東大寺再建を支えた一巻の証文

建久6年(1195)9月、周防国衙の役人と東大寺から下向した立券使が立ち会い、現在の山口市にあたる宮野の地で、どの田とどの畠が東大寺の領地に属するのかを一筆ずつ書き留めた。その記録が、いま重要文化財として残る「紙本墨書東大寺領周防国宮野庄田畠等立券文」である。一巻の巻物で種別は古文書。年紀は建久6年9月日とあり、巻末には荘園の境界を画定した経緯が記される。

この文書がほかの土地台帳と決定的に異なるのは、東大寺再建の総責任者であった俊乗房重源の手による花押と印が据えられている点にある。文書の右端、すなわち高位の者が裁可を示す「袖」の位置には重源の袖判があり、料紙の継ぎ目の裏には改竄を防ぐための裏判が捺されている。いずれも重源自身が記したものとされ、紙の上で再建事業の現場と直接つながる数少ない史料となっている。

一通の土地証文が文化財となった理由

土地の記録がこれほど重んじられる背景を知るには、文書が書かれる15年前にさかのぼる必要がある。治承4年(1180)、平重衡の南都焼討によって東大寺の伽藍は大半を焼失し、奈良時代に鋳造された盧舎那仏も大部分が熔け落ちた。翌養和元年(1181)、すでに60歳を超えていた重源が大勧進職に任じられ、再建に要する資財・用材・人夫の調達を一手に担うこととなった。

寄進と祈りだけでは、東大寺ほどの規模の大仏殿は建たない。用材が要る。文治2年(1186)、現在の山口県南部にあたる周防国一国が東大寺の造営料国にあてられ、その租税と山林が再建のために供された。一国の国務を寺院がにぎる例はこれが最初で、重源は事実上の国司として周防を経営した。みずから佐波川をさかのぼって徳地の山に入り、巨木の伐採と搬出を指揮している。9年に及ぶ苦難ののち、建久6年(1195)に大仏殿は再建供養を迎えた。この文書が記された年でもある。

宮野荘そのものの来歴も変わっている。吉敷郡に位置するこの荘園は、損傷した大仏の頭部と片手の鋳直しに尽力した宋人工匠・陳和卿に与えられた地であった。陳和卿はこれを自領とせず東大寺に寄進する。建久6年、宮野荘は朝廷から正式に寺領と認められ、国衙と東大寺の役人すなわち立券使が現地で四至を定めた。本書はその証文である。昭和11年(1936)に旧制度の国宝に指定され、昭和25年(1950)の文化財保護法施行にともない重要文化財へと改められた。

文書が記すもの、記さないもの

花押と印から目を移すと、この巻物は12世紀の日本のありふれた一隅へと視界を開いてくれる。宮野荘は大内村と総称され、のちに西国を長く治める大内氏の名の由来となった一帯にあたる。同じころに作られた宮野荘の立券関係の記録によれば、百町を優に超える田畠が登録されながら、これを耕す在家はわずか三十余宇にとどまり、近くには持ち主のない荒野が広がっていたという。地上で最大級の木造建築を支えた地は、文面の上ではむしろ静かな農村だった。

歴史家にとっての価値は、この具体性にある。東大寺再建がどのように資金面で支えられたのかを知る手がかりの多くは、こうした土地の文書に拠っている。境界の記録は目印を挙げ、区画を測り、抽象的な財政の枠組みを実際の土地に結びつける。重源自身の花押と印が真正を保証しているため、本書は再建事業に明確な年代と筆者を与える役割もはたす。この証文を裁可した筆は、東大寺の修二会で今なお異例の長さで名を読み上げられる、その人物のものである。

本書は個人の所有で、常時公開はされていない。それでも、この一巻が属する大きな歴史をたどることは、山口を旅する楽しみの一つとなる。奈良の大寺が中世に及ぼした力が、いまも周防の土地に書き込まれているからである。

山口と奈良で物語の現場をたどる

たどり始めるのにふさわしいのは、防府市にある周防国府跡である。多くの国府が中世初頭に衰えるなか、周防は近世まで東大寺の管轄下に置かれたため、国衙の地割りがよく残り、昭和12年(1937)に国の史跡に指定された。ここを歩けば、重源が引き受けた職務の輪郭がつかめる。

そこからほど近い牟礼山のふもとには、重源が周防別所として建立した阿弥陀寺が建つ。重源上人坐像(重要文化財)を安置する寺で、梅雨どきには境内が紫陽花で埋まり、初夏が最もにぎわう。土地の記録ではなく用材の道をたどるなら、徳地へ足をのばすとよい。重源にちなんだ体験交流公園「重源の郷」があり、伐採とともに育った山村の暮らしが再現され、紙漉きや木工を手で試すことができる。

これらの労苦が向かった先は奈良にある。重源のもとで大胆な渡来様式によって再建された東大寺南大門、そして写実的な坐像で名高い重源上人坐像(国宝)を安置する俊乗堂に立てば、宮野のような静かな荘園から始まった一連のいとなみの終点に身を置くことができる。

Q&A

Q実物の巻物はどこかで見られますか。
Aいいえ。本書は個人の所有で、常設の展示はされていません。関連する歴史は、防府市や山口市の関連史跡、奈良の東大寺をたどることでつかめます。
Q立券文とは、わかりやすく言うと何ですか。
A荘園を正式に成立させる際に作られた公的な証文です。国衙と寺院の役人が現地で四至(境界)を確認し、含まれる田畠を記録して、土地に対する正当な権利を定めました。
Q重源とはどのような人物で、その印にはどんな意味がありますか。
A俊乗房重源は、治承4年(1180)に焼失した東大寺の再建を主導した僧です。周防国一国を預かる立場にあり、その袖判と裏判は文書の真正を保証し、再建事業と直接結びつけています。
Qなぜ宋の工匠が荘園を所有していたのですか。
A宋から渡来した工匠・陳和卿が、損傷した大仏の鋳直しに尽力した功により宮野荘を与えられました。陳和卿はこれを東大寺へ寄進し、建久6年(1195)に宮野荘は寺領となりました。
Q宮野荘は正確にはどこにありましたか。
A旧周防国吉敷郡、現在の山口市にあたる一帯です。宮野荘は大内村とも総称され、のちの大内氏に結びつく地域でもありました。

基本情報

名称紙本墨書東大寺領周防国宮野庄田畠等立券文(建久六年九月日)
種別古文書
員数1巻
年代建久6年(1195)9月/鎌倉時代
特徴俊乗房重源の袖判・裏判がある
指定区分重要文化財(昭和11年〔1936〕5月6日に旧国宝指定、昭和25年〔1950〕8月29日に重要文化財へ改称)
所在地山口県
所有者個人
公開状況常設の公開なし

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/9608
山口県の文化財(山口県文化財データベース)
https://bunkazai.pref.yamaguchi.lg.jp/bunkazai/detail.asp?mid=40038
東大寺「鎌倉再建」
https://www.todaiji.or.jp/history/kamakuraki/
防府市「周防国府跡」
https://www.city.hofu.yamaguchi.jp/site/matsuzaki-kom/matukom-kokuhu.html

最終更新日: 2026.06.14