続宝簡集 ― 高野山が守りつづけた紙の記録
七十七巻と六冊の巻子本・冊子に、およそ八百三十通の古文書がおさめられている。天皇や将軍が発した格式高い文書もあれば、農民が片仮名でしたためた切実な訴えもある。長い年月をかけて集められ、江戸時代に整理・表装され、御影堂の宝庫に納められてきたこの文書群が、国宝「続宝簡集(ぞくほうかんしゅう)」である。一点の作品というより、高野山という巨大な宗教都市が積み重ねてきた記憶そのものだといってよい。
高野山を訪れる人の多くは、杉木立の奥之院や宿坊を目当てにする。その同じ山が、中世日本の紙の記録としてもっとも豊かな一群を抱えていることは、あまり知られていない。
続宝簡集とは何か
高野山の諸寺院は、千年をこえる年月のあいだに膨大な文書を蓄えてきた。寄進状、綸旨、書状、訴状、帳簿。これらの総体を研究者は「高野山文書」と呼ぶ。江戸時代、総本山の金剛峯寺は、そのうちの最重要な文書群を整理する事業に着手した。開祖空海の御影をまつる御影堂の宝庫に、ばらばらに収められていた古文書のなかから貴重なものを選び出し、年代を追って巻子や冊子に仕立てていったのである。
こうして相次いで編纂されたのが、三つの姉妹的な文書集だった。最初の「宝簡集」は五十四巻・六百九十二通。次に編まれたのが本稿の主役「続宝簡集」で、七十七巻・六冊、収載は八百三十一通におよぶ。最後にしてもっとも大部な「又続宝簡集」は百六十七巻・九冊・千九百七十九通を数える。後世の転写本もあわせると、三集で約三千六百八十九点の文書が二百九十八巻十五冊に装幀され、その年代は延暦二十四年(八〇五年)から寛保三年(一七四三年)におよぶ。およそ九世紀にわたる連続した記録が、一つの山に残されているわけである。
続宝簡集はその三部作の中巻にあたる。収める文書は平安・鎌倉・南北朝・室町・桃山の各時代にまたがり、国の指定でも時代区分が「平安~桃山」と記される所以となっている。
国宝に指定された理由
この文書群の価値は、それが何であるかという一点に尽きる。後世の写しではなく、実際に政務をとり、祈り、戦い、田を耕した人びとが書いた原本の集積なのである。三つの宝簡集は、まず明治四十一年(一九〇八年)に国の指定を受けた。戦後の文化財保護制度のもとで、続宝簡集は昭和二十八年(一九五三年)十一月十四日、姉妹巻とともに国宝へと格上げされた。
歴史研究にとって、これらの巻子は第一級の史料である。事後に編まれた記録が不都合な細部をならしてしまうことがあるのに対し、当時の綸旨や、署名のある百姓の訴えは、書かれた瞬間の緊張をそのまま残している。皇室・公家・武家・農民という、出自を異にする文書がこれほど長い時間幅にわたって並んで残る場所はまれであり、高野山史のみならず中世日本史全体の研究にとって欠かせない史料となっている。
文書が映し出すもの
三集の内容は、中世社会の断面図のようである。寺院の古記録や儀礼文書があり、皇室関係では、上皇や天皇の意を奉じて発せられた綸旨・院宣、願文といった文書が含まれ、後白河天皇をはじめ歴代の天皇にかかわるものも見える。世俗の権力を示すものとしては、太政官符、御教書、下文、さらに後世の武家が発した朱印状などが収められている。
名だたる人物の筆跡も少なくない。鎌倉幕府を開いた源頼朝や、弟の源義経にかかわる書状、放浪の歌僧として知られる西行(法名・円位)に関連する文書なども収載される。義経自筆と伝わる一通は、現在の和歌山県にあった高野山領・阿弖河荘(あてがわのしょう)にかかわるものである。十二世紀末の動乱のなか、この荘園が横領される事件が起こり、都で代官を務めていた義経が高野山側の訴えを認めたときのものとされる。
この阿弖河荘からは、文書群のなかでもっとも有名な一通も生まれた。建治元年(一二七五年)、荘園の上村の百姓たちが、地頭の湯浅氏の非道を十三箇条にまとめ、領主に訴え出た言上状である。整った漢文ではなく、ぶっきらぼうな片仮名で書かれている。材木の納入が遅れると「ミミヲキリ ハナヲソギ」、女の髪を切り、縛って責め立てる、という一節は、いまも日本の教科書に載る。中世の文書のなかで、ここまで直接に庶民の声を伝えるものは数少ない。荘園領主であった高野山が保管しつづけたからこそ、現代まで残った。
巻子そのものも、近づいて眺める価値がある。表装には手近の上質な裂地が使われたため、裏打ちの布は巻ごとに異なる。なかでも優美な表装には、豊臣秀吉が高野山に詣でた際に演じられた能の衣装の裂地を用いたと伝えるものがあり、もし事実であれば、文書そのものにもう一層の歴史が織り込まれていることになる。
文書を見るために、そして高野山という場
続宝簡集を所有するのは金剛峯寺であり、その保存にあたるのが高野山文化財保存会である。常時公開されているわけではない。光に弱い紙の宝物の例にもれず、展示は入れ替え制であり、見ようとするなら向かう先は壇上伽藍にほど近い高野山霊宝館となる。霊宝館は国宝二十一件、重要文化財およそ百五十件を収蔵し、年間を通じて展示を入れ替えるため、文書に的をしぼって訪ねるなら、事前に現在の展示一覧を確認しておくのが確実である。一部は東京国立博物館などの特別展に出陳されることもある。
巻子が収蔵庫で休んでいるときでも、この山を訪ねる価値は変わらない。高野山は、空海が九世紀初頭に開いた真言密教の本山であり、集落全体が「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産に登録されている。老杉の参道が空海の御廟へとつづく奥之院、朱塗りの塔がそびえる壇上伽藍。これらは、続宝簡集が日々の営みを書きとめてきた当の宗教機関であり、文書を読み解く背景そのものでもある。
Q&A
- 続宝簡集は展示で見られますか。
- 常時ではありません。傷みやすい紙の文書のため、高野山霊宝館で入れ替え展示の形で公開され、選ばれた一部が他館の特別展に出ることもあります。訪問前に霊宝館の現在の展示一覧をご確認ください。
- 宝簡集・又続宝簡集とはどう違うのですか。
- 三つはいずれも同じ高野山文書を順に編纂した姉妹集です。最初に宝簡集、次に続宝簡集、最後にもっとも大部な又続宝簡集が仕立てられました。あわせて、おおよそ八〇五年から一七四三年までを覆う一連の文書群を成します。
- 有名な片仮名の百姓訴状とは何ですか。
- 建治元年(一二七五年)、阿弖河荘の百姓が地頭の苛政を訴えた、片仮名書きの言上状です。材木納入が遅れると耳を切り鼻をそがれるといった訴えは、中世の庶民の声をいきいきと残す史料として知られ、教科書にも掲載されています。
- なぜ高野山に文書が残されたのですか。
- 金剛峯寺とその子院は、有力な荘園領主であり宗教機関でもありました。荘園経営、朝廷からの厚遇、相論の裁定にともなう文書が数百年にわたり蓄積され、寺の宝庫に保管された後、江戸時代にこれらの文書集へと整理されました。
- 高野山霊宝館へはどう行けばよいですか。
- 南海線で極楽橋まで行き、ケーブルカーで高野山駅へ上がります。そこから南海りんかんバスに乗り、館の目の前の「霊宝館前」、または「千手院橋」で下車し徒歩約十分です。車の場合は無料駐車場があります。
基本情報
| 名称 | 続宝簡集(ぞくほうかんしゅう) |
|---|---|
| 種別 | 古文書 |
| 指定区分 | 国宝(指定番号 00053-02) |
| 指定年月日 | 昭和28年(1953年)11月14日/明治41年(1908年)に国指定 |
| 員数 | 77巻・6冊(約831通) |
| 時代 | 平安~桃山 |
| 所有者 | 宗教法人金剛峯寺 |
| 管理 | 高野山文化財保存会 |
| 見学 | 高野山霊宝館(和歌山県伊都郡高野町高野山306)/入れ替え展示 |
| 霊宝館開館時間 | 8:30~17:30(5~10月)、8:30~17:00(11~4月)/入館は閉館30分前まで |
| 霊宝館拝観料 | 一般1,300円/高校・大学生800円/小・中学生600円 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁):続宝簡集
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/828
- 文化遺産オンライン(NII):続宝簡集
- https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/150411
- 高野山霊宝館 収蔵品紹介(書跡・古文書)
- https://reihokan.or.jp/syuzohin/syoseki.html
- 高野山霊宝館 利用案内
- https://reihokan.or.jp/riyo/
- コトバンク:高野山文書/宝簡集/続宝簡集(百科事典項目)
- https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E9%87%8E%E5%B1%B1%E6%96%87%E6%9B%B8-1165379
最終更新日: 2026.06.13