津和野城跡:朝霧に浮かぶ天空の山城と段状に連なる高石垣

秋の朝、津和野盆地は深い霧に沈むことが多い。家並みの瓦屋根がかろうじて見える程度の白の中、西の稜線にだけぬっと姿を現すのが霊亀山であり、その山頂近くに段々と積まれた石の塊である。雲海の上に石垣だけが浮かぶこの光景から、地元ではこの城跡を「天空の城」と呼びならわしてきた。

築かれてから七百年余り、山上の建物はすべて失われたが、標高約362メートルの稜線上には壮大な石垣群が階段状に残されている。昭和17年(1942)10月14日に国の史跡に指定され、昭和47年(1972)と平成19年(2007)にそれぞれ追加指定が行われた。

三氏が継いだ山頂の城

築城は永仁3年(1295)にさかのぼる。二度目の元寇の余波が冷めやらぬ時期、西石見の沿岸防備を任じられた吉見頼行は、鷲原八幡宮の裏手に立つ霊亀山を本拠と定めて縄張りを始めた。完成したのは、子の頼直の代である正中元年(1324)。以後、吉見氏は14代にわたってこの山城を本城とした。当時の城は石垣を持たず、土塁と空堀、そして木造の門で構成された中世山城であった。

中世の津和野城が最大の試練を迎えたのは、天文23年(1554)のことである。当時の城主・吉見正頼が南の陶氏に対して挙兵し、陶晴賢が大軍を差し向けた。城方は100日を超える籠城戦を耐え抜き、最後は和議に持ち込んだ。「三本松城の戦い」として伝わるこの一戦は、戦国期の防衛戦の中でも長期にわたった例として知られる。

城が中世山城から近世城郭へと姿を変えたのは、関ヶ原の合戦のあとである。慶長6年(1601)、3万石の大名として入封した坂崎直盛は、それまで西側にあった大手を東側に変え、山頂部一帯を削平して総石垣の城へと大規模に造り替えた。本丸の北方には別郭となる出丸(織部丸)を築き、本城との間に大手道を通すという独特の縄張りを完成させている。だが直盛の治世は短かった。元和2年(1616)、千姫事件に連座して自刃。坂崎家は改易となった。

翌元和3年(1617)、因幡国鹿野から4万3千石で入城したのが亀井政矩である。以後、亀井氏は11代にわたって津和野を治め、明治の廃藩置県まで在城した。ただし、城のシンボルであった三重天守は、貞享3年(1686)の落雷で焼失して以降、ついに再建されることはなかった。明治7年から8年(1874–75)にかけて建物の大半が解体され、城は石垣のみを残す姿となった。

なぜ史跡に指定されたのか

日本各地に山城の跡は多く、石垣を残すものも少なくない。津和野城跡がとりわけ重視されるのは、主に三つの理由による。

第一に、規模である。中世吉見氏の縄張りと近世坂崎・亀井期の石垣群が、稜線に沿って南北約2キロにわたって連なっている。中世の遺構が近世の城に上書きされず、両者が並存して残っている例は珍しい。歩いていくと、土塁の城から石垣の城へと、時代をまたいで移っていく感覚がある。

第二に、石垣そのものの質である。本丸の東面は壮大な高石垣が階段状に積み上げられ、まるで石造りの集落が斜面に貼り付いているかのように見える。南門跡・西門跡、東門跡から三段櫓跡、腰曲輪跡へと続く石垣は、この高さの山上にすべて人力で築かれたとは思えないほど良好な状態を保っている。

第三に、一城別郭という縄張りの独自性である。本城と織部丸という二つの曲輪群が独立して機能し、その間に大手道を通す構造は、極めて実戦的な設計といえる。近世城郭でこの形を石垣のまま残す例は限られており、城郭史の上でも貴重な遺構として位置づけられている。

登城の見どころ

麓から山頂までは観光リフトを利用すれば徒歩での登りを20分ほど短縮できる。リフトの終点からは尾根伝いの山道を15分ほど歩いて出丸(織部丸)に至り、さらに大手道を進むと本城へと出る。道は舗装されておらず、雨上がりにはぬかるむ。400年以上前に積まれた石畳の斜面を踏むこともあるため、歩きやすい靴が欠かせない。

足を止めるべきは、本丸最上段の三十間台である。眼下には津和野の町が広がり、石州瓦の鈍い灰色の屋根、津和野川の銀色の流れ、その向こうに標高907メートルの青野山が円錐形にそびえる。秋から冬の朝、盆地が霧に沈んだ日には青野山の頂と津和野城の石垣だけが雲海の上に残り、写真家たちが夜明け前から山頂を目指す光景となる。

本丸の足下には天守台が残されている。貞享3年の落雷で焼け落ちて以後、三重天守がここに建つことはなかったが、台座の規模を見れば、かつての建物のおおよその大きさは見当がつく。さらに東門跡から下る石垣は、城内で最も劇的な眺めのひとつで、東斜面に向かって石が階段状に下りていく姿は、山城ならではの迫力がある。

城下の見どころとアクセス

リフト乗り場までは、日本五大稲荷の一つに数えられる太皷谷稲成神社から徒歩でおよそ10分。千本以上の朱塗りの鳥居が斜面を埋める参道を抜けて、そのまま登城する人も多い。

麓に下りれば、白壁が連なる殿町通りが続く。津和野藩医の家に生まれた森鷗外の旧宅は記念館として公開され、啓蒙思想家・西周の旧宅も保存されている。両者が学んだ藩校・養老館の跡も同じ通り沿いに残されている。

毎年7月20日と27日に行われる弥栄神社の鷺舞神事は、16世紀に京都祇園から伝わった神事として、国の重要無形民俗文化財に指定されている。城下を白い装束の舞い手が巡る独特の所作は、津和野を訪れるならぜひ時期を合わせたい行事である。

Q&A

Q山頂までどうやって行きますか。徒歩しかありませんか。
A山の東麓から観光リフトが運行しています。リフトを降りてからさらに徒歩で15分ほどの山道を登ると本丸跡に到着します。リフトの営業時間は9時から16時20分まで。ただし12月から2月末までの平日は運休しますのでご注意ください。徒歩の場合は、リフト乗り場側からの大手道ルート、または南の鷲原八幡宮側からのルートが一般的です。
Q「天空の城」の景色はいつ見られますか。
A朝霧は概ね10月下旬から1月にかけて、晴れて冷え込んだ無風の朝に発生します。雲海の上に石垣が浮かぶ光景を狙うなら、リフト運行開始前に徒歩で登っておく必要があります。地元の写真家は、対岸の青野山から城跡側を望む構図もよく勧めます。
Q天守は残っていますか。
A建物は一切残っていません。三重天守と周辺の櫓は貞享3年(1686)の落雷で焼失し、その後再建されないまま終わりました。残る建物も明治7年から8年にかけて解体されています。現在見られるのは石垣と曲輪、そして天守台の石組みのみです。
Q見学にはどれくらい時間がかかりますか。
Aリフト乗り場を起点に、出丸と本城の両方をゆっくり歩くなら最低2時間。撮影や三十間台での休憩を含めると3時間ほどみておくと余裕があります。徒歩で登る場合は、さらに1〜2時間の行程となります。
Q山上にトイレや売店はありますか。
A城跡の尾根上にはトイレ・売店・休憩所のいずれもありません。一番近い設備はリフト乗り場周辺にあります。お子様連れや夏季の訪問では事前に準備をしてから登城してください。

基本情報

名称津和野城跡(つわのじょうあと)
別名三本松城・一本松城・蕗城・橐吾城
所在地島根県鹿足郡津和野町
種別山城/国指定史跡
指定年月日昭和17年(1942)10月14日/追加指定 昭和47年(1972)5月26日、平成19年(2007)7月26日
築城永仁3年(1295)着工、正中元年(1324)完成と伝わる
標高霊亀山山上・約362メートル(山麓からの比高約200メートル)
規模南北約2キロにおよぶ縄張り
アクセスJR津和野駅から観光リフト乗り場まで徒歩約30分、またはタクシーで約5分。津和野城跡観光リフト 9:00〜16:20、往復700円(大人)。12月1日〜2月末日の平日は運休。
選定日本100名城(66番、2006年・公益財団法人日本城郭協会)

参考資料

国指定文化財等データベース(文化庁)「津和野城跡」
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/2206
津和野文化ポータル(津和野町教育委員会)「津和野城跡」
https://tsuwano-bunka.net/cultural-property/detail_tsuwano-jo/
津和野町公式サイト「津和野城跡」
https://www.town.tsuwano.lg.jp/www/contents/1643009534074/index.html
島根県教育委員会「津和野城跡」
https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/shiseki/shisekidesu/shiseki19.html
日本遺産ポータルサイト「津和野今昔」(ストーリー#013)
https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story013/

最終更新日: 2026.05.17