紙本著色拾遺古徳伝〈(残闕)〉— 鎌倉期絵巻が伝える法然と親鸞の物語、無量寿寺に残る貴重な遺品

茨城県鉾田市鳥栖の静かな里にたたずむ無量寿寺。千二百年を超える歴史を刻むこの寺には、ひとつの貴重な絵巻が大切に守られています。それが、大正六年(一九一七年)に国の重要文化財に指定された「紙本著色拾遺古徳伝〈(残闕)〉」です。もとは浄土宗の開祖・法然上人の生涯を描いた九巻の堂々たる絵巻でしたが、慶長十三年(一六〇八年)の火災で大部分を焼失し、現在残された部分は一巻に仕立て直されています。鎌倉時代の大和絵の趣を今に伝え、浄土真宗の原点を物語るこの一巻は、日本の宗教史と絵画史の双方を見つめ直すうえで欠かせない作品です。

歴史的背景

「拾遺古徳伝」はもともと、鎌倉時代後期に成立した九巻の絵巻物でした。詞書(ことばがき)は正安三年(一三〇一年)、本願寺第三世覚如(一二七〇〜一三五一)の手になるものです。覚如は親鸞聖人の曽孫であり、当時、常陸国(現在の茨城県)鹿島の門徒・長井道信の依頼を受けてこの伝記を起草したと伝えられています。

題号には深い意味が込められています。「古徳」とは、徳の高い古の聖を指し、ここでは浄土宗の開祖・法然上人(一一三三〜一二一二)のこと。「拾遺」は「漏れたものを拾い集める」の意味で、それまでの法然上人の伝記が十分に伝えていなかった、法然と親鸞の親密な師弟関係を補い記すという編集方針を示しています。覚如は、親鸞こそ法然の正統な後継者であることを世に示す目的で本書を編んだのです。元亨三年(一三二三年)に絵巻として完成したことが第九巻の奥書から確認されており、鎌倉末期の伝統的な大和絵の技法を伝える優品として知られています。

無量寿寺に伝わる本巻は、もとは九巻あるいは十巻に及ぶ完本でしたが、慶長十三年の火災によって大部分を失いました。残された貴重な部分を集めて一巻に仕立て直した結果、縦四十・三センチメートル、長さ千九百七十九・八センチメートルという、二十メートル近くにもなる絵巻となりました。火難をくぐり抜けて今に伝えられる、まさに「残闕」と呼ぶにふさわしい一巻です。

重要文化財に指定された理由

本品は大正六年(一九一七年)四月五日付で国の重要文化財に指定されました。指定の根拠には、歴史的・宗教的・美術的な複数の価値が認められます。

第一に、中世日本における浄土系仏教を理解するうえでの一級の絵画資料であることです。浄土真宗の立場から編まれた最初期の法然伝として、宗派形成期における自己認識のあり方を視覚的に伝える稀有な作例といえます。これに匹敵する遺品は決して多くありません。

第二に、鎌倉時代後期の大和絵絵巻として優れた美術品であることです。筆致、構図、彩色のいずれにおいても、十四世紀初頭の絵巻物の成熟した表現を反映しています。残闕とはいえ、当初の高い造形水準をうかがうに十分な内容を留めています。

第三に、火災を経て今に伝わるその来歴自体が、本巻の価値を一層深めています。慶長の火災で多くを失いながらも、残った部分を捨てず、丁寧に仕立て直して継承してきた門徒たちの営みは、文化財保護の歴史としても重要な意味を持っています。

作品の魅力と見どころ

無量寿寺の「拾遺古徳伝」は通常公開されてはおりませんが、その内容を知ることで寺院巡りはいっそう深い意味を帯びます。残された場面には、法然上人の生涯のさまざまな出来事——宗教的な目覚め、念仏の教えの広まり、弟子たちとの交わり、既存教団の僧との対話——が描かれていたと考えられます。多くの場面に若き親鸞の姿も登場し、両者の師弟関係を視覚的に強調する独特の構成になっています。

画風の上では、鎌倉末期の大和絵に特徴的な、豊かな彩色と的確な線描がうかがえます。人物は装束や表情に細やかな配慮を見せ、室内の調度や屋外の景観も丁寧に描き分けられています。絵と絵の間に置かれた詞書の墨書もまた、絵巻物としての風格を整えています。

そして何より興味深いのは、作者覚如という人物の存在です。彼は単なる学僧ではなく、本願寺草創期の政治的・宗教的な葛藤の中心にいた人物でした。本書には、教団の系譜を確立し守ろうとする彼の強い意志が刻まれており、絵巻を読むことは、覚如の生きた時代そのものを読み解くことにもつながります。

無量寿寺へ参拝する

無量寿寺は正式には光明山無碍光院無量寿寺といい、茨城県鉾田市鳥栖の閑静な地にあります。寺伝によれば、大同元年(八〇六年)平城天皇の勅願により創建されたと伝えられる古刹です。浄土真宗との深い縁が結ばれたのは、承久三年(一二二一年)のこと。親鸞聖人がこの寺に三年間滞在し、自ら阿弥陀仏像を刻んで本尊としたといわれています。聖人は当寺を弟子の順信房信海に託し、無量寿寺は親鸞門下の関東二十四輩のうち第三番として尊崇されてきました。

「拾遺古徳伝」そのものは、中世絵巻の保存上の観点から通常は一般公開されておりません。また、令和三年(二〇二一年)一月の火災により本堂が焼失し、現在も再建に向けた歩みが続いています。それでも境内には、親鸞聖人ゆかりと伝えられる菩提樹、県指定文化財の鐘楼や大門などが残り、静謐な祈りの空気を今も湛えています。

関連作品の鑑賞を希望される方には、東京国立博物館が所蔵する「拾遺古徳伝絵巻断簡」が比較的近い形で接することのできる遺品です。また、同じ茨城県那珂市瓜連の常福寺には、元亨三年制作の九巻完本(こちらも国重要文化財)が伝わっており、浄土系仏教史にご関心のある方は併せて訪れてみる価値があるでしょう。

周辺の見どころ

鉾田市は北浦と太平洋に挟まれた茨城県南東部に位置し、無量寿寺への参拝と組み合わせて楽しめる魅力的な観光地が点在しています。

  • 東国を代表する古社・鹿島神宮は車で短時間の距離にあり、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)を祀る由緒ある神社です。
  • 太平洋に面した鉾田市の海岸は長い砂浜と新鮮な海の幸で知られ、また茨城県は全国有数のメロン産地で、季節には収穫体験も楽しめます。
  • 冬から早春にかけてはイチゴ狩りが人気で、家族連れにも好評の体験です。
  • 琵琶湖に次いで日本第二の湖である霞ヶ浦も内陸側に広がり、湖畔の散策路や帆引き舟観光が楽しめます。
  • 県都水戸市までは車で約一時間。日本三名園のひとつ偕楽園も訪問先の候補となります。

Q&A

Q「拾遺古徳伝」とはどのような絵巻ですか。
A浄土宗の開祖・法然上人の生涯を、親鸞聖人との師弟関係に重きを置いて描いた鎌倉時代後期の絵巻物です。詞書は正安三年(一三〇一年)に本願寺第三世覚如が起草し、絵巻としては元亨三年(一三二三年)に完成しました。無量寿寺に伝わるものは慶長十三年(一六〇八年)の火災後に残った部分を一巻に仕立て直した「残闕」です。
Q実際に絵巻を拝観することはできますか。
A中世絵巻物の保存上の観点から、本品は通常公開されておりません。博物館の特別展などで関連作品が展示される機会はあります。無量寿寺の境内自体への参拝は可能で、寺の歴史的雰囲気をゆっくりと味わうことができます。
Q仏教関係者でなくても訪れる価値はありますか。
Aはい。本作は鎌倉時代の大和絵絵巻として優れた美術作品であり、中世日本の宗教史を視覚的にたどる資料としても、浄土真宗形成期の貴重な記録としても高い価値を持っています。残闕として今に伝わる経緯自体が、文化財保護の歴史として一つの物語を成しています。
Q完全な形の「拾遺古徳伝」はどこかに残っていますか。
A茨城県那珂市瓜連の常福寺に、元亨三年(一三二三年)制作の九巻完本が伝えられており、こちらも国の重要文化財に指定されています。また東京国立博物館には一幅の断簡が所蔵されています。
Q無量寿寺へのアクセスはどのようになっていますか。
A寺は茨城県鉾田市鳥栖にあります。お車の場合は東関東自動車道の鉾田インターチェンジが便利です。公共交通機関では鹿島臨海鉄道の鉾田駅からタクシーまたは路線バスのご利用となります。

基本情報

名称 紙本著色拾遺古徳伝〈(残闕)〉
分類 重要文化財(絵画)/大正六年(一九一七年)四月五日指定
時代 鎌倉時代(原本は元亨三年・一三二三年成立、現在の一巻は慶長十三年・一六〇八年の火災後に再装)
形態 紙本着色 一巻
寸法 縦四十・三センチメートル、長さ千九百七十九・八センチメートル
詞書 覚如(一二七〇〜一三五一)/本願寺第三世、親鸞聖人曽孫
所有 無量寿寺(光明山無碍光院無量寿寺/浄土真宗本願寺派)
所在地 茨城県鉾田市鳥栖
公開 通常非公開

参考文献

文化遺産オンライン|紙本著色拾遺古徳伝〈(残闕)/〉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/126277
国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/884
コトバンク|拾遺古徳伝(日本大百科全書)
https://kotobank.jp/word/拾遺古徳伝-1335302
新纂浄土宗大辞典|拾遺古徳伝絵
https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/拾遺古徳伝絵
ウィキペディア|覚如
https://ja.wikipedia.org/wiki/覚如
文化遺産オンライン|拾遺古徳伝絵巻断簡(東京国立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511521

最終更新日: 2026.05.07