鹿毛馬神籠石——飯塚の丘に残る七世紀の古代山城
福岡県飯塚市の中央、鹿毛馬川の東岸に、馬蹄形の丘陵を一周するように切石が並んでいる。一辺がおよそ四十センチから八十センチの花崗岩で、列の総延長は約二キロメートル。石そのものは膝下ほどの高さしかなく、これだけでは敵兵を阻む壁にはならない。当然である。この石は土塁の基底部に据えられた基礎石にすぎず、本来はその上に版築の土壁が立ち上がっていた。鹿毛馬神籠石は、昭和二十年(一九四五)二月二十二日に国の史跡に指定された、七世紀築造とみられる古代山城の遺構である。平成十四年(二〇〇二)三月十九日には追加指定も受けている。北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて十六か所ほど確認されている「神籠石系山城」のひとつで、その中でも列石の保存状態は群を抜く。
立地が特異である。神籠石は通常、標高二百メートルを超える山塊に築かれるが、鹿毛馬神籠石の最高所は東端で標高七十六メートル、西側の水門部はわずか十六メートル。比高差は六十メートルほどに過ぎず、城内を一周しても一時間とかからない。それゆえ、ふつうの神籠石では植生に紛れがちな全体の縄張りが、この遺跡ではかなり明瞭に読み取れる。
記録に残らない山城——神籠石をめぐる謎
神籠石は、長らく研究者を悩ませてきた遺構である。同じ七世紀の古代山城でも、大野城・基肄城・水城のように『日本書紀』に築城記事が残るものは「朝鮮式山城」と呼ばれる。一方、神籠石系山城はそうした文献にいっさい姿を現さない。九州北部と瀬戸内海沿岸に十数か所、ほぼ共通の規格で築かれているにもかかわらず、史書はそれを語らないのである。
このため明治以降、用途をめぐっては霊域説、牧場説、山城説の三説が並び立った。決着がついたのは比較的最近のことで、昭和三十九年(一九六四)、佐賀県のおつぼ山神籠石の発掘で、列石の背後に明らかな版築土塁と、その築造時の支柱痕が確認された。これが古代山城であることをほぼ動かしがたいものにし、鹿毛馬での後続調査もこの理解を裏づけている。
時代背景は次のように整理されている。天智天皇二年(六六三)、倭・百済連合軍は朝鮮半島南西部の白村江で唐・新羅連合軍に敗北した。大陸からの侵攻を懸念したヤマト政権は、対馬から筑紫、瀬戸内沿岸へと続く防衛網の整備に乗り出す。神籠石がこの国家事業の直接の所産だったのか、それと連動する別系統の築造だったのかについては、なお議論が続いている。昭和五十八〜五十九年度(一九八三〜八四)の水門部調査で、土層から七世紀前半の須恵器甕の破片が出土しており、おおよその築造年代の手掛かりとなった。
列石をたどる——水門と版築のディテール
遺跡へは西側から入る。鹿毛馬川沿いに駐車場と案内板があり、徒歩五分ほどで発掘整備された西水門に至る。谷口を長さおよそ六十メートル、幅九メートルの土塁で塞ぐ構造で、その下には排水のための暗渠が二か所通されている。昭和二十八年(一九五三)に調査された第一暗渠と、より新しく確認された第二暗渠で、いずれも切石で内壁を組んだしっかりした造りである。
土塁の構造は調査によってかなり詳しく分かっている。前面に列石、谷奥側に背後列石を配し、その間を花崗岩の風化土(バイラン土)による版築で固める。施工時には直径約三十センチの木柱を列石前面に三メートル間隔で立てて支えとし、その間に板材を渡して土留めの堰板とした。板材の一部は長さ約三・九五メートル、幅二十五センチ、厚さわずか一・五センチで現存している。版築土圧で支柱が外側に倒れないよう、土塁の中にも控えの柱が打たれていた。この内部柱もほぼ三メートル間隔で見つかっている。
水門から尾根に上ると、列石は遊歩道に沿って延々と続く。露出整備された区間と、苔と落葉に半ば埋もれた区間が交互に現れる。東側の最高所付近では列石が確認されない区間があり、外郭の東端には土塁が築かれていなかった可能性も指摘されている。工事の未完成なのか、地形に応じた選択なのかは、まだ結論が出ていない。
現地で気づくこと
石をよく見ると、後世の城郭石垣に見られる矢穴(やあな・鉄製楔の痕)が一切ない。鉄器以前の工具、すなわち石器系の道具で切り出され整形されたものとみられる。サイズの揃いぐあいにも目が留まる。直線で長く伸びるのではなく、地形に沿って大きな弧を描いていく独特のリズムは、後代の石垣にはない古代山城ならではの表情である。
立地の意味も現地でこそ実感できる。この丘陵は、旧筑前国と旧豊前国を分ける金国山地の北端に位置し、すぐ南には両国を結ぶ烏尾峠(からすおとうげ)がある。鹿毛馬川は遠賀川水系に注ぎ、その下流は玄界灘へと続く。海と内陸を結ぶ要衝に駐屯し得る位置——その立地の論理は、個別の出土遺物以上に、神籠石を語るうえで重要な手掛かりとなっている。
周辺の見どころ
飯塚は筑豊炭田の中心都市で、その近代を象徴するのが旧伊藤伝右衛門邸である。炭鉱王・伊藤伝右衛門と歌人・柳原白蓮の旧居で、和洋折衷の壮麗な邸宅と回遊式庭園が公開されている。神籠石から車で三十分ほどの距離にある。飯塚市歴史資料館(柏の森)には鹿毛馬神籠石の出土遺物——年代決定の決め手となった須恵器破片を含む——や、列石・土塁の実物大写真パネルが展示されており、現地見学の前後に立ち寄ると理解が深まる。春には勝盛公園の桜が美しい。
足を伸ばすなら、久留米市の高良山神籠石、八女市の女山神籠石もぜひ訪ねたい。いずれも標高数百メートルの山上に築かれた、より高地型の神籠石で、鹿毛馬と同じ構築原理を異なるスケールで体感できる。
Q&A
- 見学に予約は必要ですか。入場料はかかりますか。
- 予約・入場料ともに不要です。常時開放されており、いつでも自由に見学できます。西側入口に駐車場と案内板があり、列石を巡る遊歩道が整備されています。
- 神籠石と「朝鮮式山城」はどう違うのですか。
- どちらも七世紀築造の古代山城で構造に大きな差はありませんが、『日本書紀』など史書に築城記事のあるもの(大野城・基肄城など)を「朝鮮式山城」、記載のないものを「神籠石系山城」と呼び分けています。両者が同一の事業によるものか別系統かは、現在も研究上の論点です。
- 見学にはどれくらい時間がかかりますか。
- 水門部と主要列石を回るだけなら約一時間、東側の尾根まで含めて一周すると二時間程度です。山道部分があるため、歩きやすい靴でお越しください。雨上がりは足元が滑りやすくなります。
- 土塁の構造は現地で確認できますか。
- かつての版築土塁本体は失われていますが、西水門部分では発掘調査後に土層断面が露出展示され、版築の層と支柱の位置が観察できるようになっています。土塁の構造を直接実感できる貴重なポイントです。
- 見学に最適な季節はいつですか。
- 晩秋から早春にかけてが見学しやすい時期です。葉が落ちて列石の連なりが見通しやすく、気候も歩行に向いています。盛夏は湿気が強く、梅雨期は遊歩道がぬかるみますので、足元の備えを十分にしてください。
基本情報
| 名称 | 鹿毛馬神籠石(かげのうまこうごいし) |
|---|---|
| 指定区分 | 国指定史跡 |
| 指定年月日 | 昭和二十年(一九四五)二月二十二日/追加指定 平成十四年(二〇〇二)三月十九日 |
| 時代 | 飛鳥時代(七世紀頃) |
| 所在地 | 福岡県飯塚市鹿毛馬 |
| 管理団体 | 飯塚市 |
| 遺跡面積 | 約三十六万平方メートル |
| 外郭線(復元推定) | 約一、九八〇メートル |
| 標高 | 約十六〜七十六メートル |
| 列石 | 花崗岩切石 約一、八〇〇個(四十〜八十センチ) |
| アクセス | JR筑豊本線・小竹駅から路線バスで約十分、「頴田交流センター」バス停下車徒歩約十分/駐車場あり(無料) |
| 公開 | 常時公開・無料 |
| 問い合わせ | 飯塚市歴史資料館 電話 〇九四八-二五-二九三〇 |
参考文献
- 文化遺産オンライン「鹿毛馬神籠石」(文化庁)
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/206543
- 飯塚市「国指定史跡 鹿毛馬神籠石(かけのうまこうごいし)」
- https://www.city.iizuka.lg.jp/rekishi/kakenoumakougoishi.html
- 飯塚市デジタルミュージアム 遺跡情報システム「鹿毛馬神籠石」
- https://adeac.jp/iizuka-city/texthtml/d300010/mp000010-300010/ht000590
- 福岡県の文化財「鹿毛馬神籠石」
- https://www.fukuoka-bunkazai.jp/frmDetail.aspx?db=4&id=93
最終更新日: 2026.05.16