながら早くから映画に活躍の場を移し、生涯およそ千本もの作品に出演。明治末から大正期にかけて、国民的人気を博した俳優です。
- 「桜井の別れ」とはどのような物語ですか?
- 14世紀の武将・楠木正成が、湊川の戦いに赴く前に桜井の駅で幼い息子・正行と別れを告げた故事を指します。再び戻れぬことを覚悟した正成は、子に皇室への忠義を遺言として託したと伝えられ、日本の歴史劇や修身教育で繰り返し語られてきた、もっともよく知られた別離の場面のひとつです。
基本情報
| 名称 | 映画フィルム「楠公訣別」(正式名「史劇 楠公訣別」) |
|---|---|
| 指定区分 | 重要文化財(2010年6月29日指定) |
| 製作年 | 1921年(大正10年)/撮影日:1921年12月8日 |
| 形態 | 35mm可燃性オリジナル・ネガフィルム、1,053フィート、1巻、無声 |
| 出演 | 尾上松之助(楠木正成役)、尾上松葉(楠木正行役)ほか尾上松之助一派 |
| 製作 | 日活株式会社 |
| 所有 | 独立行政法人国立美術館(国立映画アーカイブ) |
| 保管場所 | 国立映画アーカイブ相模原分館(〒252-0221 神奈川県相模原市中央区高根3-1-4)/一般非公開 |
| 公開施設 | 国立映画アーカイブ京橋本館(〒104-0031 東京都中央区京橋3-7-6)/東京メトロ銀座線「京橋駅」1番出口より徒歩約1分 |
| 公開時間 | 展示室11:00~18:30(入室は18:00まで)/月曜・年末年始・上映準備期間および展示替期間は休館 |
| オンライン視聴 | 「フィルムは記録する―国立映画アーカイブ歴史映像ポータル―」にてデジタル復元版を公開 |
参考文献
- 映画フィルム「楠公訣別」 文化遺産オンライン
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/169041
- 映画フィルムの重要文化財指定 ― 国立映画アーカイブ
- https://www.nfaj.go.jp/research/jubun/
- 史劇 楠公訣別[デジタル復元版] ― フィルムは記録する(国立映画アーカイブ歴史映像ポータル)
- https://filmisadocument.jp/films/view/185
- 国立映画アーカイブ 公式サイト
- https://www.nfaj.go.jp/
- アクセス ― 国立映画アーカイブ
- https://www.nfaj.go.jp/visit/access/
- 国指定文化財等データベース ― 文化庁
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/00011354
最終更新日: 2026.05.03