奥之院に眠る6285帖、朝鮮渡来の仏典群

高野山の奥之院、弘法大師御廟のすぐそばに、訪れる人の多くが通り過ぎてしまう小さなお堂がある。その内部では八角形の輪蔵が静かに回り、なかには折り本仕立ての仏典が6285帖、ぎっしりと納められている。高麗の地で刷られ、また書き写された一切経である。昭和30年(1955年)に国の重要文化財に指定された。

正式な指定名称は内訳まで記す。版本が6027帖、欠を補うために書き写された写本が258帖、あわせて6285帖。高野山に残る東アジア仏典のなかでも有数の規模をもち、その来歴は戦国末の一人の武将と深く結びついている。

高麗版一切経とは

一切経は、釈尊の教えである経、僧の生活規範である律、その注釈である論の「三蔵」に注疏類を加えた仏典の総称で、大蔵経とも呼ばれる。この膨大な経典群が、高麗時代(918〜1392)の朝鮮半島で最も大規模なかたちに結実した。

版木をめぐる経緯には起伏がある。11世紀に彫られた初雕本は、1232年のモンゴル侵攻で焼失した。高麗の朝廷は国家鎮護を念じて全経の再刻を命じ、1236年から1251年にかけて八万を超える版木を彫り上げた。これが再雕本で、版木は現在も韓国・海印寺に残り、ユネスコ世界遺産に登録されている。のちに学術版『大正新脩大蔵経』の底本ともなった、漢訳仏典の基準となる版である。

この版木から刷られた経典は、貿易や外交贈与を通じて幾度も日本へもたらされた。高野山の一切経もそうして渡来した版本を核とし、印面の欠けた部分を写本で補ってひとそろいに整えたものである。

奉納した武将と山との縁

この一切経を奥之院に納めたのは、豊臣政権の五奉行の一人、石田三成である。慶長4年(1599年)三月、翌年の関ヶ原で生涯を終えることになる人物が、経蔵もろともこの経典を寄進した。お堂に掲げられた扁額の表面には、近江坂田郡の出身であることと官途名を記したのち、「為慈母菩提也」と結ばれている。母の菩提を弔うための奉納であった。三成の母は法名を瑞岳院といい、文禄3年(1594年)に世を去っている。

三成ひとりの事業ではない。扁額の裏面には木食応其の名が刻まれている。応其は天正13年(1585年)、豊臣秀吉に高野山の降伏を取り次ぎ、山を兵火から救った僧である。近江の出で、同郷の三成とは親しい間柄にあった。奉納はあわただしい時期に行われている。三成はこの直前、対立する武将たちに京を追われて佐和山城へ退いており、それから一年半のうちに命を落とすことになる。

なぜ重要文化財なのか

文化庁の区分では、この一切経は書跡・典籍に分類される。価値はいくつもの面が重なっている。朝鮮半島の外に残る、ほぼ完本に近い高麗版一切経として、高麗時代が生んだ典籍の系譜を今に示す存在であること。版本と写本が混在する構成は、こうした経蔵が日本でどのように整えられ、維持されたかを具体的に示している。欠けた巻を写経で補うという営みの跡が、そこに刻まれている。

経典とともに附(つけたり)として指定された奉納の扁額は、寄進の日付と寄進者を明確に結びつけている。これほど大部の経典群が、一人の歴史上の人物と、記録された一つの動機に結びつけられる例はまれである。重要文化財への指定は昭和30年(1955年)2月2日。

見どころ

経蔵と回転式の輪蔵

一切経を納める奥院経蔵は、それ自体が重要文化財に指定された建造物である。弘法大師御廟に向かって右手に建つ。内部では八角形の枠が中心の軸で回る。これが輪蔵で、経蔵全体を一回転させることで一切経をすべて読誦したのと同じ功徳を得るという、古くからの仕掛けである。その正面に安置されるのは、智慧を象徴する文殊菩薩の騎獅像である。

扁額の表と裏

扁額には二つの顔がある。表は、母を弔う三成の公の言葉。隠れた裏面には、僧応其の名と、慶長4年三月二十一日という日付が記される。表裏をあわせて読むと、この寄進を支えた人の縁が見えてくる。豊臣の奉行と高野山の交渉僧、ともに琵琶湖畔の同じ近江を出自とする二人である。

刷られた経と書かれた経

そろいは一様ではない。大半は版木から刷られた版本だが、258帖は欠を補うために筆で書写されている。版面と写しの違いは、注意深く見れば見分けがつく。完本としての一切経が、ただ受け取られたものではなく、人の手で整えられていったものであることに気づく。

なお、経典そのものは収蔵品であり、通常は常時公開されていない。経蔵の建物は奥之院の参道から眺めることができ、個々の経巻は高野山霊宝館の特別展などで折にふれて出陳されることがある。

アクセスと周辺

高野山は和歌山県の紀伊山地、標高約800メートルの盆地に開けている。多くの人は南海高野線で極楽橋へ向かい、ケーブルカーで高野山駅へ上り、バスで山内に入る。奥之院を含む山内一帯は、平成16年(2004年)に登録された世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産である。

奥院経蔵は、参道の最も奥、御廟の近くにある。古来の道筋は一の橋から歩いて入るもので、杉の巨木の下を、数えきれない墓碑や供養塔のあいだを縫って、御廟まで約2キロメートル続く。経蔵にたどり着くには、その参道をほぼ歩き通すことになる。

奥之院には20万基を超えるとも言われる墓碑や供養塔が並ぶ。生前は敵味方であった武将たちの墓も近い。武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、織田信長、そして石田三成自身の墓もここにあり、自らが奉納した経典からそう遠くない場所に眠っている。御廟の手前には、無数の灯籠が灯る燈籠堂が建つ。

奥之院の西には、根本大塔のそびえる壇上伽藍、真言宗の総本山金剛峯寺、そして山内の名宝を交替で展示する霊宝館がある。山の西の入口を画すのが大門である。

Q&A

Q実物の経典を見ることはできますか。
A原則として常時公開はされていません。一切経は奥院経蔵に納められた収蔵品です。経蔵の建物は奥之院の参道から望めますが、経巻そのものは高野山霊宝館の特別展などで出陳される場合に限られます。原本をご覧になりたい場合は、事前に霊宝館の展覧会日程をご確認ください。
Q韓国・海印寺の版木と同じものですか。
A同じではありませんが、深く関わっています。海印寺に残るのは経典を刷るための版木そのものです。高野山のものは、高麗版の系譜から刷られた版本に、のちに欠を補う写本を加えてひとそろいにした経典群です。一方は版、一方は本にあたります。
Qなぜ石田三成が朝鮮渡来の一切経をここに納めたのですか。
A扁額には、文禄3年(1594年)に亡くなった母の菩提を弔うためと記されています。慶長4年(1599年)の奉納にあたっては、同じ近江出身の高野山の僧・木食応其が関わりました。三成がこの経典をどのような経路で手にしたかについては、寺の記録には残されていません。
Q回転する輪蔵にはどんな意味がありますか。
A輪蔵を一回転させることで、内に納めた一切経をすべて読誦したのと同じ功徳が得られる、という信仰に基づく仕掛けです。膨大な経典を一巻ずつ読まずとも、経蔵全体を回すことで全経に帰依できる、という考え方です。
Q経蔵までどのくらいかかりますか。
A経蔵は奥之院の最も奥、御廟の近くにあります。一の橋から歩くと、ゆっくりめの足どりで片道おおよそ30〜40分、墓碑を読みながらならさらにかかります。奥之院をひととおり巡るには半日を見ておくとよいでしょう。

基本情報

名称高麗版一切経〈版本六千二十七帖/写本二百五十八帖〉
員数6285帖(版本6027帖・写本258帖)
種別書跡・典籍
国・時代朝鮮・高麗
指定区分重要文化財(昭和30年〈1955年〉2月2日指定)
附(つけたり)慶長四年三月二十一日 石田三成奉納木額 一面
収蔵高野山 奥院経蔵
所在地和歌山県伊都郡高野町高野山
所有者宗教法人金剛峯寺
管理高野山文化財保存会
公開状況収蔵品につき通常非公開。経蔵の建物は奥之院参道から拝観可

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/8311
高野山霊宝館「高野山と文化財:奥院経蔵」
https://reihokan.or.jp/bunkazai/kenzobutsu/okuin.html
高野山真言宗 総本山金剛峯寺(公式サイト)
https://www.koyasan.or.jp/
国立国会図書館 リサーチ・ナビ「大蔵経(一切経)を調べる」
https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/humanities/post_101024

最終更新日: 2026.05.29