旧玉乃井旅館:津屋崎の海辺に残る唯一の木造旅館
福岡県福津市の津屋崎海岸東側に静かに佇む旧玉乃井旅館は、かつて海水浴客で賑わった津屋崎千軒地区に唯一残る木造旅館です。明治42年(1909年)に建築されたこの木造2階建の建物は、令和7年(2025年)3月13日に国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。戦前から昭和末期にかけて津屋崎の海岸線を彩った木造旅館群の面影を今に伝える、かけがえのない文化遺産です。
約90年にわたり宿泊客を迎え入れてきた旧玉乃井旅館は、現在、一般社団法人海のほとり玉乃井によって管理され、カフェやイベントスペース、月例のBARなど、地域の文化交流拠点として新たな息吹を吹き込まれています。
歴史的背景:塩の港町から海水浴リゾートへ
旧玉乃井旅館の歴史は、津屋崎というまちの変遷と深く結びついています。江戸時代から明治時代にかけて、津屋崎は周辺の塩田で生産された塩の積出港として大いに繁栄し、商家が軒を連ねる様子から「津屋崎千軒」と称されるほどの賑わいを見せていました。
しかし明治末年頃、九州鉄道の開通に伴う舟運の衰退と塩田の廃止により、港町としての活気は失われつつありました。この状況を打開するため、明治39年(1906年)に海水浴場が開設され、明治41年(1908年)には福間駅と津屋崎を結ぶ馬車鉄道が開通しました。これらの施策は大きな成功を収め、特に筑豊の炭鉱地帯からの海水浴客が津屋崎に押し寄せるようになり、「博多の奥座敷」と称される保養地としての新たな地位を確立しました。
こうした時代の潮流の中で、明治42年(1909年)に現在の旧玉乃井旅館の建物が建築されました。その後、増改築を重ねながら客室を増やし、昭和9年(1934年)に「第二島屋旅館」として正式に開業しました。昭和21年(1946年)には地元の獣医師で町議会議員も務めた安部正弘がこの建物を買い取り、「玉乃井旅館」として営業を開始。以後、平成10年(1998年)に営業を終えるまで、半世紀以上にわたり多くの宿泊客を迎え入れました。
文化財指定の理由:津屋崎の海辺の記憶を伝える唯一の証人
旧玉乃井旅館が国の登録有形文化財(建造物)に登録されたのは、この建物が津屋崎千軒地区で唯一残る木造旅館であるためです。津屋崎が海水浴リゾートとして全盛を迎えていた時代、海岸沿いには数多くの木造旅館が建ち並び、独特の海辺の景観を形成していました。しかし、観光の形態が変化する中で、これらの旅館は次々と姿を消し、最後まで残ったのが玉乃井旅館でした。
文化庁は、この建物を海水浴客で賑わった時代の津屋崎の姿を伝える貴重な歴史的建造物として評価しました。数十年にわたる増改築の痕跡は、この地域のリゾート産業の成長と変遷を建築的に物語っています。なお、福津市における国の登録有形文化財(建造物)は、旧上妻家住宅(津屋崎千軒民俗館藍の家)の主屋と井戸屋形に続き、3例目となります。
建築の見どころ
旧玉乃井旅館は、木造2階建、桟瓦葺の建物で、建築面積は約322平方メートルです。通りに東面して建ち、北東隅に玄関が設けられています。
館内は、各階の中央に東西方向の廊下が通り、その両側に客室が配置される合理的な間取りとなっています。多くの海水浴客を効率よく受け入れるための実用的な設計が見て取れます。
建物の中でも最も趣のある空間は2階南西部に配された続き間座敷です。この座敷からは、連窓を備えた広い縁側(広縁)を介して海を一望することができます。窓を開け放てば潮風が吹き込み、眼前に広がる玄界灘の眺望は、かつて宿泊客を魅了した旅館の最大の魅力を今も感じさせてくれます。
長年にわたる増改築の跡は、建物各所に異なる工法や材料として残されています。これらは建築としての一体感を損なうものではなく、むしろ旅館とともに歩んだ津屋崎の歴史を物語る貴重な証拠といえるでしょう。
安部正弘:玉乃井の名を刻んだ人物
旧玉乃井旅館の名前は、昭和21年にこの建物を購入した安部正弘(1887~1971)に由来します。安部は津屋崎で獣医業を営みながら、津屋崎町議会議員も務めた地域の名士でした。
若き日の安部は、渡半島の大峰山山頂から日本海海戦(1905年)の砲煙を目撃したことで、連合艦隊司令長官・東郷平八郎を深く敬慕するようになりました。この思いに突き動かされ、安部は私財を投じて大峰山山頂に東郷公園を建設。生涯をかけて東郷元帥の顕彰に尽力しました。この東郷公園は現在も玄界灘を望む景勝地として親しまれています。
現在の活用:生きた文化空間として
旅館としての営業終了後、建物は安部家によって維持され、現在は一般社団法人海のほとり玉乃井が管理・運営を行っています。静態的な保存施設ではなく、地域に開かれた活きた文化拠点として活用されています。
毎月第3土曜日の夜には「BAR玉乃井」が開催され、築100年を超える旅館の風情ある空間でお酒を楽しむことができます。また、予約制の貸スペースとしても営業しており、ワークショップや文化イベント、プライベートな集まりなどに利用されています。これまでに現代美術展も複数回開催されており、場所の記憶や時間の経過をテーマにした作品が、百年以上の歴史を持つ建物の中で独特の対話を生み出しています。
アクセス・見学情報
旧玉乃井旅館は、津屋崎千軒の歴史的な町並みの中に位置しており、海岸や他の文化財からも徒歩圏内です。常設の見学施設としては公開されていませんが、BAR玉乃井などの定期イベントや特別展示の際に訪問することができます。貸スペースとしての利用は予約制です。最新のイベント情報は、海のほとり玉乃井のInstagramアカウント(@uminohotori.tamanoi)をご確認ください。
交通アクセスは、JR鹿児島本線・福間駅から西鉄バスで「津屋崎千軒なごみ」バス停下車(約12分)、下車後徒歩すぐです。車の場合は、九州自動車道・古賀ICから約20分です。
周辺の見どころ
旧玉乃井旅館を訪れた際には、周辺にも魅力的なスポットが数多くあります。
津屋崎千軒の町並み:かつての塩の交易で栄えた港町の面影を残す歴史的な町並みを散策できます。国の登録有形文化財である旧上妻家住宅(津屋崎千軒民俗館藍の家)は入場無料で、明治期の商家建築を見学できます。また、国の重要文化財に指定されている豊村酒造旧醸造場施設では、明治期の酒造りの歴史に触れることができます。
宮地嶽神社:福岡県内で2番目に参拝者が多い神社で、年間約330万人が訪れます。長さ11メートル、重さ3トンの大注連縄や、日本一の大鈴、大太鼓で知られています。2月と10月には参道の先に夕日が沈む「光の道」が出現し、多くのカメラマンが訪れます。
津屋崎海水浴場とかがみの海:玄海国定公園内にある遠浅で穏やかな海水浴場です。大潮から中潮の干潮時には、広い砂浜が空を映す「かがみの海」と呼ばれる幻想的な風景が出現し、写真撮影スポットとして人気を集めています。
東郷公園・大峰山:安部正弘が建設した東郷公園は、標高114メートルの大峰山の山頂にあります。日本海海戦記念碑やキャンプ場、遊歩道が整備されており、山頂からは津屋崎の町並みと水平線を一望できます。天気が良ければ沖ノ島まで見渡すことができます。
Q&A
- 旧玉乃井旅館は見学できますか?
- 常設の見学施設としては公開されていませんが、毎月第3土曜日の夜に開催される「BAR玉乃井」や、特別展示・イベントの際に訪問することができます。また、予約制の貸スペースとしても利用可能です。最新のイベント情報は、海のほとり玉乃井のInstagram(@uminohotori.tamanoi)でご確認ください。
- どのような文化財指定を受けていますか?
- 旧玉乃井旅館は、令和7年(2025年)3月13日に国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。これは歴史的・文化的価値のある建造物を保護しつつ、実際の使用を継続することを可能にする制度です。福津市では3例目の国登録有形文化財(建造物)となります。
- 博多駅からのアクセスは?
- JR博多駅からJR鹿児島本線で福間駅まで約25分(快速利用)。福間駅前から西鉄バスで「津屋崎千軒なごみ」バス停まで約12分。バス停下車後、津屋崎千軒の町並みの中を徒歩すぐです。
- 津屋崎千軒とは何ですか?
- 津屋崎千軒(つやざきせんげん)とは、江戸時代から昭和初期にかけて塩の生産・海運で栄えた津屋崎の歴史的な港町一帯を指す通称です。「千軒」は商家が密集していた賑わいを表しています。現在も当時の面影を残す建造物が点在しており、情緒ある町並み散策を楽しむことができます。
- 入場料はかかりますか?
- イベントにより異なります。BAR玉乃井や各種文化イベントには参加費が設定される場合があります。貸スペースの利用は予約制で別途料金が必要です。詳細は、InstagramのDMまたは福津市教育委員会文化財課(電話:0940-62-5093)にお問い合わせください。
基本情報
| 名称 | 旧玉乃井旅館(きゅうたまのいりょかん) |
|---|---|
| 文化財指定 | 国登録有形文化財(建造物) |
| 登録年月日 | 令和7年(2025年)3月13日 |
| 建築年 | 明治42年(1909年) |
| 構造 | 木造2階建、桟瓦葺、建築面積約322㎡ |
| 所在地 | 福岡県福津市津屋崎4丁目1-13 |
| 所有者 | 一般社団法人海のほとり玉乃井 |
| アクセス | JR鹿児島本線 福間駅から西鉄バスで「津屋崎千軒なごみ」下車(約12分)、徒歩すぐ |
| 問い合わせ | 福津市教育委員会 文化財課 文化財係(電話:0940-62-5093) |
参考文献
- 旧玉乃井旅館 - 文化遺産オンライン
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/568801
- 国指定・登録の文化財 - 福津市
- https://www.city.fukutsu.lg.jp/bunka/kyoiku/cultural/assets/14572.html
- 旧玉乃井旅館が国の登録有形文化財(建造物)に登録されます - 福津市
- https://www.city.fukutsu.lg.jp/soshiki/bunkazai/bunkazai/2/3/16663.html
- 旧玉乃井旅館が国の有形文化財(建造物)に登録されました! - 福津市
- https://www.city.fukutsu.lg.jp/shisei/bunkazaishiteitoroku/17383.html
- 国指定文化財等データベース - 文化庁
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00015397
最終更新日: 2026.04.03