氷河期を生き抜いた一群のカエデ
茶臼山の麓、愛知県北東部の山村・豊根村に、年に二度赤く染まる小さなカエデの林がある。冬の終わりの一、二週間、葉が開くより先に、裸の枝が無数の紅い花で覆われる。秋の終わりには、同じ木が今度は紅葉で深く色づく。これがハナノキで、川宇連の群落は愛知県内で唯一の自生地である。
林は川宇連神社の境内にある。緩やかな斜面を冷たい湧水が浸し、地面はみずごけなどの蘚苔類に覆われている。雑木と入りまじって十数本の成木が育ち、最大のものは胸高の幹周りが約3.5メートル、樹高は約25メートルに達する。胸高囲2メートルを超える木も数本ある。大正11年(1922年)10月12日、国の天然記念物に指定された。
三種だけが残った系統
ハナノキ(Acer pycnanthum)は日本だけに分布する固有種である。カエデ属のなかでもハナノキ節という小さな系統に属し、この仲間は第三紀の温暖な時代に北半球の高緯度地帯まで広く分布していた。度重なる氷河期を経て生き残ったのは三種だけである。北米東部のアメリカハナノキ(レッドメープル)とギンヨウカエデ(シルバーメープル)、そして日本のハナノキ。北米の二種が大陸に広く見られる普通種であるのに対し、ハナノキはごく限られた土地に遺存的に残った。
日本での分布も狭い。多くは岐阜・長野県境の恵那山を中心とした半径約50キロの範囲に集中し、愛知県北東部まで点在する。植物学では東海丘陵要素と呼ばれる、この地方の湧水湿地に限って残る植物群の一つに数えられる。本自生地が指定された理由は二つある。著しい植物分布の限界地であること、そして珍奇または絶滅に瀕した植物の自生地であること。環境省のレッドリストでは絶滅危惧II類とされ、生育地の湿地は開発や乾燥化によって縮小している。
二度の紅
開花の時期は短く、見逃しやすい。冬の終わりの一、二週間、周囲の森がまだ緑を持たないうちに、ハナノキの梢だけが遠目にも紅く染まる。雌雄異株で、雄花と雌花は別々の木につく。どちらも小さな紅色の花で、雄花は短い柄の先に上を向いてつき、雌花は長く垂れた柄の先につく。カエデとしては珍しく、種子は秋ではなく五月の末に熟して散る。
秋の紅葉は開花よりも知られている。十月の下旬から葉は黄を経て燃えるような深紅へ変わり、地元では春の花よりも美しいともいわれる。境内をゆっくり歩いて見上げれば、三月に裸の枝で咲いていた木が、秋には葉をまとって赤く立っている。
林には一つの言い伝えがある。この神社はかつて尹良親王を祀っていた。後醍醐天皇の孫にあたり、南北朝の争乱のころにこの山中へ身を寄せたと伝えられる人物である。食事のあとに親王が挿した箸が根づき、最初のハナノキになったという話が地元に残る。尹良親王は正式な皇統譜には見えず伝説上の存在とされるが、その像が今も木のかたわらに立っている。
自生地の周辺
自生地は茶臼山の麓にある。茶臼山は標高1,415メートル、愛知県の最高峰で、長野県との境に位置する。山上の茶臼山高原では、初夏に芝桜の丘が一面に咲き、冬にはスキー場が開く。豊根村は人口の少ない山村で、清らかな谷川と深い森に囲まれている。
公共交通の便は少なく、長野県境に近いこの山間を訪れるには自動車が現実的である。入場門はなく、木は神社の開かれた敷地に育っているので、いつでも見ることができる。見ごたえがあるのは、春の短い開花期と、長く続く秋の紅葉期である。
Q&A
- 見頃はいつですか。
- 二つの時期があります。葉が出る前の三月下旬から四月上旬に紅い花が咲き、十月下旬から十一月中旬に紅葉します。一般には紅葉のほうが見ごたえがあるとされます。
- 場所はどこですか。
- 豊根村の川宇連神社の境内で、茶臼山の麓にあります。入場門はなく、神社の開かれた敷地に木が育っています。
- アクセスはどうすればよいですか。
- 自動車での来訪が現実的です。長野県境に近い愛知県北東部の山間にあり、公共交通の便は限られています。
- ほかのカエデと何が違うのですか。
- 日本の固有種で雌雄異株、葉より先に花を咲かせ、種子を初夏に落とします。世界に三種だけ残るハナノキ節の一つでもあります。
- ほかでもハナノキを見られますか。
- 岐阜・長野・滋賀などに保護された自生地があり、愛知県の県木として公園や庭にも広く植えられています。ただし愛知県内の自生地はここだけです。
基本データ
| 名称 | 川宇連ハナノキ自生地(かわうれはなのきじせいち) |
|---|---|
| 所在地 | 愛知県北設楽郡豊根村 川宇連神社境内(茶臼山の麓) |
| 指定区分 | 国指定天然記念物 |
| 指定年月日 | 大正11年(1922年)10月12日 |
| 指定基準 | 著しい植物分布の限界地/珍奇又は絶滅に瀕した植物の自生地 |
| 対象種 | ハナノキ(Acer pycnanthum、カエデ属) |
| 規模 | 成木十数本。最大は胸高囲約3.5メートル・樹高約25メートル |
| 管理団体 | 豊根村 |
| 見学 | 神社境内で常時見学可。見頃は春の開花期と秋の紅葉期 |
References
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/1406
- 愛知県 文化財ナビ
- https://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/kinenbutu/tennen/kunisitei/0935.html
- 豊根村公式サイト(ハナノキ自生地)
- https://www.vill.toyone.aichi.jp/soshiki/kyoiku/31.html
- 森林総合研究所 ハナノキの保全
- https://www.ffpri.go.jp/labs/raretree/12_APindex.html
- キラッと奥三河観光ナビ(尹良親王・川宇連神社)
- https://www.okuminavi.jp/search/detail.php?id=128
最終更新日: 2026.06.14