教科書で読んだ「倭人」が、刷られた本そのものとして目の前にある
「楽浪海中に倭人有り。分れて百余国と為す。歳時を以て来り献見すと云ふ」。日本史を学んだ人なら一度は目にする一節である。後漢の班固が一世紀に編んだ『漢書』地理志のこの十九字は、中国の正史に記された倭(日本列島の人々)に関する確実な記録としては最古とされる。千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館が所蔵する国宝「宋版漢書(慶元刊本)」は、その文章を、南宋の慶元年間(一一九五〜一二〇〇)に刷られた印刷本として、いま実物で見られる一点である。
『漢書』は前漢一代の正史で、本紀・表・志・列伝という構成をとる。教科書では地理志の倭人記事だけが切り取られて紹介されるが、ここにあるのは抜粋ではなく、全六十一冊が欠けることなくそろった一具である。刷りも鮮明で、八百年前の墨の濃淡がそのまま残る。
建安の版木から、米沢の藩校へ
慶元刊本は、福建の建寧府建安県で刻まれた。建安は南宋の出版業が集中した地で、商業出版の中心だった。同じ版木からは、中国でいう「三史」、すなわち『史記』『漢書』『後漢書』がひとそろいで刷り出された。歴博が持つ三書はもともと一具として刊行されたものと考えられており、『史記』は昭和四十一年(一九六六)に、本書と『後漢書』は翌昭和四十二年(一九六七)六月十五日に、それぞれ国宝に指定された。
南宋の刊本がなぜ東北の城下町まで届いたのか。本書は、戦国期の臨済僧として名高い妙心寺の南化玄興の所蔵を経て、上杉家の執政・直江兼続の手に渡った。兼続は漢籍の収集家としても知られる。その後、書物は米沢藩の藩校・興譲館に収められ、藩士たちの学びに供された。研究者がこの一具を「上杉本」と呼ぶのはこの来歴による。
同じ慶元刊本の『漢書』は、松本市立図書館にも国宝として伝わる。松本本は六冊を後世に明版で補配したもので、上杉本とは近い関係にあるが、見分ける手がかりがある。松本本には目録の末に出版者・黄宗仁の咨文が付刻されているのに対し、上杉本にはこれがない。
展示ケースで何を見るか
宋版は、近づいてゆっくり見るほど面白い。版面は四周双辺で、半葉に十行、一行十八字、註は双行で小さく組まれる。版心の中央には魚尾が置かれ、これは紙を折って袋綴に仕立てる際の目印になった。文字は宋代の能書の書風を写しており、機械的な印刷物というよりも、整然とした写本のように見える。
注目したいのは欄外である。三史を精読した五山の禅僧たちが、上下の余白に『史記』その他との対照注記を細かく書き込んでいる。書き入れは、中世の日本で中国史がどう読まれ、どう講じられたかの記録でもあり、本書を単なる輸入書以上の資料にしている。
『漢書』には、古今の人物を上上から下下までの九品に格付けした「古今人表」という独特の一篇もある。表が開かれているときは、はるか昔の帝王や臣下に下された評価の一覧が、思いのほか目を引く。なお、この一具が公開される際に原本が出るのは『漢書』のほうで、隣に並ぶ『後漢書』は複製であることが多い。つまり目の前の紙面は、八百年を経た本物の一葉ということになる。
訪ねるにあたって
国立歴史民俗博物館は、佐倉城跡の樹林に囲まれた敷地に建つ。六つの総合展示室は先史・古代から現代までを通覧でき、実物大のジオラマや復元模型も多く、半日かけて回る価値がある。本書は光に弱い紙の文化財のため、通年での展示ではなく、期間を限って公開される。これを目当てに足を運ぶなら、出発前に博物館の展示予定を確かめ、公開期間に合わせて訪れたい。
佐倉のまち歩きも楽しい。城の土塁や武家屋敷、旧堀田家の庭園が近くにある。博物館は京成佐倉駅から徒歩約十五分。京成上野からは特急でおよそ五十五分で、駅からは徒歩のほかバスでも数分の距離である。
Q&A
- これが「倭」について書かれた本ですか。
- はい。『漢書』地理志に、楽浪郡の海の向こうに倭人がおり、百余国に分かれて漢に献見したという記事があります。中国の正史に記された日本に関する記録としては最古とされ、『後漢書』や『魏志倭人伝』の記事よりも古いものです。
- いつ行っても原本を見られますか。
- いいえ。傷みやすい紙の文化財のため、公開は期間限定です。事前に博物館の展示予定を確認してください。本書が出ていない時期でも、総合展示は見ごたえがあります。
- なぜ「上杉本」と呼ばれるのですか。
- 上杉家の執政・直江兼続が所蔵し、のちに米沢藩の藩校・興譲館に伝わったためです。この来歴により、松本市立図書館が所蔵する別の慶元刊本『漢書』(こちらも国宝)と区別されます。
- 写本とはどう違うのですか。
- 手書きの写本ではなく、木版で刷られた印刷本です。宋の出版では、能書家の書風を写しつつ入念な校訂を加えたため、宋版は正確さと美しさの両面で珍重されました。中国史の古典に初期の印刷技術がどう用いられたかを実見できます。
基本情報
| 名称 | 宋版漢書(慶元刊本) |
|---|---|
| 所在地 | 国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市城内町117) |
| 指定区分 | 国宝(書跡・典籍)/昭和42年(1967)6月15日指定 |
| 員数 | 61冊 |
| 国・時代 | 中国・南宋/慶元年間(1195〜1200)の刊本 |
| 所有者 | 大学共同利用機関法人人間文化研究機構 |
| 公開状況 | 期間限定公開。来館前に展示予定を要確認 |
| アクセス | 京成佐倉駅から徒歩約15分、またはバスで数分 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/10287
- 文化遺産オンライン(国立情報学研究所)
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/159791
- khirin(国立歴史民俗博物館 資料データベース)
- https://khirin-a.rekihaku.ac.jp/database/sohankanjo
- 国立歴史民俗博物館 公式サイト(アクセス)
- https://www.rekihaku.ac.jp/information/access/
最終更新日: 2026.06.12