武田耕雲斎等墓

福井県敦賀市松島町、若狭湾の海岸を縁取る松林の近くに、低い方形の塚がある。慶応元年(1865年)の初めにこの地で斬首された水戸天狗党の志士353名が、ここに葬られている。塚の上には15基の墓碑が西を向いて並び、周囲を石柵が囲む。装飾はほとんどなく、その簡素さこそが、幕末の最も暗い一幕の記録として現在まで残ってきた理由でもある。

正式名称を「武田耕雲斎等墓」という。国の史跡に指定されており、墓碑の向く先には、彼らを祀るために建てられた松原神社が道を隔てて立っている。

水戸天狗党と西上の道のり

幕末の水戸藩は、藩内で二つの勢力に分裂していた。穏健な路線をとる一派と、尊王攘夷を強く主張する改革派、すなわち天狗党である。両者の対立はやがて流血を招き、元治元年(1864年)には藩の境を越えて広がっていった。

その年の秋、天狗党は藩の重臣であった武田耕雲斎を将に立て、長い西上の行軍を始めた。目的は京都へ上り、当時、禁裏御守衛総督の職にあった一橋慶喜(のちの将軍徳川慶喜)を頼って、朝廷へ尊王攘夷の志を訴えることにあった。横浜港の鎖港を主張していた慶喜に、彼らは望みを託していた。

一行は約40日をかけて中山道を進み、追討を命じられた諸藩の兵をかわしながら西へ向かった。12月、木の芽峠を越えて敦賀の地に入り、新保宿にたどり着いたところで大雪に行く手を阻まれる。周囲には加賀・会津・桑名の三藩からなる約4000の追討軍が集まっていた。その総大将は、ほかならぬ慶喜であった。これを知った一行は戦いを断念し、12月下旬、加賀藩に降伏する。

志士たちの心情をくんだ加賀藩は、彼らを敦賀の三つの寺に分けて収容し、比較的丁重に扱ったという。状況が一変したのは翌慶応元年(1865年)の1月末、身柄が幕府の役人に引き渡されてからである。800名を超える者が、海辺に並ぶ鰊蔵に押し込められた。窓は塞がれ、薄暗い蔵の中央には便桶が置かれ、足枷をはめられた人々に与えられる食事も粗末だった。雪国の真冬の寒さの中で病が広がり、処分が決まる前に命を落とす者も少なくなかった。

取り調べは数日のごく形式的なもので終わった。幕府は353名を斬首と定め、残る者を追放・流罪・水戸への送致などに処した。最初に刑場へ引かれたのは、2月4日の武田耕雲斎ら幹部25名である。処刑は来迎寺の刑場で五度に分けて行われた。敗報が届いた水戸では、対立する一派が志士たちの家族の多くを処刑し、耕雲斎の身内もその例外ではなかった。耕雲斎は刑に臨み、梅の花がはかなく散ってもその香りは残るという辞世の句を詠んでいる。後年、この句が郷里の梅とこの地を結ぶことになった。

史跡に指定された理由

353名の遺骸は、来迎寺の刑場に掘られた五つの穴に葬られた。当初は五つの土饅頭が並ぶ形で、土地の人々はここを五塚と呼んだ。慶応4年(1868年)に盛り土がなされて一つの方形の塚にまとめられ、上に15基の墓碑が立てられる。さらに大正3年(1914年)の大改修で墓碑は西向きに改められ、前後二列に配された。今日見られる姿はこのときに整えられたものである。

昭和9年(1934年)12月、約854平方メートルの墓地が国の史跡に指定された。指定の基準は「墳墓及び碑」にあたる。評価されているのは美術的な価値ではなく、記録としての重みである。天狗党の一件が結末を迎えたその現場が、別の地に移されることなく残されている。教科書では読めても目にする機会の少ない幕末の一章にとって、この墓所は数少ない物証といえる。

見どころ

15基の墓碑は、一基ずつ読み進める価値がある。うち13基には、処刑された353名の姓名が刻まれている。中央にやや大きく置かれた一基には、武田耕雲斎ら幹部24名の名がみえる。後列の二基はほかと性格が異なり、一基には行軍の途中で討ち死にした21名、最後の一基には処刑を待つ間に鰊蔵で病死した31名の名が記される。列をたどっていくと、一団が三通りの最期を迎えたことが読み取れる。

墓碑はもともと郷里の水戸の方角である東を向き、コの字型に並んでいた。1914年の改修で向きが西へ改められ、道を隔てた松原神社と向き合う形になった。低い石柵が高くした塚を囲んでいる。立派な門も装飾もないこの簡素さは、罪人として死に、のちにようやく顕彰された人々の墓所にふさわしい。

墓所の周辺

道を挟んだ正面には松原神社が建つ。水戸の志士を祭神正四位武田伊賀守以下411柱として祀る神社で、例祭は毎年10月10日に行われる。境内の梅は、水戸の偕楽園から献木されたもので、耕雲斎の辞世の句と響き合う。敦賀市と水戸市は現在、姉妹都市の関係にあり、この梅は両地を結ぶ生きたつながりになっている。

墓所の近くでは、一行が収容された鰊蔵の一棟も見ることができる。戦後の港湾工事で取り壊される予定だったが、保存を望む住民の運動により昭和29年(1954年)に神社境内へ移築され、水戸烈士記念館となった。建物は令和2年(2020年)に敦賀市の文化財に指定され、その後の移築・整備を経て、令和6年(2024年)10月、墓所のそばにガイダンス施設が開設された。鰊蔵は通常、外観のみの見学となる。

松原一帯はそれ自体が時間を割く価値のある場所でもある。日本三大松原の一つに数えられる氣比の松原が近くの海岸に広がり、敦賀の古い港町には氣比神宮をはじめとする見どころが点在する。墓所へは、JR敦賀駅からコミュニティバスの松原線または常宮線に乗り、松原公園口で下車して徒歩約3分。ぐるっと敦賀周遊バスなら松原神社で降りられる。車では北陸自動車道の敦賀インターチェンジから約13分である。

Q&A

Q武田耕雲斎とはどのような人物ですか。
A水戸藩の重臣で、1864年の西上にあたり天狗党の将に立てられた人物です。1865年初めに敦賀で最初に処刑された一人で、この墓所は、葬られた人々を代表する名として彼の名を冠しています。
Q天狗党はなぜ敦賀で最期を迎えたのですか。
A京都へ上り、一橋慶喜を通じて朝廷に志を訴えようとしていました。木の芽峠付近の大雪で新保宿に足止めされ、大規模な追討軍に包囲されます。その総大将が慶喜本人であると知り、加賀藩に降伏しました。
Q墓を間近で見ることはできますか。
A屋外の史跡で、いつでも見学できます。15基の墓碑は低い石柵に囲まれた方形の塚の上に並び、近くのガイダンス施設で歴史の説明を見ることができます。
Qこの地と梅にはどんな関わりがありますか。
A耕雲斎の辞世の句が、散ってもなお香りを残す梅の花を詠んでいます。隣接する松原神社の梅は志士たちの郷里・水戸の偕楽園から献木されたもので、晩冬に咲く静かな慰霊の花となっています。
Q周辺にはほかにどんな見どころがありますか。
A松原神社と移築された鰊蔵がすぐそばにあります。氣比の松原が近くの海岸に広がり、氣比神宮のある敦賀の港町中心部へもバスや車で短時間で行けます。

基本データ

名称武田耕雲斎等墓(たけだこううんさいとうのはか)
所在地福井県敦賀市松島町
指定区分国指定史跡(昭和9年〔1934年〕12月28日指定)
指定基準七 墳墓及び碑
指定面積約854平方メートル
墓所の構成石柵に囲まれた方形の塚の上に、西を向いた15基の墓碑
関連施設松原神社(道を挟んだ向かい)、水戸烈士記念館(旧鰊蔵)とガイダンス施設(近接)
公開状況屋外の史跡で随時見学可。記念館は通常、外観のみの見学
アクセスJR敦賀駅からコミュニティバス松原線・常宮線「松原公園口」下車徒歩約3分/北陸自動車道敦賀ICから車で約13分

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)武田耕雲斎等墓
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/1049
武田耕雲斎等墓(ウィキペディア日本語版)
https://ja.wikipedia.org/wiki/武田耕雲斎等墓
敦賀市 武田耕雲斎等墓・水戸烈士記念館(旧鰊蔵)の整備について
https://www.city.tsuruga.lg.jp/smph/kosodate/gakkokyoiku/kyoikuiinkai/bunka_shinko/kyuunishingura.html
旅する港町つるが(敦賀観光協会)武田耕雲斎等の墓
https://tsuruga-kanko.jp/spot/history_culture/takedakounsai-grave/
ふくいドットコム 武田耕雲斎等墓
https://www.fuku-e.com/spot/detail_1014.html

最終更新日: 2026.05.29