大毘盧遮那経巻第一 ― 高野山竜光院に伝わる平安の写経

九世紀以来、真言密教の中心であり続けた高野山。その一山に、康平元年(1058年)の年記をもつ一巻の写経が伝わる。竜光院が蔵する大毘盧遮那経巻第一である。サンスクリットで大毘盧遮那経と呼ばれ、日常には『大日経』として知られる経典の、第一巻にあたる。

真言の寺院にとって、これはただの経典ではない。大毘盧遮那経は『金剛頂経』とともに日本密教の根本経典のひとつで、胎蔵界曼荼羅はこの経によって描かれる。空海が唐から伝え、この山に確立した教えの中核に位置する経典である。それを十一世紀半ばに一字ずつ書写した一巻は、伝統の生きた核心に近い文書といえる。

竜光院そのものにも深い由緒がある。寺伝によれば、この院はかつて空海が住したところとされ、古くは中院と称された。平安後期の僧・明算(1021年〜1106年)が入って竜光院と号したと伝わる。本尊は、写経が説く宇宙仏そのものである大日如来である。

指定の理由と価値

この巻第一は昭和41年(1966年)1月10日に重要文化財へ指定された。員数は書跡・典籍の一巻として登録され、年代は平安後期の康平元年(1058年)にあたる。

価値は、古さと内容と環境の重なりにある。経典そのものは八世紀に、インドの善無畏と唐の一行が共訳して漢訳が成り、梵文原典は現存しないため、後世の仏教文化はこの漢訳本をよりどころとした。それを平安時代の日本で忠実に書写した写本は、経典が国内でどう流通し学ばれたかの一段階を保存している。さらにこの巻は、高野山真言宗の別格本山である竜光院に伝来しており、開祖につらなる切れ目のない寺史のなかに置かれている。

このような写経は、ただ読まれるためのものではなかった。一巻を手で書写すること自体が信仰と功徳の行いであり、十一世紀の写経生の丁寧な筆づかいもまた、紙上の文言とともに指定が守る対象となっている。

高野山でその世界に触れる

はじめに実際的なことを記す。この格をもつ平安の写本は脆弱であり、常時公開はされていない。その管理は高野山の文化財を保存する団体に委ねられている。竜光院でこの巻そのものが広げられているのを期待することはできない。

旅する者にできるのは、この写経が生まれた世界に分け入ることだ。高野山霊宝館は、一山の諸寺の聖なる絵画・彫刻・典籍を入れ替えながら展示しており、同時代の密教経典が並ぶことも多い。ここを訪ねるのが、本稿に記したような写本の前に立つもっとも確かな道である。大塔のそびえる壇上伽藍は、教えを目に見える形にする場でもある。あの大塔は、大毘盧遮那経が説く曼荼羅をそのまま立体に表したものと位置づけられている。

眺めるだけでなく身をもって関わりたい方には、山内のいくつかの寺院で写経の体験が用意されている。短い経文を筆で書き写すこの行いは、千年近く前に竜光院の一巻を生んだ信仰の所作のささやかな反響であり、その仕事が求める根気のほどを実感させてくれる。

Q&A

Q大毘盧遮那経とはどのような経典ですか。
A日本密教の根本経典のひとつで、胎蔵界曼荼羅のよりどころとなる経です。宇宙仏である大日如来の教えを説きます。
Qこの巻そのものを高野山で見られますか。
A常時公開はされていません。同時代・同格の密教経典をご覧になるには、一山の寺宝を入れ替え展示する高野山霊宝館をお訪ねください。
Q写経の年代はいつですか。
A平安後期の康平元年(1058年)の年記をもち、高野山が真言の学問の中心としての地位を固めていく時期にあたります。
Q竜光院と空海の関わりは。
A寺伝では空海が住したところとされ中院と呼ばれていました。十一世紀後期に明算が入り、竜光院と号したと伝わります。

基本情報

名称大毘盧遮那経巻第一
種別書跡・典籍
指定区分重要文化財(昭和41年1月10日指定)
員数1巻
時代平安時代・康平元年(1058年)
所有者竜光院(高野山)/和歌山県
管理財団法人高野山文化財保存会
公開状況常時公開なし。同種の経典は高野山霊宝館で随時展示

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/8109
龍光院(和歌山県高野町)(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/龍光院_(和歌山県高野町)
大毘盧遮那成仏神変加持経(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/大毘盧遮那成仏神変加持経

最終更新日: 2026.06.23