正治二年、田畠を書き上げた一巻

正治二年(一二〇〇)の十月、周防国の役所に連なる手によって、一枚の紙に阿弥陀寺の田と畠が墨で書き上げられた。その紙が、八百年あまりを経て今に残っている。正式には「紙本墨書周防国阿弥陀寺田畠注文〈(正治二年十月日)〉」と呼ばれ、種別は古文書、員数は一巻。鎌倉時代初期の西国を知るうえで、欠かすことのできない行政文書のひとつである。

当時の言葉でいう「注文(ちゅうもん)」とは、品目を一つひとつ書き上げた目録を指す。この一巻に並ぶのは寺に属する田畠の所在と、官位はあっても具体の役職を帯びない人々の名であった。装飾を欠いた実務の筆跡であり、能書家の作ではない。その素っ気なさこそが、史料としての価値を支えている。

寺が田畠を数えた理由

阿弥陀寺に数えるべき田畠があったのは、ひとつの火災に始まる。治承四年(一一八〇)、源平の争乱のなかで奈良の東大寺は焼け落ち、大仏殿は灰燼に帰した。その復興は時代を象徴する大事業となり、勧進と用材調達の責を負ったのが、大勧進職を務めた俊乗房重源であった。

文治二年(一一八六)、朝廷は周防国一国を東大寺の造営料国に充て、その税と山林を再建の費用に当てることとした。翌年、重源は国府の東方、牟礼の地に阿弥陀寺を建立する。これは重源が各地に設けた七別所のひとつで、ここを拠点に巨木が伐り出され、周防国衙領の経営も行われた。長く阿弥陀寺の住持は周防国司の職を兼ね、寺は宗教と行政の双方の要に位置していた。

田畠の目録を備えることは、この寺にとって特別なことではなかった。土地は収入であり、収入は用材と人夫と、奈良の大仏を組み直す長い作業に直結していた。正治二年の一巻は、重源がなお存命であった時期に写し取られた、その経済的基盤の一断面である。

名簿に並ぶ人々

この注文を単なる帳簿から際立たせているのは、連記された人名である。冒頭の書き出しに続いて、「散位」と肩書を付された男たちが数十人にわたって書き連ねられている。散位とは、位階を持ちながら現任の官職に就いていない者の称で、彼らは在庁官人、すなわち遥任の国司に代わって国衙の実務を担った在地の官人たちであった。同時に、阿弥陀寺の有力な檀越でもあった。

名簿には中世周防を形づくった氏族が顔を出す。土師、中原、賀陽、菅野といった姓が連なり、その筆頭近くに多々良氏の名が記される。多々良氏は周防における在庁官人の名門であり、のちに西国屈指の武家へと成長し、近隣の山口を文化の都へと育てた大内氏は、この一族から出た。一二〇〇年の寺の土地台帳に多々良の名が見えるという事実は、その系譜のまだ目立たぬ一時期を、田畠を持つ近隣の一人として書きとめている。

重要文化財としての価値

この注文は昭和十一年(一九三六)五月六日、古文書として重要文化財に指定された。一巻からなり、所有は寺院や博物館ではなく個人であるため、通常は公開されていない。

その価値は美しさよりも、史料としての確かさにある。一二〇〇年前後の連続した国衙関係の記録は乏しく、具体の官人を挙げ、それを具体の田畠と結び、東大寺再建という国家的事業に結びつけた文書は、研究者に年代の定まった足がかりを与える。一国がいかにして国家的造営を支えたか、在地の権力が現地でどう編成されていたか、そして著名な武家が著名になる前にどのような姿であったか。周防の歴史にとっても、大内氏の前史にとっても、基礎となる一次史料である。

歴史にふれられる場所

巻物そのものは人目に触れないため、その物語をたどる場は阿弥陀寺となる。寺は今も防府の東郊、牟礼に残っている。現在では約八十種、四千株のあじさいが植えられた「あじさい寺」として親しまれ、六月には境内が色づく。花のほかにも、宝物館には国宝の鉄宝塔が収められている。これは建久八年(一一九七)に重源が鋳造させ、寺の草創の由来を刻ませた多宝塔で、ほかにも指定文化財が収蔵されている。宝物館の拝観は事前予約が必要となることが多い。

そこから程近く、周防国府の役所跡である周防国衙跡が広がる。昭和十二年(一九三七)、全国でも早い時期に国の史跡に指定された場所で、多々良山を背に、かつての街区の区割りを歩けば、注文に記された世界が屋外に開けてくる。近くの防府市文化財郷土資料館では、発掘の出土品とともに、この静かな平野が長く国の行政の中心であった歴史を解説している。

Q&A

Q注文の実物を見ることはできますか。
A原則として見られません。個人の所有で、常設の展示にはなっていません。記された歴史にふれるには、阿弥陀寺や周防国衙跡を訪ね、特別展などで公開がないか地元で確認するのがよいでしょう。
Q「正治二年」とはいつのことですか。
A西暦一二〇〇年、鎌倉時代の初めにあたります。注文はこの年の十月(旧暦)の日付を持ちます。
Q奈良の東大寺とどのような関係があるのですか。
A治承四年(一一八〇)に東大寺が焼失したのち、周防国はその再建を支える造営料国とされました。文治三年(一一八七)に重源が東大寺の別所として阿弥陀寺を建立し、周防の経営拠点としたため、寺が注文に記された国衙領を管理していました。
Q田畠の目録がなぜそれほど重要なのですか。
A実在の在地官人を名指しし、年代を定めて土地と結びつけているからです。国衙の行政、寺の経済、そして大内氏の祖となる多々良氏の初期の姿について、確かな手がかりを与えてくれます。
Q阿弥陀寺や国衙跡へはどう行けばよいですか。
Aいずれも防府市内にあり、JR山陽本線の防府駅が起点となります。阿弥陀寺へは路線バスやタクシーで牟礼方面へ向かいます。あじさいの咲く六月が、最もにぎわう時期です。

基本情報

名称紙本墨書周防国阿弥陀寺田畠注文〈(正治二年十月日)〉
ふりがなしほんぼくしょすおうのくにあみだじでんぱたちゅうもん
区分重要文化財(古文書)
時代・年代正治二年(一二〇〇)/鎌倉時代
員数・形状一巻、紙本墨書
指定年月日昭和十一年(一九三六)五月六日
所在地山口県
所有者個人(通常は非公開)
関連史跡東大寺別院 阿弥陀寺(防府市牟礼)、周防国衙跡(国史跡)

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/9609
東大寺別院 阿弥陀寺(公式サイト)
https://www.c-able.ne.jp/~amidaji/
たびたびほうふ「東大寺別院阿弥陀寺」
https://visit-hofu.jp/spot/東大寺別院阿弥陀寺/
たびたびほうふ「史跡 周防国衙跡」
https://visit-hofu.jp/spot/周防国衙跡/
大内氏受発給文書目録(山口市)
https://www.city.yamaguchi.lg.jp/uploaded/attachment/93498.pdf

最終更新日: 2026.06.14