国分瓦窯跡 ― 大宰府の甍を焼いた窯
福岡県太宰府市国分。筑前国分寺跡の北東にあたるこの一帯に、八世紀なかばごろ、屋根瓦を焼いた窯が並んでいた。国分瓦窯跡(こくぶかわらがまあと)である。ここで焼かれた瓦は、大宰府政庁や筑前国分寺、観世音寺といった、当時の九州を代表する建物の屋根を葺いた。
発掘調査では、これまでに少なくとも九基の窯が確認されている。斜面を掘り抜き、壁と天井を日干し煉瓦でアーチ状に積み上げた、地下式の登窯(のぼりがま)であった。良好に残っていた一基は、高さ約1.5メートル、間口約1.5メートル、奥行き約5.5メートルを測り、奥壁には炎を上へ抜く煙出しが二か所つくられていた。
ただし、その姿を今見ることはできない。状態のよい二基は保存のために埋め戻され、跡地は灌漑用の溜池の底に沈んでいる。池のほとりに残るのは、「史跡国分瓦窯址」と刻まれた石碑と、一枚の解説板のみ。地中の窯を思い描きながら立つ場所、と言ったほうがよい。
「西の都」を葺くために
窯の集まりがなぜ国の史跡となったのか。それは、すぐ近くに何が建っていたかを知ると見えてくる。大宰府は九州を治める役所であり、大陸との外交や交易の窓口でもあった。その政庁や寺院、防御施設のひろがりは、のちに「西の都」と呼ばれるようになる。
天平13年(741年)、聖武天皇は諸国に国分寺を置くよう詔を発した。七重塔を建て、護国の経典を納めるという、全国規模の造営である。その総本山が奈良の東大寺だった。この窯の南西に建てられた筑前国分寺は、九州(西海道)の国分寺の中心であり、天平勝宝8年(756年)までには完成していたとみられている。
これほどの造営には膨大な瓦が要る。瓦は重く、遠くから運ぶには向かない。だから工房は、瓦を使う現場のそばに置かれた。国分瓦窯は寺と政庁のいずれにも近く、ここで焼かれた瓦の文様は、奈良の平城宮から出土する瓦とよく似ている。都の建築の流儀が、そのまま九州の地に届いていたことがうかがえる。
史跡に指定された理由
国分瓦窯跡が国の史跡に指定されたのは、大正11年(1922年)10月12日。隣接する筑前国分寺跡と同じ日のことである。指定基準は、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡の区分にあたる。宮殿や寺院だけでなく、それを支えた工房もまた記録に値する、という見方がここにある。
この時代の生産遺跡は、使える形で残ることが少ない。窯は地面に掘られ、酷使され、やがて捨てられる。多くは崩れ、あるいは耕されて消えた。国分の窯のいくつかが、煉瓦の天井や奥の煙出しまで含めて調査できる状態で残っていたことは、奈良時代の瓦づくりをうかがう手がかりとなる。筑前国分寺は、基壇の化粧に瓦を用いた珍しい例として知られるが、その大量の瓦がどこで焼かれたのかを、この窯が説明してくれる。
見どころ
窯そのものは地中に封じられているため、訪問の手がかりは周辺と、国分一帯を歩くことにある。まずは池のほとりの石碑を確かめ、解説板で地下に眠る窯の配置を読みたい。
そこから歩いて二分ほどで、太宰府市文化ふれあい館に着く。この地域の遺跡に関する展示があり、入館は無料。屋外には、かつて筑前国分寺に立っていた七重塔を十分の一に復元した模型が据えられている。この瓦が葺かれるはずだった建物の高さを想像するのに役立つ。
そこから西へ少し歩けば筑前国分寺跡で、ここでは遺構の中に立つことができる。塔の中心を支えた巨大な塔心礎がそのまま残り、講堂や回廊の基壇が平面に復元されている。その基壇の大きさを目にすると、国分瓦窯が生み出した瓦の量が、にわかに具体的なものに変わる。
アクセスと周辺
窯跡は太宰府市北西の国分、四王寺山の麓にある。西鉄二日市駅や都府楼前駅からコミュニティバスやタクシーで向かうのが一般的で、目印にしやすいのは文化ふれあい館。窯跡も国分寺跡も、そこから数分の範囲にまとまっている。
半日かけてゆっくり歩く価値のある一帯だ。国分寺跡の西には、筑前国分尼寺の跡が残る。さらに足を延ばせば、南東約1キロの大宰府政庁跡(特別史跡)、古い梵鐘で知られる観世音寺、長大な土塁の水城跡といった、古代の「西の都」の中核が点在する。太宰府天満宮とあわせ、これらは日本遺産「古代日本の『西の都』~東アジアとの交流拠点~」の構成資産でもある。
Q&A
- 実際の窯を見ることはできますか。
- できません。状態のよい二基は保存のため埋め戻され、跡地は灌漑用の溜池の底に沈んでいます。見られるのは石碑と解説板で、窯そのものは目にできません。
- ここでは何が焼かれていたのですか。
- 屋根瓦です。八世紀なかば、大宰府政庁・筑前国分寺・観世音寺など、大宰府周辺の主要な建物のために焼かれました。瓦の文様は奈良の平城宮のものとよく似ています。
- 窯はどのような構造でしたか。
- 斜面を掘り抜き、壁と天井を日干し煉瓦でアーチ状に積んだ地下式の登窯です。良好な一基は奥行き約5.5メートル、高さ・間口とも約1.5メートルで、奥に煙出しがありました。
- 何も見えないのに、訪ねる意味はありますか。
- 国分一帯を歩く際の一つの立ち寄り先と考えるのがよいでしょう。近くの文化ふれあい館や筑前国分寺跡で実物の遺構を見れば、窯の役割がはっきりと結びついてきます。
- いつから保護されているのですか。
- 大正11年(1922年)、隣接する筑前国分寺跡と同じ日に国の史跡へ指定されました。
基本情報
| 名称 | 国分瓦窯跡(こくぶかわらがまあと) |
|---|---|
| 所在地 | 福岡県太宰府市国分 |
| 指定区分 | 国指定史跡(大正11年〔1922年〕10月12日指定) |
| 時代 | 奈良時代・八世紀なかばごろ |
| 種別 | 瓦窯跡(地下式の登窯群) |
| 確認された窯 | 少なくとも9基。うち2基を埋め戻して保存 |
| アクセス | 太宰府市文化ふれあい館のそば。西鉄二日市駅・都府楼前駅からコミュニティバスまたはタクシー |
| 見学 | 窯は見学不可。池のほとりに石碑と解説板 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/2606
- 市内の指定文化財 史跡(太宰府市)
- https://www.city.dazaifu.lg.jp/site/bunkazai/2379.html
- 歴史の散歩道 国分瓦窯跡(太宰府市文化ふれあい館)
- https://dazaifu-bunka.or.jp/info/spot/detail/14
最終更新日: 2026.05.29