木造兜跋毘沙門天立像 ― 流離の皇子が開いた親王院に

親王院は、高野山の中心の聖域である壇上伽藍にほど近い、本中院谷に建つ。指定の宝物のなかに、平安時代の兜跋毘沙門天立像が一躯ある。地天女の掌の上に立つ、あの特異な姿の守護神である。明治四十一年(一九〇八)一月に重要文化財へ指定され、高野山の文化財保存の体系のもとで護られている。

寺は開創をおよそ千二百年前、真如親王(高岳〔たかおか〕親王)にさかのぼる。その生涯が、この守護像に類のない背景を与えている。これほどの物語を負う寺院は、山内にも多くはない。

天竺を目指した皇子

真如親王は平城天皇の第三皇子で、嵯峨天皇のもとで皇太子に立てられた。政変により皇位継承の道を絶たれると、世を捨てて高野山に登り、空海の弟子となった。師の十大弟子の一人に数えられ、空海の入定の際にはその傍らに侍したと伝えられる。晩年、親王は教えをその源で求めて天竺(インド)へ向かう旅に出た。そして二度と戻らなかった。途上、マレー半島のあたりで没したと伝わり、虎に襲われて命を落としたという伝承も根強い。この守護像は、彼が残した寺に伝わる。

その経歴は、護法の尊にふさわしい居場所を与えている。境を護るべく揺るがず立つ神は、既知の世界の縁を越えて歩み去った人の開いた寺によく似合う。

兜跋形を読む

毘沙門天の兜跋形は、印を知れば見分けやすい。一匹の邪鬼を踏むのではなく、尊は地中から現れて支える地天女の開いた掌の上に立ち、左右に二匹の鬼を従える。高い宝冠をいただき、西域風に仕立てた長い甲冑をまとい、片手に宝塔、もう一方に戟を執る。日本における原型は京都・東寺の像で、都の南門を護ったと伝えられる。

国の記録は親王院の像を平安時代とし、寺の伝えのなかには、より具体的に平安初期の弘仁年間を指すものもある。いずれにせよ、山内に残る古い守護像の一つに数えられる。

今日の親王院

親王院は江戸時代の趣をとどめ、本堂はおよそ三百五十年前の蔵造りで、燈明の灯りだけが点る。本尊は智証大師円珍の作と伝わる不動明王坐像で、これも重要文化財である。千年を超える歳月のあいだに集められた仏像・法具・聖教の膨大さから、寺は「高野山の図書館」と呼ばれることもある。その多くを安全に収めることが難しくなり、近年、寺は老朽化した蔵を建て替えるための勧進を進めてきた。

親王院は宿坊としても営まれ、参拝者は宿泊して高野山の寺院の日々の営みに触れることができる。ただし指定の文化財そのものは堂内に展示されるのではなく、霊宝館の体系を通じて保存・公開される。

Q&A

Q親王院でこの像を見られますか。
A寺院で常時公開されてはいません。この像は高野山の文化財保存を担う団体の管理下にあり、これら収蔵品は高野山霊宝館の入れ替え展示で見るのが確実です。出かける前に霊宝館の展示予定をご確認ください。
Q親王院は誰が開いたのですか。
A真如親王(高岳親王)と伝えられます。平城天皇の皇子で皇太子の地位を退いて出家し、空海の弟子となった人物です。後に天竺へ向かう旅に出て、多くの伝えではその途上で没したとされます。
Q兜跋毘沙門天とは何ですか。
A守護神毘沙門天の特殊な姿です。地天女の掌の上に立ち、左右に二匹の鬼を従え、西域風の甲冑をまといます。この姿は京都・東寺の著名な像に由来します。
Qこの寺に宿泊できますか。
Aはい。親王院は宿坊として宿泊と精進料理を提供しています。ただし指定の文化財は霊宝館の体系で保存・展示されるため、宿泊しても兜跋毘沙門天を拝観できるとは限りません。
Qこの像はどのくらい古いものですか。
A国の記録では平安時代の作とされ、寺の伝えには平安初期の弘仁年間を指すものもあります。高野山に残る古い守護像の一つに数えられます。

基本情報

名称木造兜跋毘沙門天立像(もくぞうとばつびしゃもんてんりゅうぞう)
所在地和歌山県伊都郡高野町高野山 親王院
指定区分重要文化財(明治四十一年〔一九〇八〕一月十一日指定)
種別彫刻
時代平安時代
員数一躯
所有者親王院
管理団体財団法人高野山文化財保存会(霊宝館)
公開状況常設展示なし。霊宝館の展示で公開される場合あり

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/4322
高野山 親王院(公式サイト)
https://shinnoin.jp/
高野山霊宝館
https://reihokan.or.jp/

最終更新日: 2026.06.23