放光般若波羅蜜経 巻第九:砂漠を越えてきた経典の写本

放光般若波羅蜜経の巻第九は、天平十五年(七四三)に書写された一巻の紙本である。高野山の龍光院が所蔵し、昭和五年(一九三〇)五月二十三日に重要文化財に指定された。種別は書跡・典籍、員数は一巻。本文は大乗仏教の般若経典のひとつで、あらゆる事物に固定した実体はないという「空」の智慧を説く。

この写本が興味深いのは、本文がここに至るまでの道のりである。八世紀の日本で写し取られた経文は、もとをたどれば中央アジアの砂漠の向こう、于闐(ホータン)から運ばれてきた梵本に行き着く。一人の中国僧が生涯をかけて西域から請来した経典が、海を越えて奈良の写経所に届き、やがて高野山の経蔵に収まった。

原典を求めて西へ向かった僧

「放光般若経」という名は、最初の漢訳に由来する。サンスクリット原典は二万五千頌般若(梵名 Pañcaviṃśatisāhasrikā)に相当し、全九十品の大部の経典である。

この梵本を中国へもたらしたのは朱士行(しゅしぎょう、二〇三〜二八二)であった。漢人として正式に受戒した最初の僧と伝えられる人物で、洛陽で先行訳の小品系般若経を講じていたが、訳文が簡略にすぎて意が通じにくいことに不満をいだき、完本の原典を西方に求めることを志した。甘露五年(二六〇)、長安を発って砂漠を渡り、大乗経典の集まる于闐にたどり着く。そこで九十品、六十余万字におよぶ梵本を得た。

ところが経本を中国へ送り出すのは容易でなかった。現地には別系統の仏教を奉じる勢力があり、経の搬出を阻んだ。弟子の弗如檀(ふにょだん)がようやく梵本を洛陽へ届けたのは太康三年(二八二)のことで、朱士行自身は于闐にとどまったまま、八十歳ほどでその地に没したという。漢訳が成ったのはさらに後、元康元年(二九一)、陳留の倉垣水南寺においてであった。于闐の僧無羅叉(むらしゃ)が梵本を読み、竺叔蘭(じくしゅくらん)が口訳し、筆受の手で漢文に写し取られて、二十巻の放光般若経が世に出た。

鳩摩羅什の諸訳が現れるまでの一世紀あまり、中国で般若の教理を学ぶ者がよりどころとしたのがこの放光般若経であった。当時流行していた玄学の思潮ともあいまって、多くの学僧が注釈を加え、講説を重ねた。漢訳仏教史の初期を支えた一経である。

光明皇后の願経として

高野山に伝わる本巻は、その漢訳から四世紀半を経て日本で書写された一巻である。巻末の記から、天平十五年(七四三)五月十一日付で光明皇后の発願により写されたことが知られる。

光明皇后(七〇一〜七六〇)は聖武天皇の后で、奈良時代の写経事業を支えた最大の願主であった。よく知られるのは天平十二年(七四〇)の願文の日付にちなんで「五月一日経」と呼ばれる一切経で、亡き父母の追善を発願の縁とし、官立の写経所で当時の日本にあった仏典のほぼ全体、数千巻規模の書写が進められた。謹厳な書体と厳格な校正で、奈良朝写経の代表とされる。

本巻が属するのは、それより遅い天平十五年の奥書をもつ一群で、研究上「五月十一日経」と区別して呼ばれることがある。いずれも同じ皇后の庇護のもと、訓練された写経生が請来本を底本として写し、何重にも校合を重ねた写経所の所産である。その整った筆致は、奈良時代の写経技術の到達点を示している。

見どころ

彫刻や絵画とは違い、書跡は静かに、時間をかけて向き合うほど応えてくれる。整然と並ぶ字面は、高名な僧侶ではなく専門の写経生の手になるものだ。むしろその均質さこそが見どころで、国家の事業として一巻また一巻と、同じ水準で書き継がれていった営みの跡である。

核心は奥書にある。年紀と発願者を記した一行が、無名の一巻を年代と願主をもつ史料へと変える。なお本巻について寸法や紙質などの細目は公的記録に詳しく出ておらず、寺院所蔵の経巻ではこうした例は珍しくない。仔細に観察したい向きは、目録を備えた展示の機会を待つのがよい。

眺めるときは二つの時間を重ねて見たい。一つは皇室の追福のために筆を運んだ八世紀の日本の手。もう一つは、その文言をここまで運んできた三世紀の西域への旅路。一巻の経が、その二つの交わる地点に立っている。

高野山をめぐる

本巻を所蔵する龍光院は、高野山真言宗の別格本山の一つで、本尊は大日如来。空海が高野山を開いたときに住した院と伝えられ、古くは中院と称した。庭の池から宝珠を戴いた龍が現れて昇天したという瑞祥の伝えにちなみ、後に龍光院と号したという。現在も修行と信仰の場であり、寺内の一般拝観は受け付けていないため、本巻を寺で見ることはできない。

高野山一山の寺院がもつ文化財は、公益財団法人高野山文化財保存会が管理し、大正十年(一九二一)開館の高野山霊宝館で保存・公開されている。国宝二十余件、重要文化財百数十件をはじめとする膨大な収蔵品があり、特別展や季節ごとの陳列で順に公開される。本巻のような経巻も、館の展示計画にあわせて出陳されることがある。訪ねる前に開催中の展示内容を確かめておくとよい。

高野山そのものも一日では惜しい。二〇〇四年に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として世界遺産に登録された聖地で、弘法大師御廟と奥之院、壇上伽藍、大門などが徒歩や短いバス移動の範囲にある。多くの寺院が宿坊を営み、精進料理とともに一夜を過ごすこともできる。

Q&A

Q放光般若経とはどのような経典ですか。
A大乗仏教の般若経典の一つで、事物に固定した実体はないとする「空」の智慧を説きます。サンスクリット原典は二万五千頌般若に相当し、その最初期の漢訳が放光般若経です。
Q写本と本文では、どちらがどれだけ古いのですか。
Aこの写本が書かれたのは天平十五年(七四三)です。本文の漢訳が成ったのは元康元年(二九一)で、その底本となった梵本はさらに数十年前に西域から請来されました。文章自体は紙よりはるかに古いことになります。
Qなぜ重要文化財に指定されたのですか。
A光明皇后の写経事業に連なる、年紀の明らかな奈良時代の写経である点が評価されています。書として、また八世紀日本の国家的写経のありようを示す資料として価値が認められ、昭和五年(一九三〇)に指定されました。
Q龍光院で実物を拝観できますか。
A龍光院は一般拝観を受け付けていません。高野山の指定文化財は霊宝館で保存・公開されており、展示品は入れ替わります。出陳の有無は霊宝館の展示予定でご確認ください。
Q高野山へはどう行けばよいですか。
A大阪・難波から南海電鉄で極楽橋へ、ケーブルカーで高野山駅へ上がり、路線バスで山内に入ります。霊宝館には専用のバス停と無料駐車場があります。

基本情報

名称放光般若波羅蜜経〈巻第九〉(ほうこうはんにゃはらみつきょう)
種別書跡・典籍
指定区分重要文化財(昭和五年〔一九三〇〕五月二十三日指定)
時代奈良時代/奥書は天平十五年(七四三)
員数一巻
所有者龍光院(高野山)
所在地和歌山県伊都郡高野町高野山
管理団体公益財団法人高野山文化財保存会(高野山霊宝館を運営)
公開寺院での一般拝観は不可。霊宝館の展示において出陳時に公開

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)— 放光般若波羅蜜経〈巻第九〉
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/8112
龍光院(和歌山県高野町)— ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/龍光院_(和歌山県高野町)
五月一日経 — ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/五月一日経
放光般若経 — 維基百科(中国語)
https://zh.wikipedia.org/zh-tw/放光般若经
高野山 霊宝館(公式サイト)
https://reihokan.or.jp/

最終更新日: 2026.05.29