薬王院五輪塔:山代温泉に佇む鎌倉時代の国指定重要文化財
石川県加賀市・山代温泉の薬王院温泉寺の背後にそびえる萬松園の高台に、鎌倉時代に建立された優美な五輪塔が静かに佇んでいます。この薬王院五輪塔は、昭和32年(1957年)に国の重要文化財に指定された石造仏塔であり、日本語の「あいうえお五十音図」の創始者として知られる明覚上人の供養塔と伝えられています。
仏教の宇宙観を体現する五つの輪と、梵字で刻まれた密教の真言。温泉街のすぐそばにありながら、深い森に包まれたこの文化財は、平安から鎌倉にかけての学問と信仰の歴史を今に伝える貴重な存在です。
歴史的背景:明覚上人と五十音図の誕生
明覚上人(天喜4年〈1056年〉〜嘉承元年〈1106年〉)は、平安時代後期の天台宗の僧侶です。比叡山延暦寺に入り覚厳に師事して天台教学を学んだ後、安然(841年?〜915年?)の業績に憧れて悉曇学(しったんがく)の研鑽に励みました。悉曇学とは、古代インドのサンスクリット語(梵語)の文字と音韻を研究する学問であり、仏教経典の正確な読誦に不可欠な分野でした。
やがて明覚は加賀国の温泉寺(現在の薬王院温泉寺)に移り住み、この地を拠点として数多くの学術的著作を残しました。主な著書には『悉曇要訣』『梵字形音義』などがありますが、中でも寛治7年(1093年)に著された『反音作法』は、仮名による反切(はんせつ)の方式を解説するとともに、現存する最古の「五十音図」を収録していることで知られています。この五十音図こそ、現代の日本語教育の基礎となる「あ・い・う・え・お」の配列の原型です。
明覚は漢字の中国音とサンスクリット語の双方に精通した当代随一の学僧として尊敬を集め、後世には「悉曇学の祖」と仰がれました。彼を慕って多くの修験者や学僧がこの山代の地に集まり、温泉寺は一大学問拠点として栄えました。
重要文化財に指定された理由
薬王院五輪塔は、昭和32年(1957年)2月19日に国の重要文化財(建造物)に指定されました。指定の理由は、その卓越した芸術性と歴史的価値にあります。
この五輪塔は凝灰岩(ぎょうかいがん)を素材としており、各面には密教の中心的な仏である大日如来の真言が梵字(悉曇文字)で刻まれています。さらに、優美な蓮弁円相(れんべんえんそう)の装飾が施されており、その洗練された彫刻技法と全体の安定感のある造形から、鎌倉時代の建立と推定されています。
五輪塔の五つの部分は、古代インドに由来する密教の宇宙観における五大(ごだい)を象徴しています。下から順に、方形の地輪(ちりん・地)、円形の水輪(すいりん・水)、三角形の火輪(かりん・火)、半月形の風輪(ふうりん・風)、宝珠形の空輪(くうりん・空)で構成され、これら五つの要素が宇宙の全体と仏の法身を表現しています。
見どころと鑑賞ポイント
五輪塔は、薬王院温泉寺の本堂背後の高台に位置しています。境内から五輪塔へと続く石段の小径は「あいうえおの小径」と呼ばれ、石段の一段一段に五十音の文字が刻まれた九谷焼の陶板が埋め込まれています。明覚上人の偉業を偲びながら、文字をたどって登る道のりは、他にはない趣深い体験です。
五輪塔は長年の風化による傷みが進んでいるため、現在は覆屋(おおいや)で保護されています。それでもなお、梵字の刻銘や蓮弁の彫刻は確認でき、鎌倉時代の石工の技量の高さを窺い知ることができます。
周囲の萬松園は樹齢200年以上の巨木が林立する鬱蒼とした森で、温泉街の喧騒とは別世界の静寂に包まれています。特に秋の紅葉の季節は、赤や黄に染まる木々と石造物の対比が美しく、多くの参拝者や散策者が訪れます。
薬王院温泉寺について
五輪塔が安置されている薬王院温泉寺は、約1,300年の歴史を持つ古刹です。神亀2年(725年)、白山への登山の途上にあった行基菩薩が、霊鳥の導きにより温泉を発見したのが始まりと伝えられています。行基は薬師如来などの像を彫り、温泉の守護仏として安置しました。
山代温泉の「湯守寺」として広く信仰を集め、寺宝には平安時代初期に彫像された十一面観世音菩薩像(市指定文化財)や鎌倉時代の不動明王像をはじめ、多くの文化財を所蔵しています。朱塗りの山門と仁王門をくぐると、静かな境内に本堂・鐘堂・滝などが配されています。
毎年初夏には「菖蒲湯まつり」が催されます。これは明覚上人を慕って集まった修験者たちが、厄年の若者の無病息災を祈り菖蒲を用いて邪気を払ったことに由来するとされ、約千年の伝統を持つ行事です。
アクセス情報
薬王院温泉寺と五輪塔は、山代温泉の中心部に位置しており、総湯・古総湯のすぐ近くです。境内は無料で拝観でき、五輪塔へは日中に自由に参拝することができます。
JR加賀温泉駅からは、加賀周遊バス「キャンバス」山まわり線で「山代温泉総湯・古総湯」バス停下車、徒歩約200メートルです。また、北鉄加賀バス温泉山中線で「山代温泉」バス停下車、徒歩約350メートルでもアクセスできます。
お車の場合は、JR加賀温泉駅から約4.6キロメートル、北陸自動車道の片山津インターチェンジから約10.7キロメートル、加賀インターチェンジから約7.4キロメートルです。
周辺の見どころ
山代温泉には、五輪塔の参拝とあわせて楽しめる多彩なスポットが徒歩圏内に点在しています。
- 古総湯(こそうゆ):明治時代の総湯を忠実に復元した体験型温泉施設です。九谷焼のタイル床、ステンドグラスの窓、カランのない昔ながらの入浴スタイルで、源泉かけ流しのお湯を楽しめます。
- 総湯:山代温泉の現代的な共同浴場で、源泉100%の加水なしの温泉を広々とした浴室で味わえます。九谷焼作家による手描きタイルの壁面も見どころです。
- 九谷焼窯跡展示館:江戸時代前期の古九谷窯跡と江戸後期の吉田屋窯跡の上に建つ展示施設。九谷焼の絵付けやろくろ体験も楽しめます。
- 魯山人寓居跡いろは草庵:大正時代に山代温泉に約半年間滞在し、地元の窯元・須田菁華のもとで陶芸を学んだ芸術家・北大路魯山人のゆかりの地。当時の建物と庭園が公開されています。
- 服部神社:機織の神・天羽槌雄神(あめのはづちをのかみ)を祀る神社。108段の石段を上ると本殿があり、萬松園の紅葉の名所としても知られています。
Q&A
- 五輪塔とはどのような建造物ですか?
- 五輪塔は、密教の宇宙観に基づく五大(地・水・火・風・空)を象徴する五つの石材で構成された仏塔です。下から方形(地輪)、円形(水輪)、三角形(火輪)、半月形(風輪)、宝珠形(空輪)が積み重ねられ、宇宙の構成要素と仏の法身を表現しています。
- 明覚上人と五十音図の関係は何ですか?
- 明覚上人(1056〜1106年)は平安時代後期の天台宗の僧侶で、悉曇学(サンスクリット音韻学)の第一人者です。寛治7年(1093年)に著した『反音作法』に現存する最古の五十音図が収録されており、「あいうえお五十音図」の創始者とされています。
- 拝観料はかかりますか?
- 薬王院温泉寺の境内および五輪塔への参拝は無料です。日中であれば自由に拝観することができます。
- おすすめの訪問時期はいつですか?
- 一年を通じて拝観できますが、特に秋(11月頃)は萬松園の紅葉が見事で、石造物と彩り豊かな木々のコントラストが美しい季節です。また、初夏に行われる菖蒲湯まつりの時期もおすすめです。
- 温泉とあわせて楽しむことはできますか?
- はい。薬王院温泉寺は山代温泉の総湯・古総湯から徒歩数分の距離にあります。文化財を巡った後に温泉で寛ぐという贅沢な過ごし方が可能です。総湯と古総湯の共通入浴券もあります。
基本情報
| 名称 | 薬王院五輪塔(やくおういんごりんとう) |
|---|---|
| 指定 | 国指定重要文化財(建造物)/昭和32年(1957年)2月19日指定 |
| 員数 | 1基 |
| 時代 | 鎌倉時代(推定) |
| 素材 | 凝灰岩 |
| 所有者 | 薬王院 |
| 所在地 | 〒922-0256 石川県加賀市山代温泉18-40甲 |
| 電話番号 | 0761-76-1155(薬王院温泉寺) |
| アクセス | JR加賀温泉駅から加賀周遊バス「キャンバス」山まわり線で「山代温泉総湯・古総湯」下車、徒歩約200m。車の場合はJR加賀温泉駅から約4.6km。 |
| 拝観料 | 無料 |
参考文献
- 国指定文化財/加賀市
- https://www.city.kaga.ishikawa.jp/soshiki/sangyoshinkou/bunka_shinko/6030.html
- 薬王院温泉寺|【公式】加賀温泉郷
- https://www.tabimati.net/spot/detail_255.html
- 薬王院温泉寺|ほっと石川旅ねっと
- https://www.hot-ishikawa.jp/spot/detail_6634.html
- 山代温泉について|山代温泉観光協会
- https://yamashiro-spa.or.jp/introduction/
- 日本語「五十音図」発祥の地、山代温泉。|山代温泉観光協会
- https://yamashiro-spa.or.jp/aiueo1/
- 明覚 - Wikipedia
- https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E8%A6%9A
- 「あいうえお五十音図」の創始者 明覚上人
- https://myokaku.jp/profile/
最終更新日: 2026.03.28