京から運ばれてきた神輿

和歌山県紀の川市、鞆淵の山あいに建つ堅牢な収蔵庫の中に、総高2.2メートルあまりの金銅装の神輿が安置されている。鞆淵八幡神社が所有する国宝「沃懸地螺鈿金銅装神輿(いかけじらでんこんどうそうしんよ)」である。神輿は祭礼の渡御で神霊が乗るとされる輿だが、この一基は地方の小社のために作られたものではない。京都の石清水八幡宮から、安貞2年(1228年)に鞆淵の谷へ運ばれてきた。

現存する神輿のなかでも最古、あるいは最古級とされる。神輿は数十年ごとに造り替えられるのが通例で、ひとつの作が長く残ること自体が少ない。漆・螺鈿・金具がほぼ当初のまま揃った平安期の神輿は、その意味でも例の少ない作例である。

石清水から山間の谷へ

鞆淵はかつて石清水八幡宮の荘園だった。寛弘5年(1008年)にはすでに石清水領であったと伝わり、地元の八幡神社も石清水の別宮として創建されている。祭神は応神天皇・仲哀天皇・比売大神。創祀の年代は明らかでないが、平安期に石清水八幡宮から勧請されたとみられる。

この神輿は、来歴がはっきりしている点で他に例が少ない。安貞2年(1228年)8月18日付の「神輿奉送目録」が神輿とともに伝わり、国宝に附(つけたり)として指定されている。奉送は後堀河天皇の勅によると伝えられる。地元には鶴千代姫、いわゆる鶴姫の物語が結びつく。鶴姫は谷を出て宮仕えに上がり、帝の寵愛を受けた後、帰郷にあたって産土神である八幡神社へ、石清水の祭式にならった神輿を贈らせたという。父が怒って投げた木枕が二つに割れ、その片方を持って家を出た鶴姫を、後に兄の千楠丸が残る半分と照合して捜し当てたという挿話も残る。いずれも江戸時代後期の地誌『紀伊続風土記』などに記された伝承で、確かな史実とは言いきれない。それでも、年紀の入った奉送目録があることで、この神輿には同種の品が持ち得ない確実な手がかりが備わっている。

神輿そのものは、運ばれてきた年より古い。専門家は制作を平安時代後期、1228年よりさかのぼる頃と見ており、石清水ですでに用いられていた一基が鞆淵へ贈られたことになる。

国宝に指定された理由

この神輿は大正6年(1917年)に重要文化財、昭和31年(1956年)6月28日に国宝へ指定された。価値の柱は二つある。第一は古さと完存性で、平安期にさかのぼる神輿はそもそも数えるほどしか残っておらず、本体と装飾の大半を当初の姿でとどめている例はさらに少ない。

第二は、比較される相手の格である。文化庁の解説は、大阪府羽曳野市の誉田八幡宮が所蔵する国宝「塵地螺鈿金銅装神輿」と形も技法もほとんど同じだと記している。誉田八幡宮の神輿は源頼朝の寄進と伝えられる。両者は現存する神輿の双璧として並び称される。鞆淵の一基は、屋蓋の傾きがやや急なこと、荘厳の全面に宝相華唐草の透彫金具を張ること、そして桁や下框を沃懸地で仕上げる点が異なり、その沃懸地が名称の由来となっている。

見どころ

長い名称は、そのまま神輿の表面の説明になっている。沃懸地は、漆を塗った面に金粉を密に蒔き詰め、さらに漆を重ねて研ぎ出す技法で、金一色に光る地をつくる。螺鈿は貝殻を切って嵌め込む装飾。金銅装は、金鍍金を施した銅金具で飾ることをいう。三つを合わせると、金地に螺鈿を施し、金銅金具で装った輿、ということになる。

屋蓋と鳳凰

屋蓋は頂部が一点に集まる宝形造で、金銅地に宝相華文の透彫を全面に張り、宝相華の窠文や円形の鏡面を散らす。頂には高さおよそ39センチの鳳凰が立つ。頭部と胴は金銅で鋳造し、翼と尾は銅板を毛彫りして鍍金する。

金地と螺鈿

桁や下框に目を向けると、沃懸地の地に螺鈿の宝相華文が流れ、要所に瑠璃が嵌められている。神輿のなかでも最も傷みやすく、最も作り手の手が表れる部分で、金工ではなく平安後期の漆工の腕を読み取れる場所でもある。

懸装の金具と総角

構造からは三種の金銅金具が下がる。木瓜形の鏡板六面をはめた帽額、同じく三面をはめた幡形の飾、八葉形の鏡板をはめた円形の華盛である。いずれも内側を宝相華唐草の透彫で埋め、花弁の反りや峯のカーブには弾力がある。修理に携わった専門家は、これを平安後期の彫金の精華と評する。組紐の総角は緑・紫・茶・金茶を組み合わせたもので、茶の糸は失われており、現在は復元した組紐を懸ける。

鞆淵八幡神社を訪ねる

訪問の前にひとつ押さえておきたい。神輿は通常は公開されていない。境内の収蔵施設に厳重に保管されており、一般の参拝者がその場で目にできるものではない。訪ねて見られるのは神社の建物のほうである。社殿は鞆淵川の北、八幡山の南麓に鎮座する。

境内の建物のうち二棟が、それぞれ国の重要文化財に指定されている。本殿は向拝付きの三間社流造。近くの大日堂は、神宮寺だった当時の名残をとどめる室町時代前期の建物で、昭和8年(1933年)に解体修理が行われた。堂内には金剛界大日如来の坐像をはじめ、複数の仏像が安置されている。

谷は山深い。笠田駅から車でおよそ30分、JR和歌山線打田駅からは地域巡回バスが鞆渕八幡前まで通じる。拝観や特別な観覧の可否は神社の都合によるため、事前に神社(0736-79-0198)か、紀の川市生涯学習課(0736-77-2511)に問い合わせておくとよい。

周辺の見どころ

この一帯は古い社寺が多い。紀の川の平地には西国三十三所第三番札所の粉河寺があり、広い庭園と、国宝の縁起絵巻にちなむ寺として知られる。北側の隣接する岩出市には根来寺があり、現存最大の規模をもつ大塔は国宝に指定されている。山間の神社にこうした寺社を組み合わせれば、紀の川沿いの文化の風景を一日かけてたどることができる。

Q&A

Q神輿を実際に見ることはできますか。
A通常は見られません。神輿は保護のため収蔵されており、常時の一般公開は行われていません。社殿や大日堂は参拝でき、現地には神輿の写真も掲示されていますが、現物の観覧は特別な対応がある場合に限られます。
Qなぜ京都の神社の神輿が和歌山の山あいにあるのですか。
A鞆淵は京都の石清水八幡宮の荘園で、地元の神社はその別宮でした。安貞2年(1228年)に石清水から神輿が送られ、その事実は神輿に附属する年紀入りの奉送目録に記されています。
Q本当に日本最古の神輿ですか。
Aそう紹介されることが多く、少なくとも現存最古級にあたります。最も近い作例は大阪・誉田八幡宮の国宝神輿で、両者はこの古い時代の双璧として並べて語られます。
Q長い名前はどういう意味ですか。
A表面の仕上げを示しています。沃懸地は金粉を蒔いて研ぎ出した金地、螺鈿は貝殻の嵌め込み、金銅装は金鍍金の銅金具で飾ることを指します。
Q鶴姫とは誰ですか。
A神輿に結びつく地元伝承の主人公です。宮仕えをして帰郷の際に神輿を贈らせたと語られます。江戸時代の地誌に記された伝承で確かな史実ではありませんが、今も神社と深く結びついています。

基本情報

名称沃懸地螺鈿金銅装神輿(いかけじらでんこんどうそうしんよ)
所在地和歌山県紀の川市中鞆淵 鞆淵八幡神社
所有者鞆淵八幡神社
種別工芸品・国宝
指定重要文化財 大正6年(1917年)4月5日/国宝 昭和31年(1956年)6月28日
時代平安時代(後期)。安貞2年(1228年)に鞆淵へ奉送
員数1基。附として安貞2年(1228年)の神輿奉送目録
寸法総高約225.7cm/轅長約362.9cm/台框幅約140.8cm/鳳凰総高約39cm
公開通常は非公開
問い合わせ鞆淵八幡神社 0736-79-0198/紀の川市生涯学習課 0736-77-2511

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース「沃懸地螺鈿金銅装神輿」
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/488
紀の川市 きのかわ観光ガイド「沃懸地螺鈿金銅装神輿」
https://www.city.kinokawa.lg.jp/kanko/temples_shrines/ikakejiradenkondousousinyo.html
和歌山県神社庁「八幡神社(鞆淵)」
https://wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=3021
誉田八幡宮(公式サイト)由緒「塵地螺鈿金銅装神輿」
https://kondahachimangu.com/information/history/

最終更新日: 2026.05.29