杣山城跡 ― 越前の玄関口を守った中世の山城

標高492メートルの杣山の山頂に立つと、南越盆地の南端が眼下に広がる。日野川の狭い谷、かつて軍勢が越えた木ノ芽峠への道、そして山麓に営まれた城下の跡。福井県南越前町の杣山城跡は、越前国への入口を二世紀以上にわたって見張りつづけた中世の山城の遺構である。

この城は天守や石垣を備えた近世の城郭ではない。山そのものを防御に用いた山城であり、珪岩の尾根は北東面が切り立った岩肌をなす。あまりに険しいため、登ってきた犬も馬も引き返したという言い伝えがあるほどだ。十四世紀の武士たちはこの天然の地形を生かして戦い、ここで起きた出来事は軍記『太平記』にも書きとめられた。

荘園から生まれた城

尾根に城が築かれるよりも前、この一帯は杣山庄と呼ばれる荘園であった。杣山庄の名は鎌倉時代の古文書に見え、後鳥羽上皇の生母である七条院の所領であった。安貞2年(1228)8月には上皇の後宮修明門院に譲られ、のちに大覚寺統へと受け継がれていく。中世を通じて公家関係者が知行した、公家領の荘園である。

城は鎌倉時代末期、瓜生保の父が越後からこの地に移って築いたと伝わる。築城以降、金ヶ崎・鉢伏・木ノ芽峠などの諸城とともに、越前の玄関口を形づくる城のひとつとなった。これらの城を押さえる者が、南から越前へ入る道を握ることになる。

その地の利が、城を南北朝期の激しい戦いの舞台へと押し上げた。延元元年(1336)、南朝方の新田義貞が恒良・尊良の両親王を近くの金ヶ崎城に迎え入れると、杣山城主の瓜生一族はこれを援護した。『太平記』によれば、延元2年(1337)正月、金ヶ崎城を救おうと出陣した瓜生保は、現在の敦賀市樫曲付近で討死したという。同時代の軍忠状『得江頼員軍忠状』には、その後まもなく杣山城が落城したことが記されている。

城はその後も主を替えつづけた。越前守護の斯波高経が在城し、貞治6年(1367)にこの城で病没している。斯波氏の重臣であった甲斐氏が拠って勢力を伸ばす朝倉氏と対峙したが、文明6年(1474)の日野川の合戦に敗れて城を失った。朝倉氏の時代には家臣の河合宗清が在城する。そして天正元年(1573)、織田信長の北陸攻めによって、杣山城はその役割を終えて廃城となった。

史跡としての価値

杣山城跡は昭和9年(1934)に国の史跡に指定され、昭和54年(1979)には指定範囲が追加された。保護される区域は広く、城山と山麓の城下の一部を合わせて約170ヘクタールに及ぶ。この遺跡の価値は単独の建造物にあるのではない。山頂の曲輪、谷あいの城主居館、城戸の土塁、そして山麓の城下のひろがりが、ひとつながりの防御の景観としてまとまって残っている点にある。

発掘調査がその景観に厚みを加えた。山城部分は昭和45年から50年(1970〜1975)にかけて調査・整備が行われ、山麓の居館跡は平成11年から18年(1999〜2006)に調査された。両者からは、土器・陶磁器あわせて約14万点という多くの遺物が出土している。大半は素朴な土師質土器だが、地元産の越前焼、瀬戸美濃焼、輸入品の青磁・白磁なども含まれていた。砥石や碁石、鉄刀や刀子、銅製品、銭貨、漆器までもが地中から見つかっており、これらは軍事拠点というだけでなく、人が暮らし、物が行き交った場であったことを示している。

細部にも見るべきものがある。居館跡の礎石のいくつかには、上面に「井」や「十」の字状の線刻が刻まれていた。直径1メートルあまりの円筒形をした石組みの井戸は、館が廃棄される際に礫で意図的に埋め戻されており、立ち去る者が井戸を閉じてから去ったかのような痕跡を残している。

山に登って見るべきもの

山頂には本丸が置かれ、標高492メートルの二段の台地の上にある。木ノ芽峠を越えて攻め寄せる敵を、到着するはるか前から見渡せた場所であり、城の要としての価値はここにあった。本丸を挟んで尾根の左右には二つの曲輪が連なる。南北に長い約600平方メートルの東御殿には礎石建物の跡が残り、西御殿の尾根は大小17の平坦面に分かれている。西御殿には殿池と呼ばれる池があり、かつては城の水源として使われていた。山頂近くにこうした水場が残るのは珍しい。

この山は地名のなかに伝承を抱えており、それらを辿りながら歩くこと自体が登山の楽しみとなる。姫穴は、新田義貞の妻であった勾当内侍が一時身を隠したと言われる場所だ。袿掛岩は、瓜生保の討死を聞いた夫人や女房たちが、この絶壁に袿をかけて身を投げたと言い伝えられる岩である。犬戻り駒返しは、登ってきた犬も馬も登りきれず引き返したという険しい崖で、現在は登山者がはしごを使って登る。いずれも記録された史実ではなく地域の言い伝えだが、岩肌に染みついた伝承が登路に独特の重みを与えている。

山麓の阿久和谷には、居館跡がいまも輪郭をとどめている。谷の開口部を画す一ノ城戸と呼ばれる土塁は幅約100メートル、高さ3メートルをはかり、野面積みの石積みが一部に残る。その内側には「大屋敷」、外側には「御屋敷」という字名が残り、かつての居住空間の名残をとどめている。さらに下って、城下の集落は幅約500メートル、奥行き約4キロメートルの谷を埋めていた。中央を貫く幹道は今も「百間馬場」と呼ばれ、その両側には武家屋敷の土塁が点在している。

登山と周辺

現在の杣山はハイキングの山として親しまれ、登山道はよく整備されている。登山口は北側に3か所、南側に1か所の計4か所あり、いずれの道もおよそ1時間強で山頂に達する。初めて訪れる人には、居館跡の発掘現場のそばにある第2登山口が便利だ。10台ほどの駐車場があり、休憩所とトイレも備わっている。第3登山口は「花はす温泉そまやま」のある場所で、大型の駐車場が用意されている。

4本のコースのうち、見どころを一度にめぐりたいなら姫穴コースがよい。第2登山口から居館跡を抜けて登るこの道は、姫穴・殿池・西御殿をつないでいる。犬戻り駒返しコースはより急で変化に富み、絶壁をはしごで登る箇所がある。文殊堂コースと社谷コースは長い階段が続く道だ。岩場の多い区間もあるので、歩きやすい靴で臨みたい。

現地へのアクセスもわかりやすい。最寄り駅は南条駅で、2024年の北陸新幹線敦賀延伸にあわせて旧北陸本線のこの区間を引き継いだハピラインふくいの駅である。駅から登山口までは日野川を渡って東へ数キロメートルあり、車で向かうのが現実的だ。第3登山口の温泉は、下山後に疲れた足を休めるのにちょうどよい。南越前町一帯は花はすの里としても知られ、夏には谷あいの田にはすの花が咲きそろう。

Q&A

Q山頂に城の建物は残っているのですか。
A建物は残っていません。杣山城は天守や石垣ではなく地形を頼みとした中世の山城で、天正元年(1573)に廃城となりました。現在見られるのは土塁、削平された曲輪、礎石、復元された建物の基壇などで、いずれも山頂の自然の岩のなかに位置しています。訪れる楽しみは、復元天守ではなく歴史的な景観と眺望にあります。
Q登山はどのくらい大変ですか。
A多くのコースは1時間強で標高492メートルの山頂に達し、家族連れや学校の遠足にも親しまれています。ただし岩場が急な箇所もあり、犬戻り駒返しのコースには絶壁をはしごで登る場所があります。歩きやすい靴をおすすめします。初めての方には、傾斜のゆるやかな姫穴コースが入りやすいでしょう。
Q『太平記』とのつながりは何ですか。
A『太平記』は南北朝の動乱を描いた十四世紀の軍記です。杣山城は越前の南朝方の拠点として作中に登場し、瓜生一族や新田義貞の戦いと結びついて記されています。この城跡は、そこに書かれた出来事が実際に展開した場所のひとつなのです。
Q岩や穴にまつわる伝説は本当の話ですか。
A記録された史実ではなく、地域に伝わる言い伝えです。姫穴や袿掛岩にまつわる話は何世紀も語り継がれ、南北朝の戦いに登場する実在の人物と結びついていますが、史実としてではなく、景観に感情の彩りを添える伝承として味わうのがよいでしょう。
Q訪れるのに適した時期はいつですか。
A登山に快適なのは春と秋です。新緑や紅葉とともに、盆地を見渡す澄んだ眺めが楽しめます。夏は早い時間帯の登山がよく、周辺の花はすは盛夏に見ごろを迎えます。冬は雪が積もる地域のため、寒い時期の登山はおすすめしません。

基本情報

名称杣山城跡(そまやまじょうあと)
所在地福井県南条郡南越前町阿久和ほか
指定区分国指定史跡
指定基準二(都城跡、城跡その他政治に関する遺跡)
指定年月日1934年(昭和9)3月13日/追加指定 1979年(昭和54)5月21日
指定面積約170ヘクタール
標高492メートル(本丸)
時代鎌倉時代末期〜戦国時代(天正元年・1573年廃城)
管理団体南越前町
アクセスハピラインふくい南条駅から東へ数キロメートル(登山口へは車が便利)
公開状況登山道が整備され通年見学可(冬期は積雪のため非推奨)

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)― 杣山城跡
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/1047
文化遺産オンライン(国立情報学研究所)― 杣山城跡
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/161128
国指定史跡 杣山城跡 ― 南越前町ホームページ
https://www.town.minamiechizen.lg.jp/kurasi/103/128/p001165.html
史跡 杣山城跡 ― 南越前町観光情報サイト
https://www.minamiechizen.com/spot/2903/

最終更新日: 2026.05.28