石動山 ― 能登半島の付け根にそびえた信仰の山

石川県と富山県の県境近く、標高565メートルの石動山は、かつて北陸でも有数の宗教勢力を抱えた山だった。中世の最盛期には360を超える院坊が建ち並び、3,000人ほどの衆徒が暮らしていたと伝わる。いま山上を歩くと、目に入るのは苔むした礎石、乾いた石垣の列、そして大きな銀杏の木に囲まれた二棟の社殿だけである。失われた寺院の街と、それを覆い尽くした森。この対比こそが、石動山を訪ねる意味を静かに伝えてくる。

石動山は昭和53年(1978年)10月25日に国の史跡に指定された。古代から近世にかけての特異な祭祀遺跡として評価されたものである。中能登町は現在も発掘調査を続けており、敷地の一部は丁寧な復元が施されている。

山名について一言添えておきたい。公式の読みは「せきどうざん」だが、隣接する加賀・越中の地域では古くから「いするぎやま」と呼ばれてきた。山頂に鎮座する伊須流岐比古神社の名は、その後者の読みを伝えている。

落ちた星から、僧の山へ

山の縁起によれば、太古この地に星が落ち、石となって鳴動をやめなかったという。その揺れ動く様が山の名の由来とされる。神社境内には動字石と呼ばれる石が今も残り、この伝承と結びつけられている。鳴動を鎮めるために創祀されたのが伊須流岐比古神社だと伝わる。

創建の年代は定かでなく、史料によって食い違う。崇神天皇6年、紀元前1世紀の半ば伝説的な年に開かれたとする伝えがある一方、白山を開いた泰澄が8世紀初めの養老年間に創建したとも伝わる。確かなのは、神と仏を融合させる神仏習合の信仰がこの山に根づくと、石動山は一大霊場へと成長したという点である。寺は天平寺を号し、京都の真言宗勧修寺の末寺となって、都からの庇護を受けるようになった。

「いするぎ法師」と呼ばれた石動山の衆徒は、修行者であるだけではなかった。彼らは武力をもつ集団でもあり、山そのものが国境の要衝に位置していた。この性格が、石動山をたびたび時代の争乱に巻き込んだ。14世紀の南北朝の動乱では、衆徒は越中国司の中院定清とともに南朝方に付き、山は焼かれた。一度目の石動山合戦である。その後、足利将軍家の支援によって堂塔は再建された。

二度目の、より徹底した焼亡は天正10年(1582年)に訪れた。能登の温井景隆らが石動山衆徒と組み、峰続きの荒山砦に籠城する。織田信長に仕える前田利家と佐久間盛政がこの砦を陥落させ、山を再び火にかけた。寺院の街は灰燼に帰した。

なぜ史跡として守られているのか

石動山は、社寺の跡や旧境内など祭祀信仰に関する遺跡を対象とする指定基準のもとで国史跡となった。評価された価値は独特である。一棟の建物や限定された遺構ではなく、古代から近世まで信仰の営みが途切れず続いた山ひとつが、まるごと指定の対象になっている。

二度目の焼亡ののち、山の復興に乗り出したのは前田氏だった。全山は石動山天平寺の名のもとに再編され、元禄10年(1697年)に描かれた絵図には、堂塔伽藍と僧坊が壮大に連なる姿が記録されている。前田氏の庇護のもと、石動山は江戸時代を通じて栄えた。その長い命脈は、明治元年(1868年)の神仏分離令によって断たれる。この令を契機に、山内の仏教的な伽藍は解体へと向かった。

地表に残るものを順に追えば、この長い歴史の全体が見えてくる。伊須流岐比古神社の建物には元禄年間の棟札が伝わる。二宮道、長坂道など八つの旧参道沿いには、御下馬所と呼ばれる地点に庚申塚が立つ。旅人がかつて馬を下りた場所であり、これらは天平寺の結界を示すものと考えられている。坊跡を示す礎石や石仏、石碑は、斜面のあちこちに点在している。

山上で見ておきたいもの

現存する二棟の社殿は、ゆっくり眺めるだけの価値がある。本殿は承応2年(1653年)、加賀藩主前田利常によって建てられ、当初は「大宮」と呼ばれた。その前に建つ拝殿は元禄14年(1701年)にさかのぼり、かつては神輿堂として使われていた。いずれも石川県指定文化財である。社殿は苔むした石段上の境内に立ち、古い銀杏の木に囲まれている。銀杏は水分を多く含む木で、火災から木造の社殿を守ると考えられ、社寺の周りによく植えられてきた。

失われた寺院の街をもっとも生き生きと感じさせてくれるのは、復元された大宮坊である。この坊は山の運営の中枢であり、360余りの院坊すべてを統べる別当寺だった。加賀藩や京都の本山との交渉、年中行事の差配など、一山の寺務がここで執り行われた。明治の瓦解で失われたのち、坊跡は分校や宅地・水田に転用された。平成2年(1990年)に発掘調査が始まり、調査成果と史料に基づく復元工事が平成14年(2002年)11月に完成した。今は書院台所棟、番所、御成門と台所門、板塀、勅使橋などを歩いて巡ることができ、近くには本堂跡や庭園跡の遺構も見える。

境内の近くには、雨乞いの祈祷が行われたイワシガ池がある。その水は古くから万病に効くと信じられ、山の祭礼の日には今も水を持ち帰る人がいる。江戸時代の文書には、仏に供える閼伽の水にちなむ名で記されている。

石動山は自然環境でも評価が高い。能登でも最大規模のブナ林をいだき、史跡から史跡へと移る道は、開けた地面ではなく静かな森の中を通っていく。

周辺の見どころ

山頂一帯は、石川県営の能登歴史公園 石動山地区を形づくっている。散策路が整備され、点在する遺構の間を歩いて巡れるよう設計されており、芝生広場や四阿、駐車場も備わっている。近くの石動山資料館には山の歴史に関する資料が収められており、史跡を歩く前に立ち寄ると背景がよくつかめる。

毎年7月7日、泰澄の命日とされるこの日には、開山祭とミタママツリが営まれる。訪れた人がイワシガ池の水を汲んで持ち帰るのも、この日の習わしである。

中能登町や七尾鹿島の一帯には、あわせて訪ねたい文化財がほかにもある。北の海沿いにある和倉温泉は、能登のこの地域を巡る拠点として心地よい。

Q&A

Q石動山へはどう行けばよいですか。
A史跡までの公共交通機関はないため、自家用車が必要です。山頂一帯には駐車場があり、中能登町側から道が通じています。
Q入場料はかかりますか。
A史跡と散策路は歴史公園内の屋外スペースです。石動山資料館など一部施設は独自の開館時間や料金が設定されている場合があるため、訪問前に確認することをおすすめします。
Q当時の建物は残っていますか。それとも復元だけですか。
A両方あります。伊須流岐比古神社の本殿と拝殿は、それぞれ1653年と1701年の現存建築です。大宮坊は発掘調査と史料に基づき、2002年に完成した丁寧な復元です。
Qなぜ礎石ばかりで建物がほとんどないのですか。
Aこの山には広大な寺院群がありましたが、明治元年(1868年)の神仏分離令を契機に解体されました。点在する礎石や石仏、石垣は、かつて斜面を埋めていた院坊の名残です。
Q見学にはどのくらい時間が必要ですか。
A2〜3時間ほどみておけば、社殿、復元された大宮坊、資料館、イワシガ池をゆったり巡れます。その間を結ぶ森の道を歩く時間も含めての目安です。

基本データ

名称石動山(せきどうざん)
所在地石川県鹿島郡中能登町石動山
指定区分国指定史跡(昭和53年〔1978年〕10月25日指定)
指定基準三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
標高約565メートル
現存・復元伊須流岐比古神社 本殿(1653年)・拝殿(1701年)=いずれも石川県指定文化財/復元された大宮坊(2002年完成)
施設能登歴史公園 石動山地区/石動山資料館(電話 0767-76-0408)
アクセス自家用車のみ。公共交通機関なし。山頂一帯に駐車場あり。

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース ― 石動山
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/1010
中能登町 ― 県営能登歴史公園(石動山地区)
https://www.town.nakanoto.ishikawa.jp/soshiki/shougaigakushuu/2_1/shisetsu/1383.html
中能登町 ― 大宮坊
https://www.town.nakanoto.ishikawa.jp/soshiki/shougaigakushuu/2_1/shisetsu/1344.html
ウィキペディア ― 伊須流岐比古神社
https://ja.wikipedia.org/wiki/伊須流岐比古神社
ほっと石川旅ねっと ― 石動山
https://www.hot-ishikawa.jp/spot/detail_5681.html

最終更新日: 2026.05.26