下呂の田の神祭 — 飛騨路に春を告げる、中世から続く豊作祈願の神事

岐阜県下呂市、日本三名泉のひとつとして名高い下呂温泉の中心地に、五百年とも伝えられる古式ゆかしい祭礼が息づいています。正式名称を「下呂の田の神祭(げろのたのかみまつり)」といい、地元では色鮮やかな花笠を被って舞う姿から「花笠まつり」の愛称で親しまれています。1981年(昭和56年)に国の重要無形民俗文化財に指定されたこの祭りは、中世の田楽芸能の姿を今に伝える稀有な民俗行事として、毎年「飛騨路に春を告げる祭り」として全国から注目を集めています。

祭りの舞台と概要

祭りの舞台となるのは、下呂市森地区の鎮守である森水無八幡神社(もりみなしはちまんじんじゃ)です。通称「森八幡神社」とも呼ばれ、下呂温泉街の白鷺橋や下呂市役所のすぐ近くに鎮座しています。創始年代ははっきりしませんが、地元の言い伝えでは約五百年前から続くとされ、稲の豊作をあらかじめ祝う「予祝(よしゅく)」の行事として営まれてきました。

その芸能の源流は、中世以来の「田遊び(田楽)」にあるとされます。田遊びとは、一年の稲作の全工程を年の始めに儀礼として演じることで、神を喜ばせ、その年の豊作を約束させようとする予祝芸能で、かつては日本各地で行われていました。下呂の田の神祭は、その典型的な姿を現代まで保ち続けている貴重な事例です。

明治初年までは旧暦1月14日に斎行されていましたが、現在は新暦に合わせて2月7日から14日まで、八日間にわたって祭事が執り行われます。

祭事の日程

2月7日、「神主(テテ)頼みの儀」によって祭りの幕が開きます。これは祭りの中心となる神主役(テテ)に正式に依頼を行う儀式で、ここから祭りに向けた一週間の準備が始まります。期間中、祭りを構成する4つの「笠組」では、踊り子が被る色鮮やかな花笠(寄進笠)が手作りされ、しめ縄ない、踊り子の決定など、さまざまな前行事が進められていきます。

2月13日の夜には「試楽祭(しんがくさい)」が森水無八幡神社で行われます。凍てつく寒さの中、田口家・神主・踊り子たちが禊(みそぎ)を行ったのち、神社境内で厳かな雰囲気のうちに古式の舞が披露されます。雪明かりと篝火に照らされた境内で繰り広げられる舞は、静謐で神々しく、訪れる者の心を打ちます。

そして迎える2月14日が「本楽祭(ほんがくさい)」。下呂温泉合掌村の池で禊を済ませた一行は、しらさぎ座で獅子舞「別れの舞」を奉納したのち、約200人の御旅行列をなして森水無八幡神社へと向かいます。踊り子や獅子、神主など、色とりどりの衣装をまとった行列が温泉街を練り歩く光景は、まさに祭りの華といえるでしょう。

なぜ重要無形民俗文化財に指定されたのか

下呂の田の神祭は、1981年(昭和56年)1月21日付で国の重要無形民俗文化財に指定されました。文化庁が指定理由として挙げているのは、主として次の三点です。

第一に、初春の予祝行事である「田遊び」の芸系を色濃く伝えていること。本祭では、中央に大太鼓を据え、踊り子が柄鍬餅(えくわもち)を振りかついで大太鼓の面を打つという、典型的な田遊びの所作が今もそのまま継承されています。さらに踊り子は花笠を冠ってささらを擦りながら「冬の歌」「春の歌」「鶯の歌」を順に唱和し、鶯の歌の三首目が終わると同時に花笠を懐に納め、片肌をぬいで田打、田植、稲刈、穂刈、穂摺落(ほすりおとし)といった農作業の所作を演じます。これは一年の稲作のすべてを舞のなかに凝縮させたもので、田遊び芸能の完成形のひとつといえる構成です。

第二に、地方的特色が顕著であること。山間部で稲作の規模が決して大きいとはいえない飛騨地方において、これほど整った田遊び芸能が伝承されていること自体が極めて珍しく、地域文化史的に大きな価値があります。文化遺産オンラインの解説でも「飛騨地方には珍しく古風な田遊びの一種としてよく伝承されており、地方的特色の顕著なものとして価値が高い」と評価されています。

第三に、附随する獅子舞も型がよく整っていること。獅子唄には独特の哀調があり、芸能としての完成度の高さが認められています。なお国の重要無形民俗文化財に指定される以前の1971年(昭和46年)11月11日には、すでに「下呂の田の神祭の芸能」として記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選定されており、長年にわたり国レベルの保護対象とされてきました。

祭りの魅力と見どころ

色鮮やかな花笠(寄進笠)

祭りの代名詞ともいえるのが、踊り子たちが冠る花笠(寄進笠)です。赤・ピンク・白・緑の和紙で作られた花々で飾られたこの笠は、毎年祭りの数週間前から、4つの笠組によって一つひとつ手作りされます。凛と冷えた飛騨の空気の中、その鮮やかな色彩はひときわ印象的に映ります。

クライマックスの「笠奪い」

本楽祭の最大の見せ場が、笠投げの櫓(やぐら)から観衆に向かって花笠・赤白団子・小竹箸(コイ箸)が一斉に投げられる場面です。観衆はこれを我先にと奪い合い、その熱気は祭場を包み込みます。地元では、寄進笠を手に入れた者はその一年を幸せに過ごすことができると伝えられており、参加者の真剣さもまた格別です。

哀調を帯びた獅子舞

この祭りに伴う獅子舞は、型が整っていることに加え、その獅子唄が哀調を帯びていることでも知られています。とりわけ下呂温泉合掌村のしらさぎ座で披露される「別れの舞(獅子別れの舞)」は、本祭への出発前に行われる重要な儀式で、しめやかで美しい場面として印象に残ります。

御旅行列の壮観

2月14日午後、下呂温泉合掌村から森水無八幡神社まで、約200人の参加者が色とりどりの衣装をまとって練り歩く御旅行列は、撮影スポットとしても人気を集めています。沿道から間近に行列を見ることができ、初めて訪れる方にも祭りの全体像を体感していただける場面です。

祭りの舞台・森水無八幡神社について

森水無八幡神社は、もともと猿田彦命や須佐之男命を祀る神社であったと推測されています。一説には、下呂郷湯之島村に鎮座していた猿田彦命の社が現在地に遷座して「松森神社」と改称し、戦国時代には三木良頼によって八幡神が合祀されて「八幡神社」と改められたと伝えられています。江戸時代には下呂郷六か村の総社として崇敬を集め、明治時代以降は森村の村社となりました。

この神社が特筆されるのは、収蔵庫に納められている十体の木造神像群の存在です。像高30〜60センチほどのこれらの神像は、平安時代から室町時代にかけて造られたものとされ、国の重要文化財に指定されています。祭りの時期以外に下呂を訪れる文化財愛好家にとっても、価値ある参拝先となっています。

祭りとあわせて楽しむ下呂温泉の周辺情報

祭りの開催地である下呂温泉は、群馬の草津温泉・兵庫の有馬温泉と並んで「日本三名泉」に数えられる名湯です。祭りの厳しい寒さの中に立った後、ゆっくりと湯に浸かることは、訪問の最高のしめくくりとなるでしょう。

下呂温泉合掌村

本楽祭の出発地である下呂温泉合掌村は、白川郷などから移築された10棟の合掌造り民家が並ぶ野外博物館です。なかでも旧大戸家住宅は国指定の重要文化財に指定されており、合掌造り建築の傑作として知られています。村内では陶芸体験や和紙の絵漉き体験なども楽しめ、祭りの前後の時間を過ごすのに最適です。

下呂温泉の湯

千年以上前に湯ヶ峰の山頂付近に湧き出したと伝えられる下呂温泉は、現在も多くの旅館や立ち寄り湯で楽しむことができます。温泉街には無料の足湯が点在し、飛騨川の河原にある露天風呂「噴泉地」もよく知られた名所です。

下呂発温泉博物館

温泉を科学と文化の両面から紹介する全国でも珍しい温泉専門の博物館です。寒い2月の祭り見学の合間に立ち寄れる屋内施設として、また温泉文化に触れる学びの場として、家族連れや海外からのお客様にもおすすめです。

ご来訪にあたっての実用情報

祭りはどなたでも無料で観覧することができます。本楽祭の主会場である森水無八幡神社は、下呂温泉街の白鷺橋付近に位置し、下呂温泉の主要な旅館街から徒歩圏内です。お車でお越しの場合は、近隣の市営駐車場をご利用ください。

2月の下呂は厳寒の地で、氷点下となる日も珍しくなく、降雪もしばしばあります。厚手の防寒着、手袋、帽子、滑りにくい防水靴での参拝をおすすめします。とくに2月13日夜の試楽祭は、凍てつく寒さの中で長時間屋外に立つため、使い捨てカイロなどの準備をお勧めいたします。

下呂市までは、名古屋からJR高山本線の特急ひだで約90分、高山からは約45分。下呂駅から会場までは徒歩約10分の道のりです。撮影は基本的に可能ですが、厳かな神事の場面ではフラッシュをお控えいただき、保存会のご案内に従って観覧いただくようお願いいたします。

Q&A

Q祭りはいつ開催されますか?
A毎年2月7日から2月14日までの八日間にわたって執り行われます。曜日に関わらず日付固定です。とくに見どころとなるのは、2月13日夜の試楽祭と、2月14日午後の本楽祭です。
Q「花笠まつり」と呼ばれているのはなぜですか?
A祭りの主役となる4人の踊り子が、色とりどりの和紙の花で飾られた花笠(寄進笠)を冠って舞を披露することに由来します。この花笠は祭りを構成する4つの笠組が一つひとつ手作りで仕上げており、視覚的な華やかさから「花笠まつり」の愛称が定着しました。
Q投げられた花笠は誰でも拾うことができますか?
A本楽祭のクライマックスで行われる「笠奪い」は、観衆の皆さまどなたでもご参加いただけます。花笠のほか、縁起物の赤白団子や小竹箸(コイ箸)も投げ入れられます。寄進笠を手に入れた方は、その一年を幸せに過ごすことができると古くから伝えられています。
Q写真撮影はできますか?
A基本的に撮影は可能で、中部地方でも有数の絵になる祭りとして知られています。ただし、厳かな神事の場面ではフラッシュをお控えいただき、保存会のご案内に従ってください。また、笠奪いの場面では周囲のお客様への配慮もお願いいたします。
Q2月の下呂はとても寒いと聞きますが、服装はどうすればよいですか?
A2月の下呂は氷点下になることも多く、降雪もあります。厚手のダウンコート、防寒インナー、手袋、ニット帽、滑りにくい防水靴の着用を強くおすすめします。使い捨てカイロは近隣のコンビニエンスストアで手軽に入手でき、祭り見学のあとは旅館の温泉で温まる時間が格別です。

基本情報

名称 下呂の田の神祭(別名「花笠まつり」)
指定種別 国指定重要無形民俗文化財
指定年月日 1981年(昭和56年)1月21日
保護団体 下呂の田の神祭保存会
所在地 岐阜県下呂市森(森水無八幡神社)
開催期間 毎年2月7日〜2月14日
主な祭事 神主(テテ)頼みの儀(2月7日)/試楽祭(2月13日夜)/本楽祭(2月14日午後)
踊り子 4名(地元の若者)
由来 中世以来の「田遊び(田楽)」を起源とする豊作予祝祭。約500年の伝承があるとされる
観覧料 無料
最寄駅 JR高山本線 下呂駅
アクセス JR下呂駅より徒歩約10分。近隣に市営駐車場あり

参考文献

下呂の田の神祭 — 文化遺産オンライン(文化庁)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/188842
下呂の田の神祭の芸能 — 文化遺産オンライン(文化庁)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/189122
下呂の田の神祭 — ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/下呂の田の神祭
重要無形民俗文化財 — 岐阜県公式ホームページ
https://www.pref.gifu.lg.jp/page/12321.html
田の神祭り(花笠まつり) — 下呂温泉観光協会
https://www.gero-spa.com/spot/detail_34.html
下呂の田の神祭り(通称 花笠祭り) — 下呂市公式ホームページ
https://www.city.gero.lg.jp/site/kanko/1378.html
森水無八幡神社 — ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/森水無八幡神社
2025年度春の主要イベント — 下呂市公式ホームページ
https://www.city.gero.lg.jp/site/kanko/1234.html

最終更新日: 2026.05.14