一枚の紙に収められた中世の荘園
二十三軒ほどの小さな家、連なる水田、木立に覆われた山、そして北と南から迫る二本の川。紀の川の中流域にあった一つの荘園が、北を上にして、まるで上空から見おろすように一枚の紙へ写し取られている。和歌山県かつらぎ町の宝来山神社に伝わる「紀伊国桛田庄絵図」である。昭和五十年(一九七五)に国の重要文化財に指定された。
荘園は、中世の日本で土地の所有と農業を支えた基本の単位だった。だが、その姿を絵に残した例は多くない。桛田荘は数少ない例外で、この絵図は荘園とそこに暮らす人々が景観のなかにどう収まっていたかを示す資料として、中学校の社会科や高等学校の日本史の教科書にもしばしば掲載されている。
桛田荘の成り立ち
桛田荘は紀伊国伊都郡の西部、現在のかつらぎ町笠田のあたりに広がっていた。その来歴ははじめ落ち着かない。久安三年(一一四七)ごろに崇徳上皇の所領として立てられたものの、まもなく収公されて公領にもどり、のちに京都の蓮華王院、いまの三十三間堂の名で知られる寺の所領となったらしい。
転機は寿永二年(一一八三)に訪れる。後白河法皇が、京都・高雄の神護寺へ桛田荘を寄進したのである。背後で動いたのは、当時荒廃していた神護寺の再興に奔走し、寄進を強く働きかけた僧・文覚だった。翌元暦元年(一一八四)には荘園として正式に立券され、桛田荘は以後、中世を通じて神護寺領となった。
よく知られる神護寺所蔵の絵図は、この立券のときに、寺が手に入れた領域を紙の上で確定するために描かれたと考えられている。宝来山神社の絵図はこれと近い関係にある一本である。文化庁はこの神社本を鎌倉時代のものとし、とりわけ樹木の描き方は鎌倉後期の特徴をよく示すとされる。
なぜ貴重なのか
荘園絵図は、それ自体を鑑賞するために作られたものではない。多くは、隣の荘園と境界や用水を争うときの裏づけとして用意された、実務の文書である。桛田荘の境は牓示、すなわち石や杭で示した境界点で区切られ、絵図ではそれが黒い点として記される。なかでも最も念入りに置かれているのは、紀の川の南、高野山領の志富田荘と接する一点だ。川の流路が時期によって変わったため、その間の土地の帰属が争われ、この境だけは特に丁寧に書き込まれた。
二本の絵図はここで分かれる。神護寺本は五か所の牓示を描くのに対し、宝来山神社本ではこれが二か所に省略されている。さらに絵図には、後世の境相論のさいに書き加えられた注記が見える。こうした書き込みこそ、この絵図が単に保存された美術品ではなく、土地や水をめぐる現実の争いのなかで証拠として使われた記録であることを示している。
実務の文書でありながら、絵図は小さな絵画でもある。山や木立は水墨画風の筆で描かれ、田と山林は描き分けられ、庄民の家々は一軒ずつ写されている。測量としての正確さと、生きた集落を写した人間味。この二つが重なり合うところに、絵図の値打ちがある。
絵図の見どころ
絵図は一つの枠に収まった眺めとして読める。桛田荘の西の水田に立ち、荘域全体を見渡したような構図である。描かれた目印のいくつかは、いまも現地で位置を確かめられる。
八幡宮と堂
絵図の右手には八幡宮の堂舎が立つ。これが、絵図を守り伝える宝来山神社の前身にあたる。その傍らに描かれた「堂」は、近くの神願寺に結びつけられている。神社と仏堂が並んで荘園の暮らしの中心にあったことが読み取れ、当地では信仰と農の営みが切り離せないものだったとわかる。
二本の川とその間の山
荘域は、西の静川(穴伏川とも呼ぶ)と南の紀の川に挟まれている。紀の川を隔てて向かい合う二つの山、妹山と背山は、八世紀の『万葉集』にも詠まれた古い歌枕で、背山を夫、妹山を妻になぞらえてきた。その間に頭をもたげるのが船岡山で、紀の川の中州にある島のような小山である。縄文・弥生の土器が見つかっており、荘園が成立するはるか以前から人がこの川辺で暮らしていたことがうかがえる。
土地のかたち
細部を一つ。絵図のうえでは荘域はほぼ四角形に見えるが、実際の地形は三角形に近かった。整った輪郭は、荘園の主張を、とりわけ係争の続いた南端を、どれほど慎重に示そうとしたかの表れである。
描かれていないもの
静川から低い尾根を越えて荘内の水田へ水を導いた中世の用水路「文覚井」は、この絵図には現れない。地元では、荘園が開かれたときに文覚みずから開削したと伝わる。その不在もまた一つの手がかりで、慶安三年(一六五〇)に作られた写しの絵図のほうには、取水の堰を含めて用水のようすが描き込まれている。
周辺の見どころ
いまの桛田を訪ねる楽しみは、絵図そのもの(常設展示されない繊細な紙の文書である)よりも、それが写し取った景観のなかを歩くことにある。絵図に描かれた要素の多くが、今も残っている。
- 宝来山神社:宝亀年間(七七〇〜七八一)に、貴族の和気清麻呂が八幡神を勧請したことに始まると伝わる。本殿は慶長十九年(一六一四)の檜皮葺の社殿四棟で、重要文化財。その東西に並ぶ末社二棟は県指定の文化財である。境内は自由に参拝できる。
- 神願寺:神社のすぐ東にある真言宗の寺で、絵図に描かれた「堂」の後身にあたる。境内には県指定の本堂と、弘法大師(空海)の立像が立つ。
- 妹山・背山・船岡山:紀の川沿いの歌枕の山々。絵図が残した景色に関心があれば、足を延ばしたい。
- 道の駅紀の川万葉の里:川沿いの道の駅。地元の果物や休憩に立ち寄れる。
神社は京奈和自動車道の高野口インターチェンジから車でおよそ二十分、かつらぎ西インターチェンジも近い。絵図の実物を見たい場合は、和歌山県立博物館の特別展などの機会に限られるため、事前に確認するとよい。
Q&A
- 宝来山神社で絵図の実物を見られますか。
- 通常の参拝では見られません。中世の繊細な文書で、保存のため普段は公開されず、和歌山県立博物館の特別展など限られた機会に展示されます。神社の境内は一年を通じて参拝できます。
- 同じ荘園の絵図が二枚あるのはなぜですか。
- 一枚は荘園領主だった京都の神護寺に、もう一枚は地元の鎮守である宝来山神社に伝わります。構図はよく似ていますが細部が異なり、特に境界を示す牓示の数が違います。神護寺本は五か所、宝来山神社本は二か所です。どちらも重要文化財です。
- そもそも荘園とは何ですか。
- 寺社や貴族などが所有した私的な所領で、農業と年貢の単位として機能した土地のことです。中世の村落を長く組織し、境界や用水をめぐる荘園どうしの争いも多く起こりました。桛田荘の絵図のような地図が描かれたのも、こうした争いが背景にあります。
- この絵図はいつ作られたのですか。
- 文化庁は宝来山神社本を鎌倉時代のものとし、樹木の描写から鎌倉後期の特徴がうかがえるとしています。関連する神護寺本は、元暦元年(一一八四)の立券のころと結びつけられることが多いものです。延徳三年(一四九一)の牓示書出と慶安三年(一六五〇)の写し絵図が、あわせて指定されています。
- 絵図に描かれた景観は今もたどれますか。
- 多くがたどれます。紀の川と静川(穴伏川)、妹山・背山・船岡山の山々、神社と寺の位置は、いずれも現地で確かめられます。実在の、場所の特定できる土地の記録である点が、この絵図の価値の一つです。
基本情報
| 名称 | 紀伊国桛田庄絵図(きいのくにかせだのしょうえず) |
|---|---|
| 区分 | 重要文化財(古文書) |
| 指定年月日 | 昭和五十年(一九七五)六月十二日 |
| 員数 | 一幅/紙本淡彩。附:延徳三年(一四九一)の牓示書出一通、慶安三年(一六五〇)の賀勢田庄絵図一幅 |
| 時代 | 鎌倉時代(文化庁による) |
| 所有者 | 宝来山神社 |
| 所在地 | 和歌山県伊都郡かつらぎ町萩原五六 |
| 公開 | 常設展示はなく、特別展などで随時公開。境内は通年参拝可 |
| アクセス | 京奈和自動車道・高野口ICから車で約二十分 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)「紀伊国桛田庄絵図」
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/8993
- 文化遺産オンライン「紀伊国桛田庄絵図」
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/134124
- 宝来山神社「紀伊国桛田荘絵図」
- https://houraisan.com/?p=129
- 和歌山県教育資料「紀伊国の荘園」(PDF)
- https://www.manabi.wakayama-c.ed.jp/wakayama_hakken/pdf/section/02/02/098.pdf
- わかやま歴史物語「桛田荘(かせだのしょう)の痕跡をたどる」
- https://wakayama-rekishi100.jp/story/031.html
- コトバンク「桛田荘」
- https://kotobank.jp/word/桛田荘-1154419
最終更新日: 2026.05.29