一四二〇年、ある外交官の記録
応永二十七年(一四二〇)の春、朝鮮の官僚であった宋希璟(一三七六〜一四四六)は、一艘の船で日本へ向かった。時に四十五歳。即位して間もない朝鮮国王世宗のもとから回礼使として遣わされた彼には、もう一つの密かな務めがあった。日本の様子をよく観察し、書き留めることである。こうして生まれたのが『老松堂日本行録』で、漢城(現在のソウル)と京都とのあいだを往復した九か月の旅を、漢詩とその序文によってつづった紀行詩文集である。
東京で重要文化財として保管される一冊は、朝鮮人の手になる現存最古の日本紀行とされる。書名は著者の号である「老松堂」に、日本への旅の記録という意味の語を重ねたものである。
宋希璟が詩の形式を選んだのは、それが当時の知識人の外交言語だったからである。その詩句には具体的で鋭い観察が宿り、序文とあわせて読むとき、本書は遠い異国から届いた一通の報告のような性格をもつ。
なぜ旅は行われたのか
背景には緊張があった。前年の応永二十六年(一四一九)、朝鮮は対馬へ軍を送っていた。対馬は両国の中間に位置し、朝鮮や中国の沿岸を襲った武装集団、いわゆる倭寇の拠点とみなされていた。この遠征を朝鮮では己亥東征と呼び、日本側はのちに応永の外寇として記憶する。その翌年、互いの意図をはかりかねる両国のあいだで、宋希璟は室町幕府との関係を立て直し、日本側の空気を探るために遣わされた。
漢城を発ったのは春、京都に着いたのは四月であった。だが将軍足利義持は喪に服しており、謁見はたびたび先延ばしにされた。宋希璟の記録は、その遅延のなかで彼がどう振る舞ったかを書きとめている。世宗の国書を捧呈できたのは六月、帰国の途についたのは十月のことである。摩擦も忍耐も、ともに紙面に残された。
本書が重要文化財に指定されたのは昭和十三年(一九三八)七月四日である。評価の理由は筆跡そのものよりも、その証言にある。十五世紀の日本の日常を外からの視点で記した史料は乏しく、まして朝鮮人の筆になるものはほとんど残っていない。
宋希璟が見たもの
旅の多くは海路で、瀬戸内海の島々を縫って進んだため、海賊にまつわる記述がしばしば現れる。安全な通行のために代価を払うこと、その海上で絶えず危険を見積もることを、彼は書きとめている。客人としての遠慮はない。港町の物乞いや売春のありさまを記し、批評も率直である。
観察が鋭いほど、記録は有用になる。京都からの帰路、尼崎の近くにとどまった宋希璟は、稲を作った田で夏に麦を刈り、続いてソバをまいて初冬に収穫する農民の姿を描いた。この一節は、日本の田で行われた三毛作についての最も早い時期の明確な記述の一つであり、日本の記録者がほとんど書き残さなかった種類の農業の細部である。
筆致がやわらぐ場面もある。滞在中に自分を警護し世話をしてくれた日本の人物について温かく記し、いくつかの詩は、厳しい国境を越えて親しくなった相手との別れという、ありふれた人間の営みを主題とする。ほとんどの頁の背後には戦争があり、そしてそれが終わることへの願いがある。
書物そのものの旅
東京に残るこの一冊は、それが描く航海に劣らず波乱に富んだ来歴をもつ。中村栄孝や村井章介らの研究によって、その伝来の筋道が整理されている。本書は、宋希璟の子孫である宋純が明宗十一年(一五五六)に著者自筆の原本をもとに改装・校訂したものに由来すると伝えられる。慶長の役のさなか、一五九七年ごろに日本へもたらされ、その後は徳川家の旗本であった畑氏の手に渡り、さらに収集家を経て井上家の所蔵となった。井上本という呼び名はここに由来する。国指定文化財等データベースは、本書の年代を成立の年である一四二〇年として記録している。
指定された写本は個人の所有であり、一般には公開されていないため、展示室を訪ねることはできない。しかし本文そのものには容易に触れられる。村井章介による詳細な訳注を備えた現代の刊本が岩波文庫に収められ、古典叢書である『続群書類従』にも古くから収載されてきた。九州大学は忠実な影写本をデジタルコレクションに収めている。
旅する者にとっては、書物そのものよりもその道筋をたどるほうが得るものが多いかもしれない。宋希璟が渡った海路は今も同じ島々を結んでおり、瀬戸内海を船で抜けること、彼が将軍を待った京都に立ち寄ること、尼崎あたりの田園を眺めることは、いずれもこの日記の地理のなかに身を置く行為となる。出かける前にいくつかの詩を読んでおくと、風景に一つの層が加わる。
Q&A
- 誰がいつ書いたのか。
- 朝鮮の官僚で号を老松堂といった宋希璟が、応永二十七年(一四二〇)の日本派遣の際に著した。当時四十五歳であった。
- 原本を見ることはできるか。
- できない。重要文化財であるこの写本は個人が所蔵し、公開されていない。本文は岩波文庫の訳注本などで読むことができる。
- なぜ朝鮮の紀行が日本の文化財なのか。
- この写本が長く日本にあったためである。一五九七年ごろ日本へもたらされ、以後この地で守り継がれてきた。十五世紀の日本社会を外から記録した稀少な証言でもある。
- 史料としての価値はどこにあるのか。
- 農法や港町の暮らし、海賊の活動など、当時の日本の記録者が見過ごしがちだった日常を、注意深く率直な外部の目でとらえている点にある。
- 日本語で書かれているのか。
- いいえ。当時の正式な外交文書の多くと同様、漢文で記されており、主として漢詩とその序文から成る。
基本情報
| 名称 | 老松堂日本行録(ろうしょうどうにほんこうろく) |
|---|---|
| 種別 | 書跡・典籍 |
| 著者 | 宋希璟(一三七六〜一四四六) |
| 成立 | 応永二十七年(一四二〇) |
| 形状 | 一冊、紙本墨書(袋綴装冊子本) |
| 指定区分 | 重要文化財(昭和十三年〔一九三八〕七月四日指定) |
| 指定番号 | 00097 |
| 所在地 | 東京都 |
| 所有者 | 個人 |
| 公開状況 | 非公開(一般展示なし) |
References
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/7399
- 老松堂日本行録(コトバンク)
- https://kotobank.jp/word/老松堂日本行録-413494
- 老松堂日本行録 朝鮮使節の見た中世日本(岩波書店)
- https://www.iwanami.co.jp/book/b246504.html
- 老松堂日本行録(九州大学附属図書館 九大コレクション)
- https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&bibid=4066568
- 宋希璟(尼崎市立歴史博物館 apedia)
- https://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/
最終更新日: 2026.06.14