大島のサクラ株 ― 樹齢800年、いまも歩み続ける一本の桜
東京の中心部から南へおよそ120キロメートル。火山の島・伊豆大島の北東部、泉津地区の山中に、日本にひとつとして同じものがない桜の老樹が立っています。その名を「大島のサクラ株」、地元では昔から「サクラッカブ」と呼び親しまれてきた一本のオオシマザクラです。
主幹はとうの昔に折れ、残されたのは胸高周囲およそ7.9メートルにおよぶ巨大な株。しかし、この桜は枯れませんでした。倒れた太枝が地面に触れたところから新たな根を下ろし、そこから垂直に伸びあがった幹が、母樹を取り囲むように立ち並んでいます。樹齢は推定800年以上。樹形を変えながら世代を超えて生き続けるこの姿は、日本にひとつしかない特別天然記念物として、東京都が誇る唯一の植物の特別天然記念物となっています。
溶岩の島に生き残った巨樹
伊豆大島は、活火山・三原山の山体そのものが海上に姿をあらわした火山島です。サクラ株は、都立大島公園から三原山へと続く道の途中、海抜およそ230メートルの斜面に根を下ろしています。注目すべきは、この場所がかつて溶岩流に覆われた地帯であることです。
地質図のうえでは、樹のまわりは1552年(天文21年)の大噴火で流れ出た玄武岩質溶岩で覆われています。そのため、長くサクラ株はこの噴火以降に生えた若木と考えられてきました。しかし、その後の精密な地形調査によって意外な事実が明らかになります。サクラ株が生えている土地は周囲よりわずかに高く、伊豆大島特有の粘性の低い溶岩は、ここを呑み込む手前で二手に枝分かれし、低い方へと流れ下っていたのです。サクラ株は、噴火の業火に囲まれながらも、まるで島のように残された古い森のなかで生き延びていました。
地質学では、こうした「新しい溶岩流に囲まれて取り残された古い森」をハワイの言葉で「キプカ(kipuka)」と呼びます。サクラ株は、まさに日本を代表するキプカの住人。何度も繰り返される噴火に静かに耐え、周囲のあらゆるものが新たな石に生まれ変わってもなお、この一本だけが生き続けてきました。
「歩く桜」と呼ばれる稀有な生態
初めて訪れた人の多くは、この樹の姿に驚きます。整った笠状の樹冠も、すらりと伸びた一本立ちの幹もありません。中心にあるのは「元株」と呼ばれる老いた基部で、樹高はおよそ2メートル。その上部はすでに枯死しています。元株のまわりには、大蛇のように地を這う太枝が横たわり、北・東・西の三方からはまっすぐに伸びた幹が立ち上がっています。
これらは別の木ではなく、すべて一本の桜です。長い歳月のあいだに、台風や強風で太枝が次々と倒れました。しかし、地面に触れた太枝はそのまま朽ち果てるのではなく、土に接した部分から不定根を伸ばし、その根のところから新しい幹を立ち上げてきたのです。樹木医はこれを「歩く桜」と呼びます。一方向に倒れ、倒れた先で再び立ち上がることで、樹そのものが時を超えて少しずつ移動していく――そうした稀有な生命のはたらきが、ここに記録されています。
2004年5月29日には強風で大きな太枝が、続いて2005年の台風でも大枝が倒壊しました。それでもサクラ株は毎年春に花を咲かせます。現在は元株に加え、北株・東株・西株の3つの子株が独立した幹となり、地下では不定根が水分と養分を集めては元株へと送り返す、いわば四本でひとつの命を支える地下のネットワークが営まれています。
なぜ特別天然記念物に指定されたのか
大島のサクラ株は、1935年(昭和10年)12月24日に天然記念物に指定され、1952年(昭和27年)3月29日には特別天然記念物に格上げされました。特別天然記念物は日本の自然遺産保護のなかで最上位の指定であり、「特に学術上または文化上の価値が高いもの」だけに与えられます。東京都にある植物としては、現在もこの一樹だけがこの最高位の指定を受けています。
指定の理由はいくつもあります。まず、現存するオオシマザクラのなかで最古かつ最大とされ、株の周囲はおよそ7.9メートルに達すること。次に、本種は日本のサクラ栽培品種の母なる存在のひとつで、誰もが知るソメイヨシノはこのオオシマザクラを父親としています。そしてなにより、倒れても倒れても根を下ろし、新たな幹を立ち上げて生き続けるその生態は、不定根を出しやすいサクラ属のなかでも特異と評され、学術的にきわめて貴重なものとされています。
文化的な側面も無視できません。地元の人々はこの樹を、国の指定を受けるよりはるか以前から大切に守ってきました。かつては幹にしめ縄が張られ、御幣が供えられ、神木として崇められていました。花が早く散る年は嵐や不作の前触れだと言い伝えられ、島の暮らしの暦のなかにしっかりと組み込まれていたのです。
船を導いた「海上の灯台」と伝説
江戸時代、まだ灯台も近代的な航海術もなかったころ、房総半島から大島へ海を渡る船は、このサクラ株を目印として泉津港をめざしたといわれています。海上から見上げれば、黒い溶岩の斜面と深い緑の島影のなかで、春の白い大樹はひときわ鮮やかに浮かび上がり、まさに「生きた灯台」として船人を導いていたのでしょう。
さらに古い伝承もあります。修験道の祖とされる役の行者(えんのぎょうじゃ)がみずから植えたという言い伝えです。役の行者は699年に伊豆へ流されたと伝わるため、もしこの伝承が史実であれば、サクラ株の樹齢は1300年を超えることになります。学術的には800年が穏当な推定とされていますが、この伝説は、土地の人々がこの樹にどれほどの畏敬を抱いてきたかを物語っています。
見どころと訪れるべき時期
サクラ株へは、都立大島公園を過ぎたあたりで島の一周道路から分岐する「あじさいレインボーライン」を山側へ進みます。樹のまわりには木道と解説看板が整備されており、さまざまな角度から間近に観察することができます。南側にはホルトノキやスダジイなどの高木が茂り、サクラ株はその木陰を縫うように長い年月を生きてきました。
花の盛りは3月下旬。本土のソメイヨシノよりも少し早く、オオシマザクラは開花とほぼ同時に新緑を展開するため、純白の花びらが柔らかな若葉に映えるのが特徴です。老樹であるため一本に咲く花の量は決して多くはありませんが、それゆえに、わびさびの美意識――時の流れと無常をたたえる日本独自の美――をこれほど雄弁に語る桜は、他にあまり見当たりません。
同じ時期、大島の島花である椿の花もまだ咲き残っていることが多く、紅と白の花が島全体に重なります。サクラ株から道をさらに登れば、三原山の広大な火口原が広がり、黒い砂礫の大地と眺望が訪れる人を待っています。
周辺の見どころ
すぐ近くの都立大島公園は、入園無料の動物園としては国内有数の規模を誇り、ニホンツキノワグマや霊長類、鳥類などをゆったりとした環境で見ることができます。三原山は登山口から往復2時間ほどの行程で、月面のような黒いスコリアの大地を歩き、いまも噴気を上げる山頂火口を訪れることができます。島の南西部にある「地層大切断面(バウムクーヘン)」は、何千年にもおよぶ噴火の歴史が縞模様の崖となって露出する圧巻のジオサイトです。
東京中心部からの交通手段は、竹芝桟橋から大型客船で6〜8時間、高速ジェット船でおよそ1時間45分、または調布飛行場から飛行機で約25分。同じ東京都に属しながら、まったく別の時間が流れている島です。
Q&A
- 大島のサクラ株の樹齢はどれくらいですか?
- 一般には樹形と株のサイズから推定樹齢800年以上とされています。役の行者が699年に伊豆へ流された際に植えたという伝承もあり、これに従えば1300年を超えますが、こちらは学術的に裏付けられたものではなく、あくまで伝説として伝えられています。
- 入場料や開園時間はありますか?
- ありません。公道沿いに位置し、いつでも無料で観覧できます。樹のまわりには木道と解説看板が整備されています。照明はなく周囲は森林ですので、明るい時間帯の見学をおすすめします。
- 花を見るのに最適な時期はいつですか?
- 通常3月下旬が見頃です。本土のソメイヨシノよりやや早い時期にあたります。オオシマザクラは開花と同時に葉を展開する種なので、ピンク一色ではなく、白い花と若葉のコントラストを楽しむことができます。
- なぜ枝が地面に横たわるような独特の樹形をしているのですか?
- 主幹は何世紀も前に折れ、その後の台風で太枝も次々に倒れてきました。倒れた枝が朽ちずに地面で根を下ろし、そこから新たな幹が立ち上がってきたためです。樹そのものが移動しながら生き続ける「歩く桜」とも呼ばれる現象で、学術的にも非常にめずらしいものとされています。
- ソメイヨシノとはどのような関係がありますか?
- オオシマザクラはソメイヨシノの父親にあたる野生種です。日本中の春を彩るソメイヨシノは、このオオシマザクラとエドヒガンの交雑によって誕生したと考えられています。この古樹を守ることは、日本の桜文化の遺伝的な源を守ることでもあります。
基本情報
| 名称 | 大島のサクラ株(おおしまのさくらかぶ) |
|---|---|
| 樹種 | オオシマザクラ(バラ科サクラ属、学名 Cerasus speciosa / Prunus speciosa) |
| 推定樹齢 | 800年以上(役の行者お手植えの伝承では1300年以上とも) |
| 指定区分 | 国指定特別天然記念物(1935年12月24日 天然記念物指定/1952年3月29日 特別天然記念物指定) |
| 管理団体 | 東京都(1936年4月24日指定) |
| 株の周囲 | 元株の基部 約7.9メートル |
| 所在地 | 東京都大島町泉津(都立大島公園区域内) |
| 標高 | 海抜約230メートル |
| アクセス | 都立大島公園を過ぎて島の一周道路から「あじさいレインボーライン」へ分岐。樹周辺に観覧用の木道あり。 |
| 見頃 | 3月下旬(開花期)/観覧自体は通年可能 |
参考文献
- 文化遺産オンライン(文化庁) ― 大島のサクラ株
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/201366
- 国指定文化財等データベース ― 大島のサクラ株
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/701
- 伊豆大島ジオパーク ― 桜株(サクラッカブ)・オオシマザクラ
- https://izuoshima-geo.org/know/highlights/ecologicalsite/ecosite-5.html
- 東京都教育庁大島出張所 ― 大島のサクラ株
- https://www.kyoiku.metro.tokyo.lg.jp/about/osima/cultural_property/oshima_list/oshimanosakurakabu
- 大島町公式サイト ― 桜株
- https://www.town.oshima.tokyo.jp/soshiki/kankou/sakurakabu.html
- JATAFF 日本の特別天然記念物 ― 大島のサクラ株
- https://www.jataff.or.jp/monument/32.html
- NPO法人 東京樹木医プロジェクト ― サクラッ株 樹勢調査報告
- https://npo-tokyo-jumokui.com/column/index02.html
最終更新日: 2026.05.14