「来孫太郎」と銘した唯一の太刀
正応5年(1292年)8月13日。茎(なかご)に刻まれたこの日付とともに、「来孫太郎作」の四文字と花押を残す太刀が、名古屋市の徳川美術館に伝わっています。来孫太郎という銘を切った刀剣は、現存する作例の中で本作ただ一口。鎌倉時代の名工来国俊の俗称と伝えられるものの、なぜこの一振だけにこの名が刻まれたのかは、今も判然としません。
指定名称は「太刀〈銘来孫太郎作/(花押)正応五□辰八月十三日以下不明〉」。「□」は判読できない一文字を示し、年紀の後に続く文字も摩滅して読めません。判読不能の箇所を含めて、ありのままに登録された名称です。「□辰」の部分は、1292年の干支にあたる「壬辰(みずのえたつ)」と読むのが一般的です。
昭和28年(1953年)11月14日に重要文化財、翌昭和29年(1954年)3月20日に国宝へ指定されました。重文指定からわずか4か月での昇格は、この銘の資料的価値がいかに高く評価されたかを示しています。
来国俊の俗称をめぐる謎
来派は鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて山城国(現在の京都府)で栄えた刀工の一派で、来国俊はその中心に位置する名工です。江戸時代以前に編まれた刀剣伝書『諸国鍛冶寄』には「国俊 京 来孫太郎 伏見院御宇」とあり、これが孫太郎を国俊の俗称とする伝承の典拠とされています。
文化庁の解説も、地鉄や刃の出来から見て来国俊の作と推定されると述べています。徳川美術館も作者を国俊として収蔵品目録に掲げています。同館にはもう一口、「正和二二年」(正和4年、1315年)の年紀と「歳七十五」の添銘を持つ重要文化財の来国俊銘太刀が伝わっており、両者を同一人とみなせば、本作は国俊52歳前後の作と計算できます。ただしこれは銘文からの推算であり、確定した事実ではありません。
一方で、現存する国俊の作には二字銘「国俊」と三字銘「来国俊」の二系統があり、その異同をめぐる議論が古くから続いています。来孫太郎銘はそのいずれとも異なる第三の署名形式であり、年紀と花押を伴う本作は、来派研究の基準資料として他に代えがたい位置を占めています。
国宝指定の理由
文化庁の指定説明は簡潔です。来孫太郎と銘した作例が他にないこと。そして正応5年の年紀と、同じ工人のものと思われる花押を備えること。この二点が貴重とされました。
日本刀の研究は年紀のある作品を基準に組み立てられます。無銘や生ぶ茎を失った刀の時代や流派を判定する際、製作年の確かな基準作との比較が決め手になるためです。鎌倉時代後期、来派の最盛期にあたる1292年という確実な製作年を持つ本作は、来派全体の編年を支える定点の一つとなっています。
保存状態も特筆されます。文化遺産オンラインの解説は「健全さにおいても完璧に近く、初代の優品といえよう」と評しています。鎌倉時代の太刀は後世に磨上げ(すりあげ)られて茎を切り詰められ、銘を失った例が少なくありません。本作の茎は生ぶで、先端をわずかに切る程度にとどまり、銘と年紀がそのまま残りました。
見どころ 姿と地刃を読む
身長77.3センチ、反り3.0センチ。腰元で深く反る華表反り(鳥居反り)の優美な太刀姿に、元幅3.1センチから先幅1.9センチへと強く絞り込む踏張りが加わり、鎌倉時代らしい力強さと気品が同居します。鋒は2.9センチと小ぶりで、古調な印象を強めています。
展示ケースの前では、まず姿全体を眺めてから、照明の反射を頼りに地鉄へ目を近づけてみてください。鍛えは小板目肌がよく約み、地沸がつき、刃文の上方にうっすらと映りが立ちます。刃文は一様ではありません。下半は小乱れがわずかに逆がかり、上半は湾れごころを帯びた中直刃へと表情を変えます。帽子は直ぐに小丸へ返ります。
彫物にも注目を。表には棒樋に添樋を掻き流し、腰元に小さな素剣、その上に梵字とみられる鏨痕が残ります。裏は棒樋に連樋を掻き流し、腰樋を添えています。樋は重量の軽減と装飾を兼ね、素剣や梵字は仏の加護を刀身に宿す意匠です。700年あまり前の信仰のかたちが、鋼の上に刻まれています。
刀剣鑑賞は照明の角度がすべてです。視線を少しずつずらしながら眺めると、映りや沸の粒が浮かんでは消え、平面的に見えていた刀身が立体的な景色に変わります。
家康から尾張徳川家へ
本作は徳川家康の所持刀として尾張徳川家に伝来しました。元和2年(1616年)に家康が駿府で没すると、遺産は子息や家臣に形見分けされ、「駿府御分物(すんぷおわけもの)」と呼ばれます。尾張家には特に多くの遺品が渡りました。
ただし伝来の記録には注意すべき点があります。駿府御分物の目録である『駿府御分物御道具帳』に来孫太郎の名は見当たりません。名が現れるのは慶安4年(1651年)の尾張家「御腰物御脇指帳」太刀の部で、「来孫太郎 代金拾枚ノ由御拵有 御分物之内」と記されています。御分物の内であったとする最古の確実な記録はこの帳簿であり、家康所持の伝えはここに根拠を持ちます。
尾張徳川家の什宝は明治以降も散逸を免れ、昭和10年(1935年)、19代当主徳川義親の手で徳川美術館が開館しました。同館は国宝「源氏物語絵巻」をはじめ国宝9件を収蔵し、刀剣コレクションは質量ともに国内有数です。本作は常設ではなく、企画展や名品コレクション展示で公開されます。近年では2019年「徳川将軍ゆかりの名刀」、2021年「名刀紀行」、2023年の名品コレクション、2025年「時をかける名刀」などに出品されました。観覧を目的に訪れる場合は、公式サイトの展示予定を事前に確認してください。
周辺情報
徳川美術館は名古屋市東区徳川町、尾張家二代光友の隠居所「大曽根御屋敷」跡に建ちます。JR中央本線・地下鉄の大曽根駅から徒歩約10分、名古屋駅からは市バスで「徳川園新出来」下車が便利です。開館は通常10時から17時、月曜休館(祝日の場合は翌日)が基本ですが、展示替えなどの臨時休館もあるため公式サイトでの確認をおすすめします。
隣接する池泉回遊式庭園「徳川園」は、牡丹と紅葉の名所として知られ、美術館と合わせて半日楽しめます。同じ敷地には尾張家の旧蔵書を収める名古屋市蓬左文庫があり、家康の駿河御譲本も伝わっています。園内には日本料理店「宝善亭」やカフェも営業しています。
足を延ばすなら、金鯱で知られる名古屋城へは大曽根から地下鉄で約15分。草薙神剣を祀り、数多くの奉納刀剣を収める熱田神宮へは地下鉄で約30分です。
Q&A
- いつでも見られますか。
- 常設展示ではありません。徳川美術館は収蔵品を展示替えしながら公開しており、本作は企画展や名品コレクション展示の際に出品されます。観覧を目的とする場合は、公式サイトの展覧会情報で出品予定を確認してください。
- 来孫太郎と来国俊は同一人物なのですか。
- 刀剣伝書『諸国鍛冶寄』の記載と作風から、来国俊の俗称とするのが通説で、徳川美術館も作者を国俊としています。ただし来孫太郎銘の作例は本作以外に知られておらず、伝承の域を出ない部分も残ります。
- 銘の「以下不明」とはどういう意味ですか。
- 裏銘の年紀のうち一文字が判読できず、日付より後に続く文字も摩滅して読めないため、指定名称にそのまま「以下不明」と記されています。判読できない部分を推測で補わず、現状のとおり登録した結果です。
- 館内で写真撮影はできますか。
- 展示室や展覧会によって撮影の可否が異なり、撮影禁止の展示も多くあります。各展示室の案内表示に従うか、当日係員に確認してください。
- アクセス方法を教えてください。
- JR中央本線・地下鉄名城線の大曽根駅から徒歩約10分です。名古屋駅からは市バス基幹2系統で「徳川園新出来」下車徒歩3分、タクシーなら約15分が目安です。
基本情報
| 名称 | 太刀〈銘来孫太郎作/(花押)正応五□辰八月十三日以下不明〉 |
|---|---|
| 指定区分 | 国宝(工芸品) 昭和29年(1954年)3月20日指定(重要文化財指定は昭和28年11月14日) |
| 時代・年代 | 鎌倉時代 正応5年(1292年) |
| 作者 | 来孫太郎(来国俊の俗称と伝わる) |
| 員数 | 1口 |
| 寸法 | 身長77.3cm 反り3.0cm 元幅3.1cm 先幅1.9cm 鋒長2.9cm 茎長20.9cm |
| 所有者 | 公益財団法人徳川黎明会 |
| 所在地 | 徳川美術館(愛知県名古屋市東区徳川町1017) |
| 公開状況 | 企画展・名品コレクション展示の際に公開(展示替えあり) |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/436
- 文化遺産オンライン 太刀 銘 来孫太郎作(花押) 正応五年壬辰八月十三日
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/96829
- 徳川美術館 収蔵品検索 太刀 銘 来孫太郎作
- https://www.tokugawa-art-museum.jp/collections/
- WANDER国宝 太刀 銘 来孫太郎作[徳川美術館/愛知]
- https://wanderkokuho.com/201-00436/
最終更新日: 2026.06.11