桑谷第五号砂防堰堤 ― 飛騨の山あいに静かに佇む石積みの守り手

岐阜県北部、飛騨高地の深い森のなかに、ひっそりと佇む近代日本の土木遺産があります。岐阜県飛騨市宮川町桑野にある「桑谷第五号砂防堰堤(くわたにだいごごうさぼうえんてい)」は、大正9年(1920年)に築かれた石積みの砂防堰堤で、令和の今もなお宮川流域を見守り続けている国の登録有形文化財です。同じ谷に並ぶ姉妹堰堤たちとともに、ひとたびの大災害を経て、ほぼ人力だけで築き上げられた当時の土木技術の高さと、人々の地域を守ろうとする意志を、今に伝えています。

ここは観光地として華やかに紹介される場所ではありません。しかしそれゆえに、自然と一体化した近代の土木遺産を、静かに、ゆっくりと味わいたい方にとっては、忘れがたい風景が待っています。

砂防堰堤とは何か ― なぜ第五号は特別なのか

「砂防(さぼう)」とは、土砂災害を防ぐための技術の総称です。砂防堰堤は、水を貯めるために築かれる通常のダムとは目的が異なり、山間部の渓流を流れ下ってくる石や礫、土砂を捕捉し、下流の集落や農地を土石流や鉄砲水から守る役割を担っています。山が多く、雨の多い日本において、砂防は地味ながらきわめて重要な土木分野です。

桑谷第五号砂防堰堤は、地元の自然石を一つひとつ精緻に組み上げた「空石積み(からいしづみ)」と呼ばれる工法で築かれた堰堤です。下流側には、モルタルで石を据え付けた「練石積み(ねりいしづみ)」の副堰堤が付属しており、堰堤本体の安定を補強しています。落差はおよそ4メートル。水は石の表面を滑り落ち、まるで磨かれた一枚岩のような「滑滝(なめだき)」状の流れをつくり出します。この第五号は、神通川上流部の歴史的な砂防堰堤のなかで最大の堤高を誇り、桑谷の最下流部に位置することから、上流に点在する一連の登録有形文化財群への「玄関」のような存在ともいえます。

一つの大災害が変えた地域の風景

この堰堤が築かれた理由を理解するには、大正3年(1914年)8月13日の出来事に立ち返らなければなりません。当時の吉城郡坂下村(現在の飛騨市宮川町)を集中豪雨が襲い、塩屋大谷、打保上の谷、打保下の谷、戸谷大谷、桑野大谷、小豆沢大谷、小豆沢滝谷、洞谷の八つの谷から、岩石と土砂が大量に流出しました。これらの土砂は宮川本流を堰き止め、村は一面の湖と化したと伝えられます。死者36名、流失家屋49戸、全壊7戸、半壊2戸、浸水73戸、流失した田畑74.3ヘクタール ― 一夜にして地域の暮らしが大きく揺らぐ事態となりました。

この災害を契機に、大正8年(1919年)7月から昭和5年(1930年)9月にかけて、宮川流域では国による直轄砂防事業が実施されました。桑谷第五号砂防堰堤も、その一連の事業の中で大正9年(1920年)に築かれたものです。建設には今日のような大型重機はなく、石材の切り出しから据え付けまで、ほぼすべての工程が人の手によって行われました。雨や雪、深い山中という条件下、多くの労働者の手仕事によって、堰堤群は粘り強く築き上げられたのです。

登録有形文化財としての価値

平成31年(2019年)3月29日、桑谷第五号砂防堰堤は、同じ宮川町内の桑谷・小豆沢・六郎谷の他の砂防堰堤群とともに、国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。登録基準は「国土の歴史的景観に寄与しているもの」。すなわち、地域の景観の一部として歴史を語り継ぐ存在として評価されたものです。

その価値は重層的です。第一に、大正期の土木技術 ― とりわけ、ほぼ人力のみで成し得た空石積み構造の工事技術 ― を雄弁に物語る現役の遺構である点。第二に、これらの堰堤群が、下流の神岡鉱山地域を土砂災害から守り、亜鉛・鉛・銀などの産出を通じて近代日本の重工業化を支えた、いわば「縁の下の力持ち」であった点。そして第三に、長い年月のなかで植生が回復し、堰堤が周囲の森と一体となって、自然と土木が穏やかに共存する景観をつくり上げている点です。

魅力と見どころ

細部に目を向けると、この堰堤は静かに多くを語りかけてきます。モルタルを用いずに組まれた一つひとつの石は、職人が形を見極め、向きを合わせ、隣の石と噛み合うように据えていったものです。その「噛み合い」によって堰堤全体の強度が保たれていることが、まじまじと見ているうちに伝わってきます。下流側に控える練石積みの副堰堤は、本体とは対照的にきちんと目地が通った仕上げで、二つの石積み技法の違いを同じ場所で見比べられる点も、この堰堤ならではの楽しみ方です。

水の流れもまた見どころのひとつです。堰堤の表面を滑り落ちる水は、ガラスのように平滑なシートとなり、落差4メートルの「滑滝」を形づくります。春の雪解け時には水勢が増して堰堤を覆い尽くし、秋には周囲のブナや楓が紅葉して石積みを赤や黄金色で縁取ります。古い石積みの目地には苔やシダがびっしりと張りつき、堰堤の輪郭を柔らかくほぐして、森と堰堤の境目をあいまいにしています。

余裕があれば、さらに上流の桑谷の堰堤群 ― 谷の最上流に位置する第六号などをはじめとした空石積みの堰堤たち ― へと足を伸ばしてみるのもよいでしょう。一連の堰堤を続けて目にすることで、この砂防施設群が「点」ではなく「面」として、谷全体を守る一つの大きな仕組みであったことが実感できます。

訪問について

桑谷第五号砂防堰堤は、飛騨市宮川町桑野地区の山林の中にあり、舗装路から徒歩で森を歩いて到達する場所です。観光名所のように整備された施設ではないため、ハイキングを兼ねた訪問という心構えで臨むのが良いでしょう。歩きやすい靴、季節に応じた服装、そしてクマ鈴などの装備は心強い味方となります。林道の状況や立ち入り可否は季節や天候によって変わるため、訪問前に飛騨市宮川振興事務所や飛騨市観光協会にお問い合わせのうえ、最新の情報を確認してから出かけることをお勧めします。

12月から3月にかけては積雪のため現地への接近は困難です。新緑が美しい晩春から初秋にかけてが、もっとも訪れやすい時期です。とくに11月初旬は周囲の山々が見事に紅葉し、石積みの堰堤と森の彩りとの対比が一年でもっとも鮮やかな表情を見せてくれます。

周辺の見どころ

飛騨市は、内陸日本の旅の目的地としてきわめて魅力的な土地です。車で少し南下すれば、白壁の土蔵と瀬戸川の鯉で知られる飛騨古川の町並みがあり、ユネスコ無形文化遺産に登録された「古川祭の起し太鼓と屋台行事」の舞台として全国的にも有名です。東に進めば、かつて東洋一の規模を誇った亜鉛鉱山として栄えた神岡町。鉱山閉山後の坑道跡は、現在、宇宙線観測施設「スーパーカミオカンデ」として再活用されており、その仕組みを学べる「ひだ宇宙科学館カミオカラボ」では、世界最先端の物理学を一般の方にもわかりやすく体験できます。

さらに南には、江戸時代の町並みと朝市が残る高山市があり、南西方向には合掌造り集落で世界遺産に登録された白川郷・五箇山が控えます。桑谷の砂防堰堤を起点に、自然・産業・建築の三つの文化遺産を一つの山岳地域のなかで味わう、奥行きのある旅程を組むことができます。

Q&A

Q砂防堰堤とは、いわゆる「ダム」とどう違うのですか。
A砂防堰堤は、水を貯めるのではなく、土砂や石、流木などを捕捉して下流の被害を防ぐための施設です。発電や水道用のダムとは目的が異なり、土砂災害から地域を守るために築かれます。
Qいつ築かれ、いつ文化財に登録されたのですか。
A大正9年(1920年)に築造され、その後、昭和30年代に増設工事が行われました。国の登録有形文化財には、平成31年3月29日(2019年)に登録されました。
Qこの堰堤の特に重要な点は何ですか。
A神通川上流部の歴史的砂防堰堤群のなかで最大の堤高を有することに加え、ほぼ人力のみで築かれた空石積みの構造として、大正期の土木技術を伝える現役遺構である点が高く評価されています。あわせて、周囲の自然景観と一体化した、地域の歴史的景観への寄与も大きな価値です。
Q現地まで近づくことはできますか。
A山中の林道を徒歩で進む必要があり、整備された観光地とは異なります。訪問前に飛騨市宮川振興事務所や飛騨市観光協会に最新の状況を確認し、ハイキング相応の準備を整えてからお出かけください。
Qいつ訪れるのが最適ですか。
A晩春から初秋までが過ごしやすく、特に11月初旬は紅葉が見事です。冬季は積雪のため現地に近づくことは難しく、避けたほうが安全です。

基本情報

名称 桑谷第五号砂防堰堤(くわたにだいごごうさぼうえんてい)
所在地 岐阜県飛騨市宮川町桑野
建設年代 大正9年(1920年)/昭和30年代に増設
構造 空石積み(からいしづみ)の本堰堤に、下流側に練石積み(ねりいしづみ)の副堰堤を附属。落差約4メートルの滑滝状の水流を形成。
文化財種別 登録有形文化財(建造物・土木構造物)
登録年月日 平成31年(2019年)3月29日
所有者 岐阜県
水系 神通川水系 宮川 桑谷
アクセス JR飛騨古川駅から車で約40分で宮川町地区へ。現地までは徒歩。最新の林道状況については、事前に地元自治体・観光協会へお問い合わせください。

参考文献

文化庁「登録有形文化財(建造物)の登録について」(平成30年11月16日報道発表資料・PDF)
https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/__icsFiles/afieldfile/2018/12/14/a1411175_01_1.pdf
文化遺産オンライン「桑谷第六号砂防堰堤」(関連物件の登録概要)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/413265
岐阜県公式ホームページ(砂防課)「登録有形文化財」
https://www.pref.gifu.lg.jp/page/2279.html
岐阜県公式ホームページ(文化伝承課)「登録有形文化財(建造物)」
https://pref.gifu.lg.jp/kyoiku/bunka/bunkazai/17768/index_61057.html
国土交通省 北陸地方整備局 神通川水系砂防事務所「宮川流域の災害」
https://www.hrr.mlit.go.jp/jintsu/outline/saigai/omo_saigai/miyakawa.html
岐阜県公式ホームページ(建設政策課)「飛騨地域北部の歴史的土木構造物」
https://www.pref.gifu.lg.jp/page/865.html
飛騨市公式ウェブサイト「文化財」
https://www.city.hida.gifu.jp/site/bunka/list181.html

最終更新日: 2026.05.15