鏑川を見下ろす丘に築かれた弥生のムラ

群馬県富岡市の中央部、鏑川の右岸に、南北約500メートル・東西約3キロメートルにわたって細長く延びる独立丘陵がある。地元で「離れ山」とも呼ばれるこの丘の上、標高約230メートルの平坦地と緩斜面に広がるのが中高瀬観音山遺跡である。1997年(平成9年)3月17日、国の史跡に指定された。

ここで見つかったのは寺院でも城でもなく、ムラの跡である。縄文時代から中世にかけて断続的に人が暮らした痕跡が残るが、その主役は弥生時代後期、とりわけ3世紀前半に営まれた大規模な集落だ。丘の縁は急斜面で、周囲との比高は50メートルを超える。眼下には鏑川の流域と対岸の富岡市街が一望でき、当時の住人がなぜこの高所を選んだのかを考えさせる立地である。

高速道路の建設が掘り起こした遺跡

遺跡が知られるようになったきっかけは道路だった。上信越自動車道の建設に先立ち、1989年(平成元年)から、財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団が、高速道路の通過予定地にあたる丘陵頂部の発掘調査を始めた。2年にわたる調査で、保存状態の良い竪穴住居跡や掘立柱建物跡、柵の跡が次々と姿を現し、弥生時代後期の集落であることがわかってきた。

発見は道路計画そのものを動かした。富岡市と群馬県教育委員会が遺跡の保存を求め、1990年(平成2年)、日本道路公団は当初の切土による計画を改め、丘の下をトンネルで抜ける構造へと変更した。集落の主要な遺構は、いまもこのトンネルの真上に眠っている。続く1990年と1991年には路線の外側を含めた範囲確認調査が行われ、遺跡の全容が明らかになった。国の史跡指定は1997年のことである。

なぜ国史跡に指定されたのか

調査の結果、この丘では縄文時代から中世まで断続的に人の営みがあったとわかったが、住居の数を時期ごとに数えると、ある一時期が突出している。弥生時代中期や古墳時代後期の住居はわずかで、弥生時代後期のものが他を圧して多い。長くひっそりとした集落が短期間で急激に膨張し、その後ふたたび急速に衰えていった。その変化が、住居跡の分布からはっきりと読み取れる。

この急成長と衰退こそが、考古学にとって貴重な手がかりとなる。周辺地域の発掘が進むにつれ、弥生時代後期のムラは川に近い低い段丘よりも、川から離れた高い段丘や丘陵上に多く営まれたこと、そして広い範囲に小規模なムラが点在するなかに、拠点となる大規模な集落がいくつか存在したことが見えてきた。中高瀬観音山遺跡は、その拠点的な集落の一つにあたる。集落の規模と、それを囲む防御的な施設は、弥生時代の終わりに北関東の社会がどのように形づくられ、どのような緊張のもとにあったのかを知る資料となっている。

発掘が明らかにした弥生のムラ

集落の広がりは東西約200メートル、南北約350メートルに及ぶ。確認された竪穴住居跡は140棟を超え、丘陵の平坦部や緩斜面に床面を掘り込んで建てられていた。住居は長方形で、大きさには幅がある。最も大きいもので長辺約11メートル・短辺約9メートル、小さいものは長辺約5メートル・短辺約3メートルほど。大型の住居は、ムラがもっとも密に営まれた丘の中央の平坦部に集中する。

住居の多くが火災を受けていた点も見逃せない。梁や屋根、壁に使われたとみられる炭化材が土中に残り、焼けたことでかえって良好に保存されたため、当時の住居の構造を直接うかがい知ることができる。さらに7棟の住居には、ほかではほとんど例のない特徴があった。住居の外に掘られた土坑と住居とを結ぶトンネルで、直径はおよそ50センチメートル、長いものでは4メートルを超える。その用途はいまも議論が続いている。

住居域の周りには木の柵がめぐらされていた。直径約30センチメートルの柱穴がおよそ2メートル間隔で、斜面の等高線に沿って直線的に並ぶ。柵は東側と西側の斜面で見つかり、数回の建て替えが認められる。集落の南側では、断面がV字形をした濠が掘られていた。長さ65メートル、上幅2.3メートル、深さ1.5メートルで、東西の両端は谷に向かって掘り抜かれている。

掘立柱建物は10棟。うち4棟は平坦部にあり、倉庫と考えられている。残る6棟は丘の西側の急斜面に置かれ、その一つは柵の外側、見晴らしのよい場所に建つ一間四方の小さな建物で、物見台のような施設だったと推定されている。濠の南、丘陵でもっとも高い場所には、住居から離れて方形周溝墓が一基だけ営まれていた。

出土品が伝える暮らし

出土した品々は、ムラの日常を補ってくれる。土器は弥生時代後期のこの地域に特徴的なもので、櫛描き文をもつ樽式土器と、縄文を施した在地系の赤井戸式土器が含まれる。農具・工具では石包丁や石斧があり、紡錘車は糸紡ぎが行われていたことを示す。鉄鏃・石鏃といった武器類、土製の勾玉、ガラス玉も見つかっている。武器と農工具、装身具が一緒に出土する様子は、土を耕しながらも、柵や濠が示すとおり丘の外の世界に注意を払っていた人々の姿を映している。

見学にあたって

現在の中高瀬観音山遺跡は、静かな丘である。遺構は草地や樹林の下にあり、住居や柵が地上に復元されているわけではない。富岡市は2020年(令和2年)以降、この一帯を歴史公園として整備する計画を進めており、ガイダンス施設や展望台、竪穴住居の復元、駐車場などを、史跡指定地4.7ヘクタールを含む約21.6ヘクタールの公園のなかに設ける構想がまとめられている。公園の完成前に訪れる人が目にするのは展示施設ではなく開けた丘の頂だが、弥生のムラ人をここへ引き寄せた眺めは、当時のまま残されている。

遺跡は上信越自動車道の富岡インターチェンジから西へ約1キロメートルの位置にある。鉄道では、上信電鉄の西富岡駅から徒歩でおよそ30分。一部で調査や整備が続いているため、訪問の際は事前に富岡市教育委員会へ最新の見学状況を確認しておくとよい。

富岡をめぐる

富岡には、足をのばす値打ちのある場所が多い。市を代表する名所は、世界文化遺産の富岡製糸場である。1872年(明治5年)に建てられた長大な煉瓦造の繰糸所が並び、日本の近代製糸業の出発点を今に伝える。車で少し走れば群馬県立自然史博物館があり、恐竜から地域の地質まで、この土地のはるかな過去を知ることができる。北西にそびえる妙義山の険しい岩峰の麓には、古くからの山岳信仰の地である妙義神社が鎮座する。弥生の丘での半日に、西毛の自然と歴史をめぐる一日を重ねるのは難しくない。

よくある質問

Q遺跡は見学できますか。見どころは何ですか。
A丘へは立ち入ることができますが、現在は整備の途上にあります。遺構は草木の下にあり、住居などが復元されているわけではないため、見学は展示よりも立地や眺望を味わうものになります。ガイダンス施設や復元住居を備えた歴史公園の整備が進められているので、事前に富岡市教育委員会へ確認しておくことをおすすめします。
Qなぜ高い丘の上にムラを築いたのですか。
A丘の頂からは鏑川の流域を広く見渡すことができ、急斜面に囲まれて近づきにくい場所でもありました。柵やV字形の濠、物見台とみられる建物は、防御が意識されていたことをうかがわせます。住居の多くが焼けていたことから、このムラで争いがあったのではないかと考える研究者もいます。
Q住居で見つかったトンネルとは何ですか。
A7棟の竪穴住居に、住居と外の土坑とを結ぶ直径約50センチメートルの細い通路がありました。用途ははっきりとはわかっていません。ほかの遺跡にはあまり見られない特徴で、この遺跡を特徴づけるものの一つです。
Q遺跡と高速道路はどう関わっているのですか。
Aムラは上信越自動車道の建設調査の過程で発見されました。丘を切り通すのではなく、その下をトンネルで抜ける構造に道路が変更されたため、集落の主要部は高速道路の真上に位置しています。
Q弥生時代とはどのような時代ですか。
A紀元前3世紀ごろから紀元後3世紀ごろまでの時期で、水田による稲作や金属器、新しい土器が日本列島へ広まった時代です。定住的な農耕集落や社会の階層化、遺跡によっては争いの痕跡も、この時代のものです。

基本情報

名称中高瀬観音山遺跡(なかたかせかんのんやまいせき)
所在地群馬県富岡市岡本・中高瀬
指定区分史跡(国指定)
指定年月日1997年(平成9年)3月17日
指定面積47,329.28平方メートル
時代弥生時代後期(3世紀前半)を中心に、縄文・古墳時代以降の遺構を含む
主な遺構竪穴住居跡140棟以上、掘立柱建物跡10棟、柵列、V字形の濠、方形周溝墓1基
発掘調査1989〜1990年(緊急発掘調査)、1990〜1991年(範囲確認調査)
アクセス上信越自動車道 富岡ICから西へ約1キロメートル/上信電鉄 西富岡駅から徒歩約30分

参考資料

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/576
文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/162331
富岡市「国指定史跡 中高瀬観音山遺跡について」
https://www.city.tomioka.lg.jp/www/contents/1617260931107/index.html
コトバンク「中高瀬観音山遺跡」
https://kotobank.jp/word/中高瀬観音山遺跡-1444617

最終更新日: 2026.05.22