温故学会会館:渋谷の高台に佇む、二万枚の版木を守り続ける登録有形文化財

世界中の旅行者でにぎわう渋谷スクランブル交差点から徒歩わずか十数分。閑静な住宅街の高台に、ひっそりと建つ知る人ぞ知る建築の名作があります。それが昭和二年(1927)に竣工した「温故学会会館」です。鉄筋コンクリート造の重厚な壁の内側に、江戸時代に刻まれてから二百年以上の時を経た版木が、なんと約二万枚も大切に守られています。

会館を運営するのは、明治四十二年(1909)に渋沢栄一らによって設立された公益社団法人温故学会。江戸時代後期の全盲の国学者・塙保己一の偉業を顕彰するために生まれたこの学術団体が、塙保己一の畢生の大業『群書類従』の版木を、戦災や震災を乗り越えて今日まで守り続けてきました。歴史好きの方、書物を愛する方、近代建築のファン、そして渋谷の喧騒の隙間にひっそりと息づく時間を見つけたい旅行者にとって、ここは静かな感動が待つ目的地です。

歴史的背景

温故学会会館の物語を語るには、その壁の中に息づく二人の人物について触れないわけにはいきません。

塙保己一――文化の記憶を救った全盲の学者

塙保己一(はなわ ほきいち、1746〜1821)は、武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町)の農家に生まれました。七歳のとき、病によって視力を完全に失います。それでも学問への情熱は衰えず、十五歳で江戸へ上って当道座(盲人の組織)に入門し、半世紀以上に及ぶ学究の道を歩み始めました。

「博覧強記にして書、万巻を暗誦す」――同時代の文人・大田南畝にこう評されたほど驚異的な記憶力を備えた保己一は、人生の四十一年間を一つの巨大な事業に捧げました。古代から江戸初期に至るまでの貴重な古典が、寺社や公家、大名家のあちこちに散逸し、失われつつあることを憂えた保己一は、これらを収集・校訂・分類し、一つの叢書として刊行することを志したのです。それがおよそ千二百七十七種、六百六十六冊からなる古典叢書『群書類従』です。

老中・松平定信は「塙は人にあらず、書物の精が生まれ変わったのだ」と語ったと伝えられています。さらに、世界的に著名なヘレン・ケラーは1937年と1948年の二度の来日時にいずれも温故学会を訪れ、幼い頃から塙保己一の生涯が自身の心の灯であったと語ったと記録されています。

渋沢栄一と温故学会の誕生

明治維新の混乱の中で、『群書類従』の版木は一時行方不明となっていましたが、明治四十二年(1909)、文部省の倉庫の中で再発見されます。同年、保己一の偉業を後世に伝えるため、保己一の曾孫・塙忠雄、宮中顧問官の井上通泰、文学博士の芳賀矢一、そして「日本資本主義の父」と呼ばれ、令和六年(2024)から新一万円札の肖像にも採用された渋沢栄一らによって、温故学会の前身が設立されました。

会館の建設は、第二代理事長の斎藤茂三郎が陣頭指揮を執り、渋沢栄一、三井家の三井八郎右衛門ら各界の著名人に協賛を呼びかけて全国から寄付を集めて実現したものです。大正十五年(1926)八月に着工し、昭和二年(1927)三月に竣工しました。設計と施工を担当したのは、日本を代表する建設会社の一つ、清水組(現・清水建設)でした。

文化財に指定された理由

温故学会会館は、平成十二年(2000)四月二十八日付で文化庁により国の登録有形文化財(建造物)として登録されました。その価値は、建築としての独自性、ほぼ創建当時の姿を保つ良好な現状、そして日本屈指の古典資料庫としての歴史的意義の三つが見事に重なり合うところにあります。

会館の設計が始まったのは、東京の街並みを壊滅させた大正十二年(1923)の関東大震災の直後でした。清水組に課された使命は明快で、地震にも火災にも耐え、内部に収める二万枚を超える版木を確実に守り抜く建物を造ることでした。その答えとして生まれたのが、正面と背面に整然と並ぶバットレス(控え壁)を特徴とする鉄筋コンクリート造二階建の堅牢な建築です。実際に会館は、第二次世界大戦中の東京大空襲をも生き延び、周辺の建物の多くが焼失する中、ほぼ無傷で創建当時の姿のまま現存しています。

そして、この建物が守り続けてきた中身そのものも極めて重要です。内部に収蔵される『群書類従』の版木一万七千二百四十四枚は、昭和三十二年(1957)に国の重要文化財に指定されています。これに加えて『万葉集』『徒然草』(東京都指定有形文化財)、『御江戸図説集覧』(渋谷区指定有形文化財)の版木なども収蔵されており、会館全体で約二万枚もの版木を保管しています。建物と中身が分かちがたく結びついた稀有な文化財建築といえるでしょう。

建築の見どころ

温故学会会館の魅力は、ゆっくりと建物に近づいていく時間そのものにあります。前庭の隅に置かれた塙保己一の銅像が静かに来訪者を迎え、左右対称に建つ二階建てのコンクリート建築が、住宅街の中で堂々とした存在感を放ちます。正面から見ると、まるで鳳凰が両翼を広げたような形をしているとも形容され、忘れられかけた知の再生を象徴する建物にふさわしい姿です。

円形の玄関ポーチと連続するバットレス

正面中央には円形の玄関ポーチが張り出し、入口を柔らかな曲線で縁取っています。簡明で硬質な全体の意匠の中で、この円形のアプローチは穏やかな表情を与えています。その左右には、壁面いっぱいの高さを誇るバットレスが整然と立ち並び、背面側にも同じリズムで連続しています。バットレスは耐震上の役割を担うと同時に、まるで聖堂のような厳粛な律動を建物に刻み込んでおり、機能と意匠が見事に一体化しています。

二つの翼に分かれた内部構成

建物の内部は、左右二つの翼にはっきりと役割が分かれています。向かって右側の翼は一階・二階ともに版木倉庫として使われ、版木が反らないよう一枚ごとに枠木で押さえられた状態で大切に保管されています。一方、向かって左側の翼は、一階が事務室、二階が二十七畳の和風講堂となっており、床の間を備えた純和風の空間が、洋風の建築ボリュームの中に組み込まれた和洋折衷の珍しい構造です。大正末から昭和初期にかけての日本の和洋融合の精神が、そのまま建物の中に息づいています。

収蔵庫に並ぶ一万七千枚以上の版木

多くの来訪者が最も心を動かされるのは、収蔵庫に足を踏み入れた瞬間です。桜材で作られ、両面に左右反転した漢字が彫られた版木が、一枚一枚専用の枠に収められて整然と並ぶ光景は圧巻です。職員の方からは、これらの版木が江戸時代に一頁ずつ刷られて『群書類従』が完成していった経緯や、現在もなお希望者の注文に応じて摺立て頒布が続けられているという驚くべき事実が説明されます。二百年前に刻まれた文字の前に立つとき、文学史の重みを物理的に感じ取ることができます。

見学のご案内

温故学会会館は「塙保己一史料館」として一般公開されています。館内は決して大きくはなく、職員の方が版木倉庫まで同行して丁寧に解説してくださるため、できるだけ事前に電話で問い合わせのうえ訪問されることをお勧めします。とくに海外からのお客様は、言語面での準備のためにも事前連絡が望ましいです。

開館は平日(月曜から金曜)の午前九時から午後五時までで、土曜・日曜・祝日については施設にお問い合わせください。入館料は大人百円、小・中学生は無料という大変良心的な価格です。見学の所要時間はおおむね三十分から一時間ほどです。

JR渋谷駅新南口から徒歩でおよそ十五〜十八分、東の広尾方面に向かって緩やかな坂を上っていくと到着します。バスを利用する場合は、渋谷駅前から都営バス「日赤医療センター行」に乗車し、三つ目の停留所「國學院大學前」で下車、進行方向に二百メートルほど歩くと目的地に至ります。

周辺情報

温故学会会館の周辺は、都心とは思えないほど落ち着いた雰囲気が広がる、東京でも有数の散策に適したエリアです。会館訪問と組み合わせて訪れたい場所をご紹介します。

  • 渋谷氷川神社:会館のすぐ隣に鎮座する、渋谷でも最古級の神社。樹齢を重ねた木々に囲まれた境内は、都心のオアシスのような静けさです。
  • 國學院大學博物館:徒歩約五分の距離にあり、考古資料や神道関連の展示を無料で見学できる充実した博物館です。
  • 金王八幡宮:渋谷の地名の由来となった中世の武士・渋谷金王丸ゆかりの古社で、渋谷駅方面に戻る途中で立ち寄ることができます。
  • 豊栄稲荷神社:個性豊かな石造りの狐像が並ぶ稲荷神社で、こちらも近隣にあり寄り道に最適です。
  • 渋谷駅周辺の現代スポット:渋谷スカイ、渋谷ヒカリエ、スクランブル交差点など、いずれも徒歩十五分圏内にあり、静かな歴史と賑やかな現代を一日で味わうことができます。

Q&A

Q温故学会会館を訪ねるには、事前予約が必要ですか?
A平日の個人見学であれば当日のご訪問が受け付けられる場合もありますが、できるだけ事前にお電話で予約をお取りいただくことをお勧めします。とくに団体での訪問や土日祝日の見学希望は事前連絡が必須です。事前連絡があるほうが、職員の方からより充実した解説を受けられる可能性も高まります。
Q本物の版木を実際に間近で見ることはできますか?
Aはい。多くの博物館がガラス越しに資料を展示しているのに対し、温故学会会館では収蔵庫に直接入って、江戸時代に彫られた一万七千枚を超える版木を間近にご覧いただけます。これほど近い距離で実物に触れる体験ができる施設は、全国的にも極めて貴重です。
Q英語での解説や案内はありますか?
A館内の解説資料は基本的に日本語で、定期的な英語ガイドツアーは行われていません。ただし職員の方は親切に対応してくださいますので、海外からのお客様は事前にご連絡のうえ、可能であれば日本語の話せる同行者や翻訳アプリをご用意いただくと、より深く楽しめます。
Q館内で写真を撮影してもよいですか?
A収蔵庫内での撮影については条件がある場合がありますので、来館時に必ず職員の方にご確認ください。建物の外観や入口の塙保己一銅像については、原則として自由に撮影いただけます。
Qなぜ塙保己一はヘレン・ケラーと関係があるのですか?
Aヘレン・ケラーが幼少期から母親に塙保己一の生涯を聞かされ、目の見えない人間がここまでの偉業を成し得るという希望の象徴として尊敬し続けたと伝えられています。1937年と1948年の二度の来日時にはいずれも温故学会を訪問し、塙保己一の銅像に手を触れて感慨を深めたと記録されています。

基本情報

名称 温故学会会館(おんこがっかいかいかん)
文化財指定 登録有形文化財(建造物)/登録年月日:平成12年(2000)4月28日
所在地 〒150-0011 東京都渋谷区東2-9-1
所有・運営 公益社団法人温故学会
竣工 昭和2年(1927)3月/大正15年(1926)8月着工
設計・施工 清水組(現・清水建設)
構造 鉄筋コンクリート造二階建/建築面積187㎡
開館時間 平日(月〜金)9:00〜17:00(土・日・祝日は要問合せ)
入館料 大人 100円/小・中学生 無料
電話・FAX 03-3400-3226
アクセス JR渋谷駅から徒歩約15〜18分/渋谷駅から都営バス「日赤医療センター行」乗車、「國學院大學前」下車徒歩約3分

参考文献

文化遺産オンライン「温故学会会館」(文化庁)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/148175
塙保己一史料館(公益社団法人温故学会)公式サイト
http://onkogakkai.com/
温故学会会館について|温故学会公式サイト
http://onkogakkai.com/aboutonkogakkai/kaikan/
見学案内|塙保己一史料館
http://onkogakkai.com/observation/
事業内容と歴史|温故学会公式サイト
http://onkogakkai.com/aboutonkogakkai/workandhistory/
温故学会会館 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/温故学会会館
塙保己一史料館(温故学会)|埼玉県東京事務所
https://www.pref.saitama.lg.jp/b0101/saitama-related-place/onkogakkai.html
SHIBUYA CITY RECORD「渋沢栄一が保存に尽力した、全盲の学者・塙保己一の『群書類従』とは?」
https://shibuya-city-record.tokyo/citystory/article/article-005/

最終更新日: 2026.04.29