二十一年に一度だけ開かれる扉の奥に
和歌山県九度山町の慈尊院、弥勒堂の厨子は、二十一年に一度しか開かない。前回の開扉は二〇一五年、高野山開創千二百年に合わせて行われた。次に拝めるのは二〇三〇年代まで待たねばならない。長く秘仏として守られてきたこの像を、生涯のうちに直接目にできる人は決して多くない。
厨子に納まるのは木造弥勒仏坐像。未来の世に現れて衆生を救うとされる弥勒を、修行中の菩薩の姿ではなく、悟りを開いたのちの如来の姿で刻んでいる。装身具をまとわず、衣をまとうのみの像で、右手を施無畏印に挙げ、左手は与願印として膝の上に置く。桧の一木造に彩色を施し、像高はおよそ九十一センチメートル。
この像は国宝に指定され、しかも世界遺産の建物の中に座している。安置するのは、弘法大師空海の母の廟所の上に建てられた弥勒堂である。慈尊とは弥勒の別の呼び名であり、寺の名と本尊の名は、はじめから結び付いている。
国宝とされる理由
平安前期の彫刻は、年代の確定がきわめて難しい。制作年を記した作例が乏しいため、研究は様式の判断に頼り、その判断はしばしば議論を呼ぶ。本像は、その数少ない例外にあたる。組んだ両脚の前、裳先の部分に墨書銘があり、寛平四年すなわち八九二年の作と読み取れる。裳先そのものは後世に補われた部分だが、墨書は当初の銘を忠実に写したものと認められている。なお八九一年とする資料もあり、これは年号の換算による差だが、国の文化財データベースは八九二年を採る。
年紀をもつことが、この像を基準作たらしめている。制作年が確かであるため、年代の不明な同時代の作例を位置づける物差しとして用いられてきた。像の表面からは平安前期の作風が直に読み取れる。やや下ぶくれの重々しい面相、量感のある体躯、そして脚部にかけて大波と小波を交互に刻む翻波式の衣文である。頬から顎にかけての張りや大きな耳朶など、同時期の他の作例とは異なる相を示す点も、古くから指摘されてきた。
本像は昭和三十七年(一九六二)に重要文化財、翌昭和三十八年(一九六三)七月一日に国宝へと指定された。厳重な秘仏として守られてきたことには、思わぬ恩恵があった。手に触れられることも光にさらされることも少なかったため、円光背と八重蓮華座が当初に近い姿で残っている。この古さの作品としては、稀なことである。
注目したい点と、伝承の扱い
本尊が二十年余りも閉じられているため、日々の信仰は身代わりに向けられる。重要文化財の弥勒の画像が御前立として厨子の前に据えられ、人々はこれに祈りを捧げる。厨子の正面には四天王立像が配されている。県指定の文化財で、寄木造、玉眼を入れ、彩色を施した着甲の像が、邪鬼を踏んで立つ。造立は鎌倉時代後半、守るべき本尊より四百年ほど後の作である。
本像には一つの伝承がまといついている。母の死後、空海が自ら刻んだという寺の言い伝えである。だが八九二年という銘は、この話と折り合わない。空海が没したのは承和二年(八三五)、半世紀以上も前のことだからである。誠実に読むなら、裳先の年紀は記録された事実であり、空海への帰属は寺が長く守ってきた信仰上の記憶ということになる。どちらも語りうるが、年紀をもつのは一方だけである。
もし開扉の年に拝む機会があれば、面相の前で足を止めたい。研究者が特異と評した表情は、言葉にするより感じ取るほうがたやすい。眉のあたりの重さと下半の張りは、穏やかとも厳しいとも言い切れない、その中間のどこかにある。
慈尊院をめぐって
慈尊院は弘仁七年(八一六)、高野山の政所として創建された。山上の寺院のための庶務をさばき、参詣者を宿泊させる、いわば表玄関であった。高野山はその歴史の大半を通じて女人禁制であった。空海の母が讃岐、いまの香川から、子の開いた霊山を見ようと訪ねてきたとき、山に登ることはかなわず、麓のこの寺に住まうこととなった。空海は長い山道を月に九度下って母を訪ねたと伝えられる。九度山という地名は、その往来に由来する。
母の没後、母が崇敬した弥勒を安置するために弥勒堂が建てられ、寺は女人高野と呼ばれるようになった。立ち入ることのできない霊山と、女性が縁を結ぶための場である。その歴史はいまも境内に息づいている。子授け、安産、授乳、良縁を願う女性が参り、乳房をかたどった絵馬を奉納する。近年は乳がんの平癒を祈る人も多く、桃色の御守りは和歌山の外まで広く求められている。
慈尊院は高野山町石道の登り口でもある。五輪塔の形をした百八十基ほどの町石が道しるべとなって、高野山へと続く古い参詣道である。道は寺のかたわらから、同じく世界遺産の丹生官省符神社へと石段を上り、さらに山上を目指す。訪れるには南海高野線の九度山駅で下車し、ほぼ平坦な道を二十分ほど歩く。
Q&A
- 参拝すれば国宝の像を見られますか。
- 通常の日には拝観できません。弥勒仏は秘仏で、開扉は二十一年に一度です。前回は二〇一五年でした。普段は弥勒堂の建物を拝し、厨子の前に据えられた御前立に祈ることができます。
- なぜ二十一年に一度なのですか。
- 空海の月命日が二十一日であることに因むとされます。弥勒堂は桧皮屋根を葺き替える際にも開かれてきましたが、その葺き替えも同様に長い間隔で行われてきました。
- この弥勒は菩薩ですか、仏ですか。
- 仏です。弥勒は菩薩の姿で表されることも多いのですが、本像は装身具をまとわない如来形で、悟りを開いたのちの弥勒を表しています。
- 本当に空海が刻んだのですか。
- 記録に基づく事実というより、寺の古い言い伝えです。裳先の墨書銘は八九二年を指し、空海が没した八三五年より後にあたるため、像そのものを空海の作とすることはできません。信仰上の記憶として受け止めるのがよいでしょう。
- 電車での行き方を教えてください。
- 南海高野線の九度山駅で下車し、徒歩でおよそ二十分です。道はほぼ平坦です。慈尊院は高野山へ向かう町石道の起点にもあたります。
基本情報
| 名称 | 木造弥勒仏坐像〈(廟所安置)〉 |
|---|---|
| 所在地 | 和歌山県伊都郡九度山町慈尊院八三二 慈尊院 |
| 指定区分 | 国宝(彫刻)。昭和三十七年(一九六二)重要文化財に指定、昭和三十八年(一九六三)七月一日に国宝指定 |
| 時代・年代 | 平安時代。裳先の墨書銘に寛平四年(八九二)。八九一年とする資料もある |
| 員数・寸法 | 一躯。像高約九十一センチメートル |
| 品質・形状 | 桧の一木造、彩色。円光背・八重蓮華座は当初に近い姿で残る |
| 所有者 | 慈尊院 |
| 公開状況 | 秘仏。開扉はおよそ二十一年に一度。平時は御前立を拝する。安置する弥勒堂は重要文化財かつ世界遺産 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/273
- 日本遺産ポータルサイト(文化庁) 慈尊院の彫刻群
- https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/culturalproperties/result/5172/
- 地域観光資源の多言語解説文データベース(観光庁)
- https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R1-00635.html
- 慈尊院 公式サイト ご本尊木造弥勒仏坐像(国宝)
- https://jison-in.org/about/mirokuzou.html
- 九度山町観光情報 慈尊院
- https://www.kudoyama-kanko.jp/midokoro/spot04.html
- 和歌山県公式観光サイト 慈尊院
- https://www.wakayama-kanko.or.jp/spots/detail_419.html
最終更新日: 2026.06.13