島薗家住宅主屋——千駄木に残る昭和7年の洋館

千駄木駅から団子坂の北へ坂を上がると、戦災をまぬがれた住宅地の一画に、淡い色の洋館が建っている。門前にはバラのトレリスがあり、見上げると一階の軒の下を小さなアーチの連続装飾がぐるりと巡っている。通りすがりには気づきにくいが、一度見れば忘れにくい意匠だ。

これが島薗家住宅主屋。昭和7年(1932年)、生化学を専門とした島薗順雄の新居として建てられた。設計は建築家・矢部又吉。竣工からおよそ90年を経た今も、国の登録有形文化財として年に数回の特別公開でその姿を見せている。

登録上の名称が「島薗家住宅主屋」であることには、いまは少し説明がいる。この洋館はかつて東側に和館を従え、その前に苔の庭が広がっていた。だが和館と庭は2022年に取り壊された。現在見られるのは洋館部分のみで、これは島薗家が最後まで残そうとした部分でもある。

「登録」有形文化財という位置づけ

国宝や重要文化財という言葉に比べると、登録有形文化財はやや馴染みが薄いかもしれない。これは急速に失われていく近代の建築を守るため、平成8年(1996年)に始まった制度だ。指定文化財のように現状変更を強く縛るのではなく、所有者が住み、使い続けることを認めながら価値を記録する。だからこそ、個人の住宅が数多く登録されている。

島薗家住宅主屋が登録されたのは平成13年(2001年)10月12日(登録番号13-0106)。木造2階建、瓦葺、建築面積はおよそ145平方メートル。登録基準は「造形の規範となっているもの」で、解説が最も評価するのは、性格の異なる二度の工事を一つの表情にまとめあげた手際である。

一棟に重なる二つの時代、昭和7年と昭和16年

矢部が昭和7年に手がけた当初の洋館は、平屋建てで屋根は陸屋根。樋は内側に隠され、低く水平な輪郭を見せていた。当時としては新しい、モダンな佇まいである。それが昭和16年(1941年)に二階を増築して、いまの姿になった。

小さな住宅の増築は、ともすれば継ぎ目で破綻する。ここではそうならない。一階の軒の水平線が陸屋根の記憶をとどめ、地階を飾る小アーチの帯が二階にもそのまま引き上げられて反復される。結果として、上階ははじめから予定されていたかのように一階となじむ。道の向かいに立って眺めると、二度の工事ではなく一つの設計として目に入ってくる。

矢部又吉は、二階が完成したその昭和16年に世を去っている。文化庁のデータベースは当初の建物も増築も矢部の設計とするが、現在この建物を守る人々は二階の増築を古賀一郎の手によるものと伝える。いずれにせよ、増築は当初の構想を裏切っていない。

設計者・矢部又吉

矢部又吉(1888〜1941)は横浜に生まれ、工手学校(現在の工学院大学)に学び、明治建築界の重鎮・妻木頼黄に師事した。その後ドイツに渡り、ベルリンのシャルロッテンブルク工科大学(現在のベルリン工科大学)で建築を修めている。

彼の仕事の多くは銀行建築だった。川崎銀行の本支店を数多く設計し、本店の正面は明治村に、千葉支店は千葉市美術館の内部に保存されている。一方で現存する住宅作品はごく少ない。島薗家住宅主屋は、銀行建築で鍛えた語彙が住宅という小さな器でどう響くかを読み取れる、貴重な遺構といえる。ドイツ仕込みの素養は、軒下のレリーフ状の連続装飾、玄関のトレリス、堅牢な造作の随所に顔を出している。

島薗家の人々と、書物に満ちた家

島薗家はもともと、紀州藩の藩医をつとめた家系である。中でも名を知られるのが島薗順次郎(1877〜1937)。東京帝国大学医学部の第一内科学講座を率い、日本の医学史でも長く続いた論争に決着をつけた人物だ。昭和9年(1934年)、脚気がビタミンB1の欠乏によって起こることを研究で結論づけ、原因をめぐる長年の対立を終わらせた。ビタミンそのもの(オリザニン)を抽出したのは化学者・鈴木梅太郎であり、順次郎の功績はその臨床的な証明にある。

もっとも、この家が建てられたのは順次郎の長男・順雄の結婚に際してのことだった。父と子をつなぐ細い糸が、室内にも残されている。玄関のディーレと食堂の照明器具は、いまはなき順次郎邸から外して移し付けたものだという。書斎は、ぜひ時間をかけて見たい。壁面は天井まで届く造り付けの書棚で覆われ、寸法には施主・順雄の意向が反映されている。蔵書の一部は今も棚に並ぶ。ドイツから船で運んだ重厚な家具や振り子時計が置かれた部屋は、見せるための空間というより、人がそこで本を読み、語らった場の気配を残している。

室内で見ておきたいもの

書斎の隣にはサンルームがある。ガラスは堅牢な二重窓で、かつてはフランス窓だった。二重のガラスは当時の日本家屋には珍しい北ヨーロッパ流の工夫で、続きの居間に明るい光を導く。

昭和16年に増築された二階に上がると、空気が変わる。洋室には軍艦や戦闘機をかたどったステンドグラスがはめられ、二階が立ち上がったのが太平洋戦争開戦の年であったことを静かに告げている。建てられた時代をこれほど率直に身にまとう家は多くない。その近くに、数寄屋風の和室が前触れもなく現れ、仏壇には病を癒す薬師如来が安置されている。医家にふさわしい、控えめな選択だ。洋室から畳の間、そして仏壇へと一つの階の中で移ろう様は、戦前の日本によく見られた和洋折衷であり、いまでは無傷で残るものが少ない。

この家が残った経緯

平成12年(2000年)の1月、地域雑誌の編集部に島薗家の継承者から電話が入った。最後の住人だった順雄夫妻が亡くなり、家にはもう誰も住んでいない。両親が新婚時代を過ごし、自分が生まれ育った家を壊すに忍びない。そんな思いだったという。この一本の電話が保存への動きを生み、翌年の登録につながる。古い木造住宅を一世紀にわたり維持するのは、費用がかかり、地味な仕事でもある。2022年には敷地の半分を手放し、和館と庭を諦めて、せめて洋館を残す道が選ばれた。いま訪ねられる洋館は、その厳しい選択を経て残った姿である。

あわせて歩きたい周辺

住宅が建つのは谷根千と呼ばれる一帯。谷中・根津・千駄木という隣り合う三つの町をつないだ呼び名で、東京の多くが建て替えられた中でも、路地や木造の店、寺の塀が残った地域だ。家のすぐ下の坂は団子坂。近くに住んだ文豪・森鷗外ゆかりの坂で、その記念館も歩いてすぐのところにある。

数分歩けば、池と滝のある須藤公園に出る。かつての大名屋敷の跡地に開かれた小さな公園だ。その道すがらには、大正期の邸宅と東京都指定名勝の庭園をもつ旧安田楠雄邸庭園があり、公開日が限られているので日程を合わせたい。少し南には、朱塗りの鳥居の列と春のツツジで知られる根津神社。にぎやかな谷中銀座の商店街へも足を延ばせる。目的地を絞るより、当てもなく歩くほうが似合う界隈だ。

Q&A

Qいつでも見学できますか。
Aいいえ。個人の所有のため通常は非公開です。公開は不定期の特別公開日に限られ、玄関のバラが咲く晩春の週末に開かれることが多いようです。訪問前に島薗家住宅の公式Instagram(@shimazono_sendagi)やたてもの応援団のサイトで最新情報をご確認ください。
Qアクセスは。
A最寄りは東京メトロ千代田線の千駄木駅で、徒歩4〜7分ほど。南北線の本駒込駅から約11分、JR山手線の日暮里駅・西日暮里駅からは約14分です。
Q入館料はかかりますか。写真は撮れますか。
A特別公開時には入館料がかかります。近年は一般で300〜400円程度、中高生は割引という例が見られます。室内撮影はおおむね可能とされてきました。料金や条件は公開ごとに異なるため、主催者にご確認ください。
Qなぜ軍艦のステンドグラスがあるのですか。
A二階は昭和16年(1941年)の増築です。軍艦や戦闘機を描いたステンドグラスは、つくられた年の時代の空気を映しています。それがこの部屋を生々しい歴史の証言にしています。
Q和館や庭はまだ見られますか。
A見られません。和館と苔庭は2022年、敷地の一部売却にともない解体されました。現在残るのは登録文化財である洋館(主屋)のみです。

基本情報

名称島薗家住宅主屋(しまぞのけじゅうたくしゅおく)
所在地東京都文京区千駄木三丁目635-7(住居表示:千駄木3-3-3)
指定区分国登録有形文化財(建造物)
登録年月日2001年(平成13年)10月12日/登録番号 13-0106
年代1932年(昭和7年)建築、1941年(昭和16年)2階増築
設計矢部又吉(1888〜1941)
員数・構造1棟/木造2階建、瓦葺、建築面積 約145㎡
アクセス東京メトロ千代田線 千駄木駅より徒歩4〜7分
公開状況通常非公開/不定期の特別公開(公式Instagram @shimazono_sendagi 参照)

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)「島薗家住宅主屋」
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00002364
文化遺産オンライン(国立情報学研究所/文化庁)「島薗家住宅主屋」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/115244
たてもの応援団「国登録有形文化財 島薗家住宅」
https://tatemono-ouendan.org/outline/shimazonohouse/
和歌山県文化情報アーカイブ「島薗順次郎」
https://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunka-archive/senjin/simazono.html

最終更新日: 2026.06.20