日本の文学を形づくった詩人の、残された一巻
日本にとって白居易の文集ほど重んじられた外国の書物は少ない。七七二年から八四六年を生きた唐の詩人は、あえて平明で親しみやすい詩風を選び、その撰集である白氏文集は、彼の生きた世紀のうちに日本へ渡った。平安の貴族はこれを読み、引き、みずからの漢詩文の拠りどころとした。その詩句は『源氏物語』や『枕草子』にも響いている。この集を知ることは、幾世紀ものあいだ、日本で教養あることの一部であった。
高野山の三宝院は、その第三巻の一部を伝える一巻を蔵する。鎌倉時代の写本で、「白氏文集巻第三残巻」と呼ばれる。残巻という語は正確である。伝わるのは全巻ではなく一部だが、これほど根幹をなす書物であれば、その一部もまた重みをもつ。
三宝院は高野山の子院で、弘法大師空海の母と伝わる玉依御前の創建と伝えられる。山内の宿坊の一つであり、長い歴史のなかで、奈良時代の国宝の経典をはじめとする書物と像を蓄えてきた。漢の文学の古典のこの中世の写本も、その一つである。
重要文化財としての価値
本巻は昭和二十四年(一九四九)五月三十日に重要文化財に指定された。その価値は本文的かつ歴史的なものである。白居易の作品は日本では手写の写本を通じて広まり、その古い写本は、詩人が実際に何を書いたかを定めようとする研究者にとって、いまや第一の重みをもつ。後の刊本より古い本文を保っていることがあるからだ。鎌倉時代の、たとえ一巻の断片であっても、その長い伝来の鎖をなす一つの証人である。
それはまた、学問がどこに蓄えられていたかをも語る。高野山は宗教の修行の地であるだけでなく、典籍の収蔵の地でもあった。仏典と漢の詩人の世俗の詩との双方を蔵する寺の文庫は、中世の僧坊文化がいかに広く書を読んだかを映している。三宝院にこの巻が伝わったことは、唐の文学の主要な一作を、山の学問の営みのなかに置くことになる。
書写の作品にとっては、見ばえよりも、状態と来歴がまさる。指定されているのは、ほかでもないこの一点である。古典籍の古い写本の断片であり、何か一つの劇的な特徴ではなく、それが伝えるものゆえに尊ばれる品である。
見どころ
本巻は現役の子院が所蔵し、常時公開はされていないため、その理解はまず見ることよりも知ることから始まる。とらえたいのは、書写という営みそのものである。印刷が一般的でなかった時代、白居易のような書物は、後から後から読み手が一字ずつ、一巻ずつ手で写すことによってのみ伝わった。一本一本の写本が、学びの手だてであると同時に労苦の捧げものであり、後の研究者が指紋のように読みとれる小さな異同を、生み、また保っていった。
文化の地理も思いめぐらせたい。九世紀の中国で、作者がふつうの読み手にも分かることを願った詩風で詠まれた詩が、海を渡り、平安の宮廷の文学の血脈に溶け込み、やがて鎌倉時代に、紀伊の仏の山で再び筆に写された。三宝院の残巻は、その思いがけない旅程をつなぐ一つの実物の環である。
中世の書跡や写本を直に見たい高野山の参詣者には、霊宝館がふさわしい。山内の指定典籍を入れ替えながら展示し、同種の巻物が出されることもある。三宝院は庭園のなかの宿坊として知られ、宿泊すれば、この巻を幾世紀も守ってきた学問の共同体のただ中に身を置くことになる。
Q&A
- 白氏文集とは何ですか。
- 唐の詩人・白居易(七七二〜八四六)の撰集です。平安時代以降の日本で大きな影響をもち、漢詩文の制作にも、古典文学にも深く関わりました。
- 「残巻」とはどういう意味ですか。
- 全巻ではなく、第三巻の一部のみが伝わっていることを指します。それでも、これほど重要な書物の古写本の断片は確かな学術的価値をもちます。
- なぜ写本がそれほど重要なのですか。
- 印刷が普及する以前、書物は手写で伝わりました。古い写本は後の刊本より原形に近い本文を保つことがあり、伝来をたどる鍵となる資料です。
- この巻を見ることはできますか。
- 三宝院の所蔵で、常時公開はされていません。高野山で中世の書跡を見るなら、入替展示のある霊宝館が適しています。
基本情報
| 名称 | 白氏文集巻第三残巻(はくしもんじゅうまきだいさんざんかん) |
|---|---|
| 所在地 | 和歌山県伊都郡高野町 高野山 三宝院 |
| 指定区分 | 重要文化財(書跡・典籍) 昭和二十四年五月三十日指定 |
| 員数 | 一巻 |
| 時代 | 鎌倉時代 |
| 所有者 | 三宝院 |
| 公開状況 | 常時公開なし。同種の典籍は高野山霊宝館で展示 |
References
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/8115
- 高野山霊宝館
- https://reihokan.or.jp/
最終更新日: 2026.06.23