睡足軒:飛騨の古民家が武蔵野に蘇る茶人の草庵
埼玉県新座市、国指定天然記念物「平林寺境内林」の緑深い森の中に佇む睡足軒は、江戸後期に飛騨高山周辺で建てられた民家を、昭和の大実業家にして大茶人・松永安左エ門(耳庵)が昭和13年(1938年)にこの地へ移築し、草庵として愛用した建物です。飛騨地方の力強い民家建築の特徴と、昭和初期の文化人による民家活用の美意識が見事に融合した建造物として、平成28年(2016年)に新座市初の国登録有形文化財(建造物)に登録されました。武蔵野の雑木林に抱かれたこの建物は、日本の近代史における産業と文化の交差点を静かに物語っています。
歴史的背景
睡足軒の歴史は、近代日本を代表する実業家・松永安左エ門(1875〜1971)の波瀾万丈な生涯と深く結びついています。長崎県壱岐の商家に生まれた松永は、福澤諭吉の『学問のすすめ』に感銘を受けて慶応義塾に入学。その後、九州電灯鉄道(後の九州電力)の設立をはじめ、関西から東海道にかけて数多くの電力会社を傘下に収め、「電力王」「電力の鬼」と称されるまでになりました。戦後は電気事業再編成審議会の会長として、現在の9電力体制の礎を築いた人物です。
昭和17年(1942年)、戦時下の国家統制により中核企業・東邦電力が解散に追い込まれると、松永は100を超える役職をすべて辞し、武蔵野の地に隠棲しました。この隠居生活の中で茶の湯に没頭し、「耳庵」と号して益田鈍翁、原三渓と並び称される近代三大茶人の一人となりました。茶名の「耳庵」は、論語の「六十にして耳従う」に由来するとされています。
昭和13年(1938年)、松永は飛騨高山付近に建っていた江戸後期の民家を入手し、平林寺に隣接するこの地に移築して「睡足軒」と名付けました。ここに親しい友人たちを招き、「田舎家の茶」と呼ばれる独自の茶会を催していたと伝えられています。松永の没後、睡足軒は平林寺に譲渡され、平成14年(2002年)に平林寺から新座市へ無償貸与されて、現在は市民の体験学習や伝統文化活動の場として活用されています。
文化財指定の理由
平成28年(2016年)3月11日、国の文化審議会は睡足軒を登録有形文化財(建造物)に登録するよう文部科学大臣に答申し、同年8月1日付の官報告示により正式に登録されました。新座市としては初めての国登録有形文化財(建造物)であり、この年、埼玉県内では新たに5件(睡足軒を含む)が登録されました。
登録基準は「二 造形の規範となっているもの」です。睡足軒は、木太い軸部構成、チョウナ梁の架構、両妻への股柱の採用といった飛騨地方の民家に特有の構造的特徴を良好に保存しているだけでなく、昭和初期に松永安左エ門が移築した際に施した造作の意匠にも独自の価値が認められています。つまり、飛騨の古民家としての建築的価値と、近代の文化人による民家活用・再生の歴史的意義という二つの側面が高く評価されたのです。
建築の見どころ
睡足軒は木造平屋建、建築面積93平方メートルの建物です。屋根はもともと茅葺きでしたが、現在は茅葺き屋根の上にトタン(鉄板)を被せた鉄板葺となっています。建物は東西方向に棟を置き、平林寺境内林の中に静かに佇んでいます。
内部は、建物の梁間いっぱいに設けられたイロリノマ(囲炉裏の間)を中心に、その東西にそれぞれ2室ずつ、計4室が配置されています。中央の囲炉裏の間が生活の中心となるこの間取りは、飛騨地方の伝統的な民家に典型的なものです。
構造面では、太い柱と梁による力強い軸部構成が印象的です。チョウナ(手斧)で仕上げられた梁は、古来より木工技術の高さで全国に名を馳せた飛騨の匠の技を今に伝えています。両妻面に用いられた股柱(またばしら)も飛騨民家の特徴的な構造要素で、建物に独特の力強さと美しさを与えています。
松永安左エ門による移築時の改修では、茶人としての洗練された美意識が随所に反映されており、素朴な民家建築の中に繊細な意匠が調和している点も、この建物の大きな魅力です。
睡足軒の森
睡足軒は「睡足軒の森」と呼ばれる園庭の中に位置しています。この敷地は国指定天然記念物「平林寺境内林」の一画にあたり、総面積約43ヘクタール(東京ドーム約9個分)にも及ぶ広大な境内林の一部です。平林寺境内林は雑木林としては日本で唯一の国指定天然記念物であり、かつての武蔵野の雑木林の面影を今に残す貴重な自然環境です。
園内にはケヤキ、コナラ、カエデなどの落葉樹が生い茂り、四季折々の表情を見せてくれます。特に11月中旬から12月上旬にかけての紅葉シーズンは格別で、カエデが赤・橙・黄に色づく様は圧巻です。過去には紅葉の夜間ライトアップも実施されており、昼間とは異なる幻想的な光景が多くの来園者を魅了していました。園内は無料で散策でき、都心からほど近い場所にありながら、武蔵野の豊かな自然を満喫できる貴重なスポットです。
来訪案内
睡足軒の森の開園時間は午前10時から午後3時までです。毎週水曜日および年末年始は休園となります。園内の散策は無料です。なお、睡足軒の建物内部は通常非公開となっていますのでご了承ください。
園内の施設(睡足軒・紅葉亭)は、主に新座市民を対象とした青少年の体験学習や日本の伝統文化活動の場として貸し出されています。施設の利用やお問い合わせについては、新座市教育委員会 生涯学習スポーツ課(電話:048-424-9616)までご連絡ください。
周辺情報
睡足軒の森は、関東を代表する禅寺・平林寺の総門から道路を挟んだ向かいに位置しています。平林寺は南北朝時代の創建で、臨済宗妙心寺派の禅修行の専門道場です。茅葺きの総門・山門・仏殿・中門は埼玉県指定有形文化財(建造物)に指定されており、広大な境内林の散策とあわせて、四季を通じて多くの参拝者が訪れます。境内には、「知恵伊豆」と称された川越藩主・松平伊豆守信綱夫妻の墓(県指定史跡)もあります。
また、周辺には玉川上水から分水された野火止用水(埼玉県指定史跡)の遺構が残り、江戸時代の水利事業の歴史を伝えています。新座市歴史民俗資料館では、地域の歴史や文化財に関する展示を見ることができ、睡足軒や平林寺への訪問と合わせて立ち寄ると理解が深まります。
Q&A
- 睡足軒はどのような文化財ですか?
- 睡足軒は平成28年(2016年)8月1日に登録された国登録有形文化財(建造物)です。新座市で初めての国登録有形文化財(建造物)であり、登録基準は「造形の規範となっているもの」です。飛騨地方の民家建築の特徴と、昭和初期の民家活用の美意識が評価されています。
- 睡足軒の建物の中は見学できますか?
- 睡足軒の建物内部は通常非公開です。ただし、周囲の園庭(睡足軒の森)は開園時間内(午前10時〜午後3時、水曜・年末年始休園)に無料で散策いただけます。特別なイベント時には公開される場合もあります。
- 松永安左エ門とはどのような人物ですか?
- 松永安左エ門(1875〜1971)は、日本の近代を代表する実業家です。数多くの電力会社を経営し「電力王」「電力の鬼」と呼ばれました。茶人としては「耳庵」と号し、益田鈍翁、原三渓と並ぶ近代三大茶人の一人として知られています。美術品の収集家としても有名で、コレクションは東京国立博物館や福岡市美術館に寄贈されています。
- おすすめの訪問時期はいつですか?
- 紅葉が見頃を迎える11月中旬から12月上旬が最も人気の時期です。隣接する平林寺の境内林とあわせて、埼玉県屈指の紅葉スポットとして多くの方が訪れます。新緑の季節も木漏れ日の中の散策が気持ちよく、おすすめです。
- アクセス方法を教えてください。
- JR武蔵野線の新座駅または東武東上線の志木駅からバスに乗り、「平林寺」バス停で下車してください(所要約15〜20分)。睡足軒の森は平林寺総門の道路を挟んだ向かいにあります。専用駐車場はありませんので、公共交通機関のご利用をおすすめします。
基本情報
| 名称 | 睡足軒(すいそくけん) |
|---|---|
| 文化財種別 | 国登録有形文化財(建造物) |
| 登録年月日 | 平成28年(2016年)8月1日 |
| 登録基準 | 二 造形の規範となっているもの |
| 建築年代 | 江戸後期(推定1751〜1830年)/昭和13年(1938年)移築 |
| 構造・形式 | 木造平屋建、鉄板葺(茅葺き屋根にトタン掛け)、建築面積93㎡ |
| 員数 | 1棟 |
| 所有者 | 宗教法人平林寺 |
| 所在地 | 〒352-0011 埼玉県新座市野火止一丁目1172-1(住居表示:野火止一丁目20番12号) |
| 開園時間 | 午前10時〜午後3時(水曜・年末年始休園) |
| 入園料 | 無料(園庭部分) |
| 交通アクセス | JR武蔵野線 新座駅または東武東上線 志木駅よりバス「平林寺」下車(約15〜20分) |
| お問い合わせ | 新座市教育委員会 生涯学習スポーツ課 電話:048-424-9616 |
参考文献
- 睡足軒 - 新座の文化財 - 新座市ホームページ
- https://www.city.niiza.lg.jp/site/bunkazai/shitei-suisokuken.html
- 「睡足軒」が新座市初の国登録有形文化財(建造物)に正式登録されました - 新座市ホームページ
- https://www.city.niiza.lg.jp/site/bunkazai/suisokukentourokuyukei.html
- 新座市睡足軒の森にお越しください - 新座市ホームページ
- https://www.city.niiza.lg.jp/site/suisokuken-no-mori/
- 睡足軒 - 文化遺産オンライン
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/295189
- 国指定文化財等データベース - 睡足軒
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00011072
- 「睡足軒」が新座市初の国登録有形文化財(建造物)に新規登録されます - 新座市産業観光協会
- https://www.niiza.net/睡足軒が新座市初の国登録有形文化財(建造/
- 山内散策 - 野火止 平林寺 公式サイト
- https://www.heirinji.or.jp/information/walk/
最終更新日: 2026.04.15