映画フィルム「紅葉狩」――現存する日本最古の映画を訪ねて

明治三十二年(一八九九年)十一月、東京・歌舞伎座の裏手にある芝居茶屋「梅林」の前庭に、にわか作りのオープンステージが組まれました。風の強い日でした。そこに登場したのは、当代きっての名優・九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎。彼らがカメラの前で演じたわずか四分弱の映像こそ、日本人の手によって撮影された現存する最古の映画――『紅葉狩』です。二〇〇九年、本作は映画フィルムとして史上初めて国の重要文化財に指定されました。歌舞伎ファンにとっても、映画史に関心を持つ世界中の旅行者にとっても、この一巻のフィルムは「日本が初めて自らをスクリーンに映した瞬間」を伝える、かけがえのない文化遺産です。

フィルムに記録された世界

『紅葉狩』は、能を原拠として明治二十年(一八八七年)に新富座で初演された歌舞伎舞踊の一場面を撮影したものです。物語の主人公は平維茂。信州・戸隠山に紅葉狩りに訪れた維茂は、美しい更科姫と出会い、酒を勧められます。しかしその姫の正体は鬼女。フィルムにはまさに、姫が鬼の本性をあらわし、維茂と紅葉の枝と太刀を交えて闘う、息詰まる場面が収められています。

演じる二人もまた、明治歌舞伎を代表する大看板でした。当時六十代に入っていた九代目市川團十郎が更科姫(鬼女)を、五代目尾上菊五郎が維茂を勤めています。二人はこの撮影の四年後、いずれも明治三十六年(一九〇三年)に世を去ります。つまり本フィルムは、二人の至芸を動く映像として伝える唯一の記録ということになります。

映像をよく観ると、舞いの最中に團十郎の扇が一本、突風で吹き飛ばされる場面があります。フィルムは貴重で再撮影は許されず、團十郎自身も撮り直しを認めなかったため、慌てて飛び出した黒衣が扇を拾い上げる姿までもがそのまま残されました。世界最古の「NG映像」と呼ばれることもある名場面です。

撮影に至るまでの経緯

撮影を担当したのは、小西写真店に勤める若き技師・柴田常吉。輸入されたばかりのゴーモン製カメラと三本のフィルムが用いられました。発案者は当時の歌舞伎座支配人・井上竹次郎で、舞台で上演中の「紅葉狩」をそのまま活動写真として記録するという、当時としては大胆な企画でした。

当時のフィルム感度では舞台照明での室内撮影は不可能であったため、歌舞伎座裏手の梅林の庭に仮設舞台を組み、自然光のもとで撮影が行われました。團十郎はこの撮影を承諾するにあたって、「自分の生存中は決して一般公開しない」という条件を付したと伝えられています。生きた舞台こそが芸の本質であり、活動写真がそれを安易に置き換えることを彼は警戒していたのです。

ところが運命は思わぬ方向に動きます。明治三十六年七月、團十郎は病に倒れ、大阪・中座への出演を断念せざるを得なくなります。観客への代役として彼が許可したのが、ほかならぬこの『紅葉狩』のフィルム上映でした。同年九月、團十郎は世を去り、菊五郎もすでに同年に亡くなっていました。記録のためのフィルムは、二人の名優を偲ぶ唯一の手段として、にわかに大きな意味を帯びることになったのです。

なぜ重要文化財に指定されたのか

長らく日本では、映画フィルムは「文化財」として法的に位置づけられてきませんでした。絵画、彫刻、建築といった旧来の文化財に比べ、映画は娯楽商品として扱われてきたためです。しかし二十一世紀に入り、世界各国で映画フィルムを文化遺産として保護する動きが広がります。二〇〇一年にドイツがフリッツ・ラング監督『メトロポリス』を、続いてフランスがリュミエール兄弟の現存全作品を、アメリカが『オズの魔法使い』のオリジナル・ネガを文化遺産に登録するなど、保存の機運が国際的に高まりました。

日本でその第一号となったのが本作です。平成二十一年(二〇〇九年)七月十日、文化審議会は『紅葉狩』を重要文化財に指定しました。指定対象となったのは、昭和二年(一九二七年)に日活株式会社が複製・寄贈した三十五ミリ可燃性デュープネガ・フィルム(三百四十二フィート十三コマ)。当時の毎秒十六コマで映写すると、上映時間は三分五十秒となります。これにより日本でも映画フィルムが法的に文化財として保護される道が開かれ、その後二件のフィルムが続いて重要文化財に指定されました。

指定理由は大きく三つに整理できます。第一に、日本人が撮影した現存最古の動画であり、日本映画の幕開けを象徴する作品であること。第二に、明治期を代表する二人の歌舞伎名優の至芸を伝える唯一の動画資料であり、芸能史上の一級史料であること。第三に、一九二七年製の可燃性フィルムそのものが、初期映画の物質的遺産として希少であることです。

フィルムが守られている場所

重要文化財に指定された原版は、神奈川県相模原市にある国立映画アーカイブ相模原分館の温湿度管理された保存庫に納められています。一九八六年に開設され、二〇一四年には可燃性フィルム専用の第三保存庫が増築された同分館は、アジア有数の映画保存施設として知られています。可燃性フィルムは化学的に不安定で発火の恐れもあるため、相模原分館は一般公開されていません。

一方、本作を所蔵・公開する国立映画アーカイブは、東京・京橋に本館を構え、誰でも訪れることができます。東京駅から徒歩圏という好立地にあり、七階の常設展示「日本映画の歴史」では、明治の黎明期から現代までの日本映画史が紹介されており、『紅葉狩』もその物語の冒頭を飾る作品として位置づけられています。館内には二つの上映ホールがあり、年間を通じて様々な特集上映が行われています。

見どころと楽しみ方

原版フィルムを直接目にすることはできませんが、その遺産にふれる方法はいくつもあります。京橋本館七階の常設展示室には、初期の撮影機材、ポスター、スチル写真、衣装など、百年を超える日本映画の歩みを物語る品々が並びます。日本映画の出発点をたどりたい方にとって、まずここを訪れるのが理想的な入り口です。年間を通じて開催される企画展では、サイレント期や特定の監督・俳優にスポットを当てた展示もしばしば行われます。

『紅葉狩』そのものを観たい方には、国立映画アーカイブが運営する「映像でみる明治の日本」のオンライン配信ページで、デジタル復元版を無料で視聴することができます。YouTube等にもパブリック・ドメインとして公開されています。展示を観る前後にこの三分五十秒の映像を実際に体験すると、ガラスケースに納められた木製カメラや脆くなったフィルム缶が、まったく違った重みをもって迫ってくるはずです。

京橋本館から徒歩圏には、銀座の歌舞伎座があります。一八九九年に『紅葉狩』が撮影されたあの歌舞伎座の、直系の後継となる劇場です。一幕見席を利用して短時間でも実際の歌舞伎を体験すれば、百二十年以上前に柴田常吉のカメラが捉えようとしていた芸能の世界を、もっとも近い形で味わうことができるでしょう。

周辺の見どころ

京橋エリアは、東京観光の三大スポットが交差する好立地にあります。南へ徒歩五分ほどで老舗百貨店と歌舞伎座が立ち並ぶ銀座、北へ向かえば赤煉瓦の東京駅丸の内駅舎と丸の内ビジネス街に至ります。国立映画アーカイブの真向かいには、近代日本洋画と西洋絵画の名コレクションを誇るアーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)があります。一日かけて散策する場合は、築地場外市場、浜離宮恩賜庭園、皇居東御苑などもすべて徒歩または短い乗車時間で巡ることができます。

Q&A

Q重要文化財の原版フィルムを直接見ることはできますか?
Aいいえ、相模原分館の保存庫に低温保管されており、可燃性であるため一般公開はされていません。ただし、国立映画アーカイブ京橋本館でデジタル復元版が上映されることがあり、また「映像でみる明治の日本」のオンライン配信で誰でも視聴できます。
Qフィルムの長さや内容を教えてください。
A毎秒十六コマで映写して約三分五十秒です。屋外仮設舞台で歌舞伎の衣装を纏った團十郎と菊五郎が、舞踊と立廻りを演じる姿が記録されています。撮影中に風で吹き飛んだ團十郎の扇を黒衣が拾う場面もそのまま残されています。
Q舞台の記録映像にすぎないのに、なぜそれほど重要なのですか?
A日本人が撮影した現存最古の動画であり、明治を代表する二人の名優・九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎の芸を伝える唯一の動画資料であり、さらに日本で初めて重要文化財に指定された映画フィルムだからです。日本映画は「記録」から始まったという歴史を象徴する作品でもあります。
Q日本語が分からなくても国立映画アーカイブを楽しめますか?
Aはい。七階の常設展示は日本語に加え英語・中国語・韓国語の解説パネルが整備されています。映画ポスターやカメラ、スチル写真などビジュアル中心の展示が多く、言語に頼らず楽しめます。サイレント映画や外国映画の上映も多く、字幕なしでも鑑賞しやすい作品が選ばれています。
Q『紅葉狩』のほかに重要文化財に指定された映画フィルムはありますか?
Aはい。『紅葉狩』が二〇〇九年に道を拓いたあと、二〇一〇年に『史劇 楠公訣別』(一九二一年)、二〇一一年に『小林富次郎葬儀』(一九一〇年)が続いて指定を受けました。いずれも国立映画アーカイブが所蔵しています。

基本情報

名称 映画フィルム「紅葉狩」
撮影年 明治三十二年(一八九九年)十一月
指定対象 三十五ミリ可燃性デュープネガ・フィルム(昭和二年/一九二七年製)
長さ・上映時間 一〇四・五メートル(三百四十二フィート十三コマ)/毎秒十六コマで約三分五十秒
撮影者 柴田常吉(小西写真店)
出演 九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎
指定区分 重要文化財(歴史資料)/平成二十一年(二〇〇九年)七月十日指定
所有者 独立行政法人国立美術館
保管場所 国立映画アーカイブ相模原分館(神奈川県相模原市高根三丁目一番四号)
公開施設 国立映画アーカイブ京橋本館(東京都中央区京橋三丁目七番六号)
最寄駅(京橋本館) 東京メトロ銀座線「京橋駅」、都営浅草線「宝町駅」より徒歩約一分

参考文献

映画フィルム「紅葉狩」 映像 ― 文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/449300
映画フィルム「紅葉狩」 ― 文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/136104
映画フィルムの重要文化財指定 ― 国立映画アーカイブ
https://www.nfaj.go.jp/collection/index/jubun/
国立映画アーカイブ ― 独立行政法人国立美術館
https://www.artmuseums.go.jp/museums/nfaj
紅葉狩 (映画) ― Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/紅葉狩_(映画)
「紅葉狩」現存最古の赤染色版復元 国立映画アーカイブ ― 日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD210AR0R20C22A4000000/

最終更新日: 2026.04.26