小滝のチョウクライロ舞 ― 鳥海山麓に伝わる延年の舞

五月最終の土曜日、鳥海山の秋田側登山口にあたる小滝の集落で、一つの土の盛り上がりが舞台に変わる。約二間(およそ三・六メートル)四方、高さ二尺(約六〇センチメートル)。村の人びとはこれをチョウクライロ山、あるいは閻浮台と呼ぶ。一見すると舞台らしさはどこにもない。それでも小滝では、村の名を冠した舞はこの場所でしか舞えないものとして守られてきた。

その舞が小滝のチョウクライロ舞である。平成十六年(二〇〇四年)二月六日に国の重要無形民俗文化財に指定された。寺院の大法会のあとに長寿を祈って演じられた芸能、すなわち延年の系譜に連なる。「チョウクライロ」は、長く久しく生きる姿を指す言葉と地元では解されており、舞そのものが延年を言祝ぐ祈りとして奉納される。

この舞にはタエシトン、八講祭舞楽という古い別称もある。かつてこの芸能が村ではなく山の修験者のものであった頃の名残である。

蔵王堂から村の神社へ

小滝は日本海に注ぐ奈曽川の上流、鳥海山の頂へと続く街道沿いに形成された集落である。鳥海山の秋田側の登山口にあたり、近世にはこの山で修行を重ねた鳥海修験の拠点の一つであった。

舞が奉納される金峰神社は、はじめから神社だったわけではない。明治初頭の神仏分離以前は、山岳信仰の神である蔵王権現を祀る蔵王堂であった。龍山寺という寺がその別当を務め、祭事は龍山寺の院主が所掌していた。小滝とその周辺には龍山寺配下の修験の坊が点在し、チョウクライロ舞の担い手は、長らくその修験に連なる関係者に限られていたとされる。

言い伝えによれば、舞の起こりは神社の記録よりもはるかに古い。地元に残る縁起は、かつて鳥海山の周辺に手長足長という悪鬼が住み、人びとを苦しめたと語る。文徳天皇がこれを退治するよう慈覚大師に命じ、悪鬼が鎮められたのち、神恩に感謝する八講祭という法会が営まれた。このとき舞われたものがチョウクライロ舞になったと伝わる。縁起はその時期を九世紀のこととするが、史実として確かめられるものではない。それでも、舞と八講祭の名が常にひとそろいで語られてきた理由は、この物語によく表れている。

祭礼そのものは、かつて旧暦三月十七日に行われ、明治三十年ころまでその日付を保っていた。その後、数度の変更を経て、現在は五月最終土曜日に落ち着いている。修験の組織が衰えたのちは金峰神社の氏子有志が、そして昭和三十九年(一九六四年)以降は、小滝に暮らす人びとで構成される鳥海山小滝舞楽保存会が、この舞を受け継いでいる。

なぜ守られているのか

延年は、かつて中世日本の大寺院で広く行われた芸能で、重要な法会のあとに僧侶や寺に仕える者たちによって演じられた。本来の姿をとどめる例はきわめて少なく、とりわけ東北では記録に残る事例が乏しい。チョウクライロ舞が貴重とされるのは、この古い寺院芸能の構成を今に伝えているからである。性格の異なる演目が順に続き、笏拍子の拍子に合わせて唱詞が囃され、感謝の法会との結びつきが明確に残されている。

研究者にとって、この舞は延年が実際にどのように演じられ、寺の手を離れて農村に受け継がれたあとどう生き延びたのかを知る、数少ない手がかりとなる。昭和四十一年(一九六六年)に秋田県の文化財に指定され、昭和五十六年(一九八一年)には国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択された。そして平成十六年の重要無形民俗文化財指定によって、国を代表する民俗芸能の一つとしての位置づけが定まった。

祭礼当日の流れ

準備は五月中旬に始まる。村で稽古が始まり、祭礼の前日には、土舞台そのものを使って最後の稽古が行われる。稽古が終わると舞台の四隅に竹と幡を立て、四方に注連縄を張りめぐらし、東側には幕を張って楽屋を設ける。

当日の朝、舞人は当番宿で衣裳を着け、化粧をする。十二段の舞と呼ばれる獅子舞が一日の幕を開ける。やがて行列が組まれ、当番宿から金峰神社へと練り歩く。社頭で神輿、陵王と納曽利の面などを行列に加え、さらに境内の舞台まで進む。一行は舞台の周りを三周し、西側に舞台へ向けて神輿を据え、舞台上であらためて十二段の舞を奉納する。御宝頭と呼ばれる獅子頭、陵王と納曽利の面を舞台に置くと、いよいよチョウクライロ舞が始まる。

伴奏には太鼓、笛、ジャガと呼ばれる手びら鉦、そして笏拍子が付く。笏拍子を手にした者が唱詞を囃す。楽人は舞台上で演奏し、舞人は東側の楽屋に控えて、出番ごとに舞台へ登る。演目は七番、順を追って続いていく。

九舎の舞はタエシトンとも呼ばれ、舞の口火を切る。狩衣をまとった青年二人が、宮廷の舞楽から受け継がれた陵王と納曽利の面を着け、はじめに烏帽子を手にした烏帽子舞を、続いて袖をとる袖舞、扇を手にする扇舞へと舞いつなぐ。

荒金の舞では、青年一人が薙刀を手にする。四方に張りめぐらされた注連縄を一つずつ切り放ったうえで舞い始める。

小児の舞はこの一巡の中心であり、「チョウクライロ」という別称はこの演目に由来する。六人の男児が花笠をかぶり、三人は腰に鞨鼓を付け、残る三人は手にびんざさらを持つ。はじめは二人舞、やがて六人舞へと広がっていく。

続く太平楽の舞は、花笠を置いた男児のうち四人がそのまま務める。途中、腰の刀を鞘ごと抜き、二人ずつ所作を合わせる場面がある。

祖父祖母の舞では、翁と媼の面を着けた男児二人が舞う。瓊矛の舞は納曽利の面を着けた青年一人が幣を受け取って舞うもの。締めくくりの閻浮の舞もまた一人舞で、はじめは陵王の面に笏を持ち、次に納曽利の面に扇を持って舞う。

閻浮の舞が終わると、見物の人びとはただ拍手するのではない。舞台へと身を寄せ、舞人の花笠から花を競って取り合い、家に持ち帰る。花がすべて取り尽くされたとき、その年のチョウクライロ舞は幕を閉じる。

小滝のまわり

金峰神社は奈曽川の渓谷にほど近く、少し歩けば奈曽の白滝に出る。老杉の間に懸かるこの滝は、背後に鳥海山を望み、昭和七年(一九三二年)に国の名勝に指定された。季節にはツツジや藤が彩る。深い樹林の下を刻む奈曽渓谷は、上流で鳥海山五合目の鉾立の展望へとつながっていく。

海側に下れば象潟がある。かつては松島と並び称された景勝の地で、点在する島々で知られた。文化元年(一八〇四年)の大地震が海底を隆起させ、潟は陸地に変わった。いま残る松に覆われた小さな丘は、松尾芭蕉が奥の細道の旅で眺めた島々の名残である。聖なる山と川と海が出会うこの一帯を巡るなら、小滝は無理なく立ち寄れる一点となる。

Q&A

Qチョウクライロ舞はいつ、どこで見られますか。
A年に一度、五月最終土曜日に、にかほ市象潟町小滝の金峰神社境内で奉納されます。神社例大祭の神事に続いて行われ、おおむね十一時すぎに始まりますが、神事の進行により時刻は前後します。雨天時は近くの伝承館に会場を移します。
Q「チョウクライロ」とはどういう意味ですか。
A地元では、長く久しく生きる姿を表す言葉と解されています。この舞は長寿を祈る寺院芸能である延年の一例であり、名称とその祈りの内容がよく重なり合っています。
Qなぜあの土の舞台でなければならないのですか。
Aチョウクライロ山、閻浮台と呼ばれるこの土舞台は、舞を奉納する唯一の正しい場所とされてきました。この考えは代々受け継がれており、祭礼前日の最後の稽古も、ほかの場所ではなくこの舞台で行われます。
Q現在は誰が舞っているのですか。
A小滝地区に暮らす人びとで構成される鳥海山小滝舞楽保存会が、昭和三十九年から伝承を担っています。古くは、鳥海修験に連なる関係者に担い手が限られていました。
Q小滝へはどう行けばよいですか。
A車では、日本海東北自動車道の象潟インターチェンジから県道五十八号を鳥海山方面へ進み、約六分です。公共交通機関の場合は、JR象潟駅からにかほ市コミュニティバスに乗り、奈曽滝前で下車します。所要およそ四十分です。

基本情報

名称小滝のチョウクライロ舞(こたきのちょうくらいろまい)
別称タエシトン/八講祭舞楽
所在地秋田県にかほ市象潟町小滝 金峰神社境内
指定区分国指定重要無形民俗文化財(平成十六年二月六日指定)
種別民俗芸能 延年・おこない
保護団体鳥海山小滝舞楽保存会
公開日五月最終土曜日 金峰神社例大祭にあわせて奉納
奉納の場チョウクライロ山(閻浮台)と呼ばれる約三・六メートル四方、高さ約六〇センチメートルの土舞台

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁) 小滝のチョウクライロ舞
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/302/00000776
文化遺産オンライン 小滝のチョウクライロ舞
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/137297
にかほ市公式サイト 国指定重要無形民俗文化財「小滝のチョウクライロ舞」
https://www.city.nikaho.akita.jp/soshikikarasagasu/bunkazaihogoka/gyomuannai/2/1/1805.html
秋田民俗芸能アーカイブス 小滝のチョウクライロ舞
https://www.akita-minzoku-geino.jp/archives/ja/578/

最終更新日: 2026.05.23