木造多聞天立像 ― 弘法大師の山に立つ鎌倉の守護神
高野山に受け継がれた木彫のなかに、北方を護る武装の天部、多聞天の立像が一躯ある。鎌倉時代の作で、所有するのは遍照光院。九世紀初めにこの山を開いた空海が、晩年に禅定を組んだ地と伝わる寺院である。
この像は明治四十一年(一九〇八)一月に重要文化財へ指定された。明治期に数多く指定された高野山の文化財群の一つで、現在は山内の宝物を保存・公開する財団の管理下に置かれている。
多聞天とは何者か
この尊像は二つの名を持ち、その違いには意味がある。寺院の四方を護る四天王の一尊としては多聞天と呼ばれ、「多くを聞く者」と読める名を負う。一方、単独で祀られるときには毘沙門天となり、福徳と守護の神として独立した信仰を集める。梵語ではヴァイシュラヴァナという。
多聞天像には決まった姿がある。甲冑をまとって立ち、守護神らしい憤怒の相を浮かべ、片手に仏舎利を納める小さな宝塔を捧げ、もう一方の手に戟を握る。足下では邪鬼が身をよじり、踏みしだかれて煩悩の調伏を示す。鎌倉時代の仏師たちは、こうした像に新たな緊張感を吹き込み、筋肉を引き締め、眼光を鋭くし、しばしば玉眼を嵌めて光を宿らせた。
遍照光院という場
遍照光院は、壇上伽藍と奥之院を結ぶ目抜き通り、小田原通りに面して建つ。空海が晩年この地で坐禅を組んだと寺は伝え、遍照ヶ岡という地名がその記憶をとどめている。平安時代には上皇の御座所となり、皇族が住職を務めた時期もあった。京都御所の門にならった格式高い正門が、その由緒を今に示している。
寺には注目すべき寺宝が複数あり、名高い仏師快慶の手になる阿弥陀如来立像もその一つである。多聞天像はこうした信仰の場に置かれ、護法の天部と諸仏がともに祀られて、教えとそれを学ぶ者を守ってきた。
見どころ
守護の天王像は、じっくり眺めるほど応えてくれる。まず甲冑を追ってみたい。重なり合う札、結ばれた帯、木を彫り漆を施して革と金属を表し分けた手際。次に姿勢を読む。よい多聞天は重心を片脚にかけ、腰でわずかに身をひねって、直立不動ではなく内に力を溜めた構えを見せる。
意味を担うのは面相である。寄せた眉と剥き出した歯は、怒りそのものではなく、護る者の決意を表す。鎌倉の仏師が眼に水晶を嵌めた像では、その視線が室内を移る見る者を追うかのようだ。凡庸な守護神と記憶に残る一躯とを分けるのは、こうした細部にある。
Q&A
- 高野山を訪ねれば、この像を見られますか。
- 常時公開はされていません。この像は高野山の文化財保存を担う財団の管理下にあり、これら寺院の収蔵品に出会う最も確実な機会は、高野山霊宝館の企画展・特別展です。展示は年間を通じて入れ替わるため、出かける前に開催中の展示一覧をご確認ください。
- 多聞天と毘沙門天はどう違うのですか。
- 同じ尊が役割を変えた姿です。四天王の一尊としては北方を護る多聞天、単独で信仰の対象として祀られるときは毘沙門天と呼ばれ、守護と福徳の神として崇敬されます。
- この像はどのくらい古いものですか。
- 国の記録では鎌倉時代の作とされます。おおむね十二世紀後半から十四世紀にあたり、日本の仏教彫刻が写実と躍動感を志向した時代です。
- 遍照光院は拝観できますか。
- はい。遍照光院は宿坊として宿泊客を受け入れており、朝のお勤めに参加できます。寺自身の快慶作阿弥陀如来像はその折に拝観できますが、多聞天像は別個に指定され、霊宝館の体系で管理されています。
- なぜ高野山の宝物は一つの館に集められているのですか。
- 山内の諸寺院は数万点に及ぶ美術品を所蔵します。傷みやすい彫刻や絵画を温湿度の管理された霊宝館一施設に集めることで、適切に保存し、暗い堂内に常置せず入れ替えながら公開することが可能になります。
基本情報
| 名称 | 木造多聞天立像(もくぞうたもんてんりゅうぞう) |
|---|---|
| 所在地 | 和歌山県伊都郡高野町高野山 遍照光院 |
| 指定区分 | 重要文化財(明治四十一年〔一九〇八〕一月十日指定) |
| 種別 | 彫刻 |
| 時代 | 鎌倉時代 |
| 員数 | 一躯 |
| 所有者 | 遍照光院 |
| 管理団体 | 財団法人高野山文化財保存会(霊宝館) |
| 公開状況 | 常設展示なし。霊宝館の展示で公開される場合あり |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/4348
- 高野山霊宝館
- https://reihokan.or.jp/
- 高野山宿坊協会 遍照光院
- https://www.shukubo.net/contents/stay/henjokoin.html
最終更新日: 2026.06.23